第八十七話 妥協の愛なんて要らない
――空気が凍った気がした。
氷室さんの温度が消えたのである。先程まで微かに見えていた表情がない。今は無表情になって俺を見ていた。
「……勝負にすら、なっていないとでも?」
俺の発言で、気分を害したのかもしれない。
感情を押し殺したような声を聞いて、ギュッと胸が痛くなった。
傷つけるつもりはない。しかし、結果的にそうなってしまうだろう。
それでも、ハッキリ言うべきだ。
彼女は本気で俺と向き合っているのだから、日和っては意味がない。
「現状はそう言わざるを得ない」
「私は――さっくんの幼馴染だよ? まさか、最上さんみたいないきなり出てきただけの子に、負けるわけ……っ」
「負けるわけ、あるから理不尽だよな」
幼馴染は噛ませ犬。
主人公に都合がいいだけの存在。
時折、圧倒的に幼馴染が強いラブコメが出ることもあるが……たいていの場合は、そうじゃない。
幼馴染が勝つラブコメなんて、予定調和と言われてしまう。
意外性が全くない。だからこそ数を減らし、淘汰され、復活して、また消えていく。幼馴染とは、そういう属性になりがちだ。
「…………」
彼女は無言だ。
深紅の瞳で、俺をまっすぐ見つめている。
まるで、真意を探るような視線だ。
その目に耐えきれなくて、思わず目をそらした。
なぜなら、彼女の無表情は……痛々しくて、見ていられなかったのだ。
「すまないな。別に、君を追い詰めたいわけではない」
悪意があるわけじゃない。
ただ、俺の言動が彼女を傷つけていることは事実だ。
一歩引いてあげた方が、氷室さんは楽な道を歩めるかもしれない。
そっちの方が、あるいは彼女にとっても都合がいい可能性もある。
何も言わずにいれば、氷室さんが悲観するような展開にならない可能性の方が高い。
だが、俺は……その上で、全て言葉にした。
「まぁ、真田が最上さんと付き合う可能性は低いから、何もしないという選択肢もある」
「……なに、それ」
「だって、最上さんが真田を好きではないからな。いくら真田がアプローチを仕掛けても、彼女が嫌がればそれ終わりだ。そのタイミングを狙って真田を慰めてやれば、氷室さんの評価は上がる」
我ながら、酷いと思う。
この言い回しが、決して慰めにならないことは理解している。
つまり、俺は今……彼女をさらに、焚きつけているのだ。
夏休み前。図書館で、最上さんにやったことと同じだ。
嫌われることは、覚悟の上で。
「『妥協』で愛されることになるかもしれないが、それでもいいんじゃないか?」
その言葉を発すると同時に、氷室さんは……強く、俺を睨んだ。
「――良くない」
間はない。
即座の否定の後、彼女は俺に対してハッキリと不快感を示すように、表情を歪めた。
「ふーん。そうやって、煽るんだ」
最上さんは許してくれた。
だが、彼女はそうじゃない。
「出会った時から薄々思っていたけど、私は――あなたが嫌いかもしれない」
嫌われる覚悟で臨んで、本気で嫌われることになって。
だが、それでもいいと思えるのが、俺の嫌なところである。
「どこか、他人事だね。自分の発言なのに」
……冷ややかな言葉は、事実だった。
俺はこの世界の住人として言葉を紡いでいない。
転生したという経緯がある以上、どうしてもふとした拍子に目線が読者になりがちだ。
それが、彼女は気に入らないようだ。
「でも、事実だから文句も言えない……たしかに、サトキンの言う通り。私は今、最上さんに後れを取っている。だから、がんばらないといけないってことでしょ?」
「その通りだ」
「何もしなければ、妥協の愛を手に入れることになる――って、言ってるよね?」
「もちろん」
「じゃあ、やるしかない。たとえあなたが嫌いだろうと、その手を借りるしかない。それくらい私は今、劣勢ということなんだよね?」
正しい現状分析に、俺は小さく頷いた。
だからこの関係を『悪魔の契約』だと表現したのである。
氷室さんは、俺の手を借りることでしか、真田の本物の愛情を手に入れることはできないのだから――。
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