第一話:上陸
オリンター海は、まるでガラスのように透き通っていた。陽光を跳ね返すその水面を滑るように、一隻の客船が進んでいた。ノタール船六号――静かに、だが確かに、ペドラー帝国東港へと近づいていく。
「カントさん!ノタール船六号が沿岸付近に!こちらに向かってます!」
報告を受けた男が、目を見開く。
「……なんだと?ノタール船六号だと?予定より一時間も早いじゃないか!」
急に声を張り上げた。「すぐに係留作業の準備をしろ!」
命令が飛ぶと同時に、港がざわめき始めた。波の音と人の声が交錯する。
そして三十分も経たず、ノタール船六号は静かに港へ滑り込んだ。
甲板の風を胸いっぱいに吸い込んでいた男が、静かに呟く。
「ここがペドラー帝国東港か……やっと着いたな」
黒いジャージを身にまとったその男の表情には、疲れとほんの僅かな安堵が混じっていた。
前方の客から順に下船の指示が出る。乗客たちがざわめきながら動き始める中、男はまだ甲板の上に立ち尽くしていた。波の音が、遠くで鳴っていた。
桟橋のすぐ向こうに広がっていたのは、ただの港町ではなかった。
それは、見上げるほどの巨大な木造の塔――まるで都市全体が一本の巨木に変貌したかのような、不自然なほど縦に長い構造だった。
塔は港の中心に根を下ろし、空に向かってぐんぐんと伸びている。
「……あれは、街……か?」
黒いジャージの男が眉をひそめた。妙に引っかかる。何かがおかしい。
彼は近くを歩いていた、白い帽子をかぶり、右目に眼帯をつけた男に声をかけた。
「すまない、そこの白い帽子に右目が眼帯の人。そう、あなただ」
声をかけられた男は軽く振り向き、ひとつ目を細める。
「ん?なんだい?」
「名は何という?」
「カントっていうんだ。次のノタール船六号を操縦する船長さ」
そう答えたカントは、いかにも陽気な口調だった。
「カントさん、あなたに聞きたいことがある。少し付き合ってくれるか?」
「いいよ。今日はなぜかあと一時間暇だからね。付き合ってやるよ。さ、何が聞きたいんだい?」
カントは笑った。驚くほど無邪気な笑みだった。
男は迷わず尋ねる。
「あのタワーのような建物は、一体なんなんだ?」
「……ああ、あれか。あれは海上縦型港街さ」
カントは片手を塔の方へ向け、肩をすくめた。
「実はこの海、すごく浅いんだよ。だから街全体をその浅瀬の上に建てたんだ。縦にしか伸ばせなかったってわけ」
「じゃあ、あの絶壁の崖とは……関係あるのか?」
「あるさ。てっぺんから崖まで橋がかかってる。港街を通らないと、ペドラー帝国には入れないって仕組みだ」
男は黙って、もう一度塔を見上げた。あれがペドラー帝国の入り口。
「そうか、教えてくれて感謝する」
「おう!また聞きたくなったら、いつでも来てくれよな!」
陽気な声を背に受けながら、黒いジャージの男はゆっくりと歩き出した。
波打つ水面を踏みしめるように、港街へと向かう。
「……あのにいちゃん、全身黒かったなぁ。黒いジャージに黒いズボン、おまけに剣まで持って。傭兵さんかな?」
カントが桟橋に立ったまま、ぽつりとつぶやいた。
その頃、当の黒いジャージの男はというと――港街の内部で迷っていた。
まっすぐな道は少ない。階段、橋、また階段。下を見れば水面、上を見れば天井のように張り巡らされた木造の通路。そこかしこに店が並び、にぎわいとともに方向感覚を奪っていく。
「あ?また同じ店だ……もう五回目だぞ」
呟きには、ほんのりと苛立ちがにじんでいた。
魚の干物を売る屋台の匂いが漂い、どこからか笑い声が聞こえてくる。観光客らしき家族連れ、店先で威勢よく呼び込みをする少年、すれ違いざまに軽く肩をぶつけていく商人――街は生きていた。
