鑿空
通常、冬賀学園サッカー部に所属する者の空き時間は、それこそ洒落にならない練習に費やされると決まっている。
コレがとにかく半端じゃない。
何しろ慣れないうちは、それこそ宿題や食事をする暇もなく、ただ死んだようにベッドに倒れ込むくらいだ。
中等部よりも更に苛烈になったその練習量で、文武両道を掲げる冬賀の水準に合わせて勉強にも手が抜けない。
高等部一年の最初の試練は、まず第一にどうやって自分の時間をやりくりするか、体力をつけて、山のように増えた課題をこなすそのやり方を、把握することだといっても過言ではない。
……のだが。
「ネギっちゃん、ネギっちゃん」
「……ん……」
「そろそろ起きないと予習どころか宿題も出来ないよ。その辺、ちゃんとわかってる?数学、当たるんでしょ。今日」
「……な……し?」
「はいはい。中西くんですよ。ほら、起きて。朝練まで時間もないし」
まだ眠い目をこすって枕元の時計を見れば、五時半を指していた。
起こしてくれと頼んでいたその時間だと知って、根岸はぼんやりと起きあがる。
「じゃ、俺はいつものやつに行ってくるから。宿題は机の上だから、どうしてもわかんなかったらみてもよし」
「おっけ……中西はランニング……?」
「そうそう。まだ寝ぼけてるな。ちゃんと起きて、宿題やって、シャワー浴びて。俺が戻ってくるまでにちゃんと着替えすませておくこと。練習は六時半からだから間違えないように」
「……うん。いってらっしゃい」
ジャージを身につけた中西が苦笑しながらドアの向こうへ消えるのを見届けて、根岸は起きあがる。
「…………」
中西修司。ポジションMF。
中等部からずっと、そして高等部に入学したばかりの今も、新しい顔ぶれが増えたその中では『問題児』として有名な中西は、ちょっと悪い意味で注目を浴びている存在だ。
曰く「不良」だの、「不真面目で怠け者」だの、「冷徹」だの、「女たらし」だのと散々な言われようで、おまけに本人も否定するどころか、まるで肯定するかのような振る舞いを見せるものだから、先輩や先生からも目をつけられている。
部屋が同室だと知った新しいクラスメイトからは気の毒がられ、サッカー部内でも遠巻きに見てるような連中からは「あの中西相手じゃ疲れるだろう」なんて言われているけれど。
「ホント……みんな好きなことゆーよなー……。言われてることと実際じゃ全然違うしさ……こーゆーとこ……」
机の上と言われていたノートをペラペラとめくりながら、根岸は一人呟く。
数学と何処か几帳面に書かれた大学ノートの中に並んでいるのは、五ページにもわたる数学の宿題。
それが解説付きできっちりと書かれている。
「……まあ本人性格悪いけど……どこが不真面目なんだかわかんないし……」
遠巻きに見る人から見れば、要領よく手を抜いて、チャラチャラしてるヤツに見えるし、泣き言を言うようなヤツを鼻で笑うようなところがあるけど。
やること、やるべきことを、中西はきちんとやっている。
それが根岸の知っている中西だった。
どんなに練習がきつくても、ちゃんと宿題は終わらせてある。
眠くて仕方がないだろうに、それでも彼が寝るのは自分が寝てからで、彼が起きるのは自分より先だ。
そして自主練習も欠かさない。
少なくとも根岸は今まで、中西が朝、ランニングに行かなかった日を知らない。
休みの日にフラッといなくなって、帰ってきた時には女物の香水の匂いがついてたりするけど、先輩達がするような無断外泊はしないし、そんな日でもルーティンはきっちりこなしている。
そして一番不思議なのは……どこをどうみたら彼が「冷徹」などと思えるのか、ということだ。
だって本当に「冷徹」なら。
毎朝、頼んだ時間に起こしてなんかくれないだろう。
宿題を助けてくれることだってないし、自分に気を遣ってくれることもない。
出かけた日は連絡が全くつかなくなるけど、既読スルーはしないし、電話すれば必ず折り返してくれる。
ついでに言うなら朝、こうやってマラソンに行く時、誰の邪魔にもならないようにと出来るだけ足音を立てずに玄関まで行くその姿のどこが「冷徹」なのか。
「……宿題しよっと」
とりあえず寝癖もそのままに、根岸は机へ向かう。
出来るだけ自分でやって、でもやっぱりわからないところは見せて貰うことにして。
どちらにせよ早く終わらせて、シャワーも浴びて、着替えをすませておかなければ。
中西が帰ってくるまでに。
よし、と気合いを入れて、根岸は苦手な数学の教科書を開いた。
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鑿空……根拠のない説。架空の説。