第二十八章 心信
「イリス、食えるだけ食ってくれ。」
ヴァイスは職人から学んだ方法で、イリスに魔力を多く含むとされる魔肉を与えた。
開拓されていない停留所も、もちろんない未開の大海原。
頼れるのはイリスの飛び続ける体力と、飛行種の本能に導かれる勘だけだ。
地図にも示されていない海上での安全は、運に頼るしかない。
風の匂い、波の音、遠くで光る夜の星――
この先は未知の世界であり、ひとつ間違えれば取り返しのつかない結果になる。
準備できるものは限られていた。
星を頼りに、夜目の効かなくなったイリスを補助する光の魔法。
行き先を照らすことはできるが、それ以上は今の私には無理だった。
ヴァイスはイリスを信じ、この決断を下した。
これまでと同じやり方で、私たちはヴァイスとイリスに何度も助けられてきた。
水を差すのは違うと、何があっても後悔はしないと覚悟を決める。
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夜明けが訪れる。
「――俺はあると信じてる。」
「はい、イリスなら大丈夫です。」
「ヴァイスさん、行きましょう。」
不安はそれぞれにあるが、口には出さずイリスの背に乗る。
乗る前に額をイリスの身体に当て、強く信じる気持ちを伝えた。
わずかに感じた体温は、あの時と同じ温もりで、
目に見えぬ絆として心を落ち着かせてくれた。
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「ヴァイスさん!」
コリンが気づく。指し示す先に、海とは異なる影がぼんやりと見えている。
陸地の可能性が高い。
波間に反射する微かな色の違い、雲の切れ間に映る大地の影。
それを見抜くのは、経験に裏打ちされた感覚だった。
「イリス、もう少しだ。向こうだ。」
方向を定め、夕暮れが迫る中、
イリスが方向を見失わないよう声をかけ続ける。
ヴァイスの声にはイリスを労う優しさが含まれていた。
誰も言葉にはしなかったが、日が徐々に落ちる不安から覚悟はしていた。
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「ここは…人の気配がありませんね。」
「日が昇ってからだな。」
到着したのは日が落ち、薄暗くなった頃だった。
イリスがこの暗さで飛ぶのは初めてだ。
皆の期待や不安を一身に背負い、視界が奪われても飛び続けた。
信頼するヴァイスの声がイリスをここまで導いた。
今は翼を畳み、長時間飛行したことで上昇した体温を冷ますために荒い呼吸をしている。
外気を冷やし風を送り続けると、徐々に呼吸が落ち着いてきた。
しかし――
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「…魔物もいます。」
「お前の勘か…。」
魔物は気配に敏感だ。
たとえイリスが格上でも、地上では地の利を持つ魔物の方が有利だ。
夜を好む魔物にとって、身を潜めてもいない無防備な飛行種は格好の獲物でもある。
私はイリスを含め、皆がこの場を離れられない様子を見渡した。
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「これを…」
「明るいな…ここに置けるのか?」
光の魔法は白く輝き、形を変えて設置できる。
夜営地は明るく照らされ、砂浜から森の中まで視認できるようになった。
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「コリンはここに残って。行ってくる。」
「わかった。何かあったら合図を出して。」
ヴァイス抜きで魔物狩りをする際に決めた合図を確認し、森へ入る。
気配を探りながら、魔物の動きを察知する。
近くに複数の気配があった。
その元へ向かい、静かに狩る。
砂浜へ戻ると、疲労の限界を超えたイリスに大きな狼の魔肉を与えた。
魔肉の匂いを察知したのか、イリスは身体を起こし勢いよく食べる。
フォレストウォルフという徒党を組む魔物の群れだったが、
ひときわ大きな個体を狩ると、森の奥へと他の魔物は逃げていった。
ホーンラビットも私たちの食料として持ち帰った。
イリスの存在が鋭気を取り戻すと、魔物たちはそれ以上近づかなかった。
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「イリス…ありがとう。」
頷くように見えた。
その目には、昼間の不安が少し和らいだ光が宿っていた。
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翌朝。
与えた獲物の魔力で回復したイリスの背に乗り、上空から見下ろす。
民家はなく、視界の限り魔物の生息地だった。
「このまま海岸線を散策するか、やめて内陸へ行くかだな。
ここまで人里がないのは初めてだ。」
ヴァイスの経験でも、これまでの大陸と違い、
海岸線までも魔物の領域ばかりなのは異様だという。
そして、内陸へと進路を取ることを決めた。
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「こんな深い魔物の森は初めてだ。」
夜営中、ヴァイスがぼやく。
人の気配がなく、延々と魔物の森が広がっている。
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「見えたぞ。」
期待の込められたヴァイスの声。
私たちがここにたどり着いてから一ヶ月が過ぎていた。
ようやく人里が見えた。
規模は小さく、外壁で囲まれている。
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イリスは魔物であるワイバーン。
ここまで野生のワイバーンを多く見かけたが、
この大陸でワイバーンを手懐けているかは不明だ。
私たちは離れた場所でイリスから降り、徒歩で向かうことにした。
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「魔物の影響がありそうだな…。」
「何が違うのでしょう。」
「…さっぱりだ。」
ヴァイスの知識が通用しない。
だが彼はこの状況を楽しんでいた。
おどけたように肩を竦める。
これは窮地を楽しむヴァイスの癖だ。
頼もしいヴァイスを見ても、不安は拭えない。
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これまでの大陸では同じ言葉が通じた。
しかし、この地との交流があるかは不明だ。
ワイバーン便が未開拓であり、ここに来るまで海路にも船影はなかった。
街へ通じる道は土を固めたもので、
車輪の跡から馬車の存在がわかる。
近づくと、外壁には真新しい傷が目立つ。
これまでの国にはなかった特徴だった。
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「旅の者だ!」
門は閉ざされていた。
人の気配はあるが、日中に門を閉める街。
警戒されないようヴァイスが手を上げ、
門上の武装した兵士に声をかける。
門横の通用口から同じ服を着た兵士が現れた。
緊張が走る。息を詰めるような一瞬の間が、空気を重くした。
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「身分証等あるか?」
「使えるか解らんが…。」
言葉は通じるが、音階が少し異なる。
ヴァイスが見せた商人ギルドの身分証や、
私たちの身分証の存在は知られていなかった。
事情を聞きたいと扉の中へ通され、
二重構造の壁の内部の部屋に案内された。