だがその中で、男の足がふと止まる。
「……『海猫』?」
木の看板に描かれていたのは、翼のような尻尾を持つ猫の絵。そして店の名は、柔らかく海風に揺れていた。
妙に気になる。理由はない。
男は躊躇わず、その店の扉を押した。木の軋む音とともに、中の空気がふわりと流れ出てくる。潮の香りと、焙煎された豆の温かい香りが混じり合っていた。
「いらっしゃいませ」
誰かの声がした。男の目に映ったのは、陽の射し込む窓辺と、穏やかな空間だった。
「ここの店のイチオシはなんだ?」
カウンター越しに声をかけた男に、店員の少女はにこりと笑った。
「当店のイチオシは、海猫オムライスです!」
即答だった。
「じゃあ、それを頼む」
「かしこまりました!」
小気味よく返事をすると、少女はくるりと背を向け、厨房へ消えていった。
男は空いていた窓際の席に腰を下ろした。木の椅子は年季が入っていて、やや軋んだが、不思議と落ち着く。窓の外には、まだ昼の光をたたえたオリンター海が広がっている。
やがて、湯気を立てながら皿が運ばれてきた。
「海猫オムライス、お待たせしました!」
ふわふわの卵がとろりと広がり、ケチャップではなく、何か特製のソースが美しくかかっていた。男はスプーンを取り、ひと口、口に運ぶ。
「……ん、うまいな」
味の感想を言うでもなく、独り言のように、しかし確かに満足そうに呟いた。
皿をきれいに平らげると、男は再び窓の向こうに視線を送った。
青く透き通った海の、その遥か先――波打つ水面の中、何かが蠢いた。
「……ん?」
桟橋の少し沖合、水面に、ぬるりと現れた背びれ。大きい。だが鋭すぎる形ではない。
「なんだ、あの背びれは……?サメじゃないな。もしかして……」
言葉の続きを呟く前に、男は静かに立ち上がった。背びれは、まだそこにあった。
オムライスの余韻が、口の中でゆっくりと消えていく。
一方その頃、桟橋では緊張が走っていた。
「カントさん!東と西、両方向から何かが――ものすごいスピードで、こちらに接近しています!」
報告を受けたカントが、顔を引きつらせる。
「なんだと!? 一体何が近づいているんだ!?」
その瞬間、叫びかけた部下の視線が横に泳いだ。次の刹那。
大きく開いた、肉の裂け目のような口が彼の視界を覆い尽くす。
ガブッ!!
「ジュン!!」
バシャッ!!
水飛沫と一緒に、部下の名前がカントの口から絞り出される。
何もできなかった。ほんの一瞬だった。息を呑む暇さえなかった。
「くそ……!だが、あいつの姿……一瞬だけだが見えた。灰色の体……紫色のヒレ……」
言いながら、目の前の光景を頭の中で繋ぎ合わせていく。
「……もしかして、シーサーペント……!?」
それは、海に棲む凶悪なモンスター。全長二十五メートルの灰色の魚体に、全ヒレが紫という禍々しい姿。主に人魚を喰らうが、人間にも容赦はしない。
「なんで……なんでこんなところにB級モンスターが……!? とにかく避難を――」
その言葉を吐き終わる前に、巨大な口がカントの正面に現れた。
咄嗟に動けない。体が凍りつく。
(あ、死んだなこりゃ)
逃げるでもなく、迎え撃つでもなく、諦めにも似た思考が浮かんだ――その刹那。
ズバッ。
空気が断ち切られる音。そして、何かが崩れ落ちる音。
シーサーペントの巨体が、輪切りにされながらバラバラと海面へ沈んでいく。
切断面から紫の血が噴き出し、海を染めた。
カントの目の前に、一本の影が立っていた。風に揺れる黒いジャージ。あの男だった。
「……君は、さっきの……?」
男はゆっくりと振り向き、静かに言った。
「カントさん、俺の名前を言い忘れていたな。ロバート・シュウト。それが俺の名前だ」