黒猫の首輪の鈴の音が
帰り道が終わらなければいいのに。
うすぼんやりと、そんなことを思う。
夕暮れに染まった空は郷愁を誘うが、記憶のどこをひっくり返しても、赤く染まった空を懐かしむような素敵な思い出などありはしない。幼いころは空を見上げることもなければ、見上げた空を眺めるほどの余裕もありはしなかった。
それでも夕暮れに胸が締め付けられるように感じるのは、きっと人間というものが空を眺めればそんなふうに感じるように出来ているからなんだろう。
はやく帰って休みたい。
しかし、同時に帰りたくないとも思う。
帰ればまた、あっという間に時間が過ぎ、明日がくる。
はやく帰りたいけれど、もう帰りたくない。
いっそ、この帰り道が終わらなければいいのに。
駄々っ子のような思考に気を取られていると、ふいにどこからか惹きつけられる音がした。
笛、だろうか。小太鼓の軽いリズム感のある音もしてくる。
よくよく耳をすませば、人々のざわめきも聞こえてきて、私は音の出所を探し視線をさ迷わせた。
寂れた小さな神社が目につく。
しかし、人の気配はあるものの、鳥居から覗く神社に人の姿は無い。
どこかで祭りの動画でも流している、のか? でも誰が? 何のために?
つらつらと上滑りする考えをめぐらせながら私は無意識に境内へと足を運んでいる。
音は、あちらこちらから、した。
前方からはお囃子の浮足立つような和楽器の音が。
左右からは様々な出店の宣伝文句を繰り返す声が。ここでしか食べられないたこ焼き、出来立ての焼きトウモロコシ、甘くておいしいりんご飴、祭り気分の上がるお面……。
背後から子どものはしゃぐような声が近づいてきて、横を通り過ぎ、私を追い抜いて行く。
いずれも、声や音、気配だけが神社の敷地を満たしていた。
寂れた神社以外の何も見えなかった。
音だけ聞けば、明らかにここで祭りが催されているはずなのに。
四方八方から人の声や気配がする。音源が一つしかない動画などの音ではない。
私は視覚と聴覚のギャップに酔ってしまいそうだった。
目を瞑れば、かえって周囲の様子が鮮明に見えてくる。音に引っ張られて、周囲の様子が脳内で補完され、こぢんまりとしながらも活気と賑わいに満ちた祭りの風景が浮かぶ。
にいちゃん、一つどうだい?
威勢のいい声に振り向くと、イカ焼きをこちらに掲げる売り子の男が笑顔を向けてくる。海鮮と醤油の焼けるなんとも魅力的な匂いがして、口内に唾液がにじんだ。
その隣には金魚すくいの屋台があり、子どもたちがやいのやいのと言いながらポイを握り、さらにその隣には安っぽいお面がずらりと並び……。
ここだ、と私は思った。
ここが私の帰りたかった場所だ。
幼少の頃、私には友だちと呼べる相手も、勝手の知った馴染んだ土地も無かった。
親の都合であちこちを転々としていて、少し話せる相手が出来、通学路以外の道をおぼろげに覚えたころにはその土地を去る、といったことを繰り返していた。
羨ましかった。
土地に馴染んだ者同士の気の置けない仲や、地域の催しを慣れた様子で楽しむことのできる子らが。
目を瞑ったまま、私は祭りを堪能した。
目の裏では子どもがはしゃぎ、大人も日ごろの鬱憤を晴らすかのごとく騒ぎ、出店は充実して目を楽しませ、そこへお囃子が気分をさらに高揚させ、そして皆一様に私へ親しみのこもった笑顔を向けている。
せっかくの祭りなんだ、誰もかれも楽しまなきゃ損だろ。
一度に大量のお好み焼きを鉄板に並べて調理する売り子が、豪快に笑った。大量の煙に、ソースの焼ける匂い。お腹が鳴る。
私はいつも祭りに参加している人たちを羨んでいるばかりで、祭りに参加したことは無かった。共に祭りに行くような友だちもおらず、一人でぶらつくには心細いし勝手がわからない。
あの時の悲しみとも諦めともつかない感情を発散するように、私は心からこの祭りを楽しんでいた。目を瞑ると見える祭りという奇妙な状況を、なぜかすっかり受け入れていたのだ。
出店を一つ一つ眺めて回り、安っぽいが物珍しい小物や食欲をそそる食べ物の数々にわくわくしていると、境内の奥からガランゴロンと無骨で派手な音がした。そういえば、ここは神社なのに私はまだお参りをしていない。
お祭りの時にお参りもするものなのかはわからないが、せっかく来たのだからついでにしてしまうのも乙なものかもしれない。
ぶらぶらと出店をひやかしながら、音のする方へ進んでみる。
お囃子の音が徐々に遠のき、出店も減って、人の気配がなくなっていく。
鳥居がいくつも視線の先に現れ、私はその一つ一つの下をくぐっていった。
鳥居を一つくぐるたび、祭りの喧騒が遠のき、代わりにガランゴロンと大きな鈴の音が主張を強めていく。
幾つめの鳥居をくぐった時だったか、足にふにゃりとした柔らかい感触がした。
ぎょっとして、思わず目を開けてしまう。
現実の風景を目視して、私はまたもやぎょっとする。
神社にいたはずだった。
だが、ここはどう見ても森の中だ。境内にある森か? 辺りを見回すが神社は見当たらず、自分がどちらから来たのかもわからない。
どっと冷汗が出る。
ここはどこだ? かなりの距離を歩いたように感じるが、帰り道はどっちにある?
——ガランゴロン。
鈴の音がする。
ハッとして音の方へ視線を送るが、鬱蒼とした森が続くばかりで神社など見えはしない。
どうするか。音の方へ行ってみるか。
私が立ちすくんで悩んでいると、また、足に柔らかい感触があった。
恐る恐る足元を見る。が、何もない。
目を開けているから見えないのかもしれないと、矛盾した考えが浮かび、私は再び目を瞑って、足元を見ようとする。
目の裏にはお祭りも、それを楽しむ人々も、たった今くぐり抜けたばかりの鳥居さえ見えてはこなかった。
当然、足元も見えはしない。
——ガランゴロン。
目を開ける。
八方塞がりとはこのことだろう。
私は意を決して、音の方へ進んでみようと一歩足を踏み出す。
すると足元からリインと澄んだ鈴の音と、にゃあと猫の鳴き声がした。
低く茂った雑草が揺れ、私は踏み出しかけた足を慌てて引っ込める。
猫の姿は見えないけれど雑草が揺れ動くのとリインリインと鳴る鈴の音のおかげで猫が移動しているのがわかった。
突拍子もないことなのだが、私はその姿の見えない猫のことを知っていると確信した。
幼少の頃の話だ。
そこはまだ引っ越してきたばかりの土地で、土地感もなければ話しかけられるような相手もいなかった。
似たような風景の似たような道。
学校から越してきたアパートまで、そう距離があったわけではなかったのに、私は気づくと知らない道に入り込み迷ってしまっていた。
あせって歩き回れば歩き回るほどに見覚えのない光景が広がって行き、私はいよいよ自分のいる場所を見失っていく。
ここがどこなのか、どうすれば帰り道に戻って家にたどり着けるのか。
不安と焦りと疲労がピークに達し、私はとうとうしゃがみ込んで動けなくなってしまう。
にっちもさっちもいかずに泣いている私の背に、ふにゃりとした柔らかい感触がして、リインと澄んだ鈴の音がした。驚いて顔を上げると、金色の目をした黒猫がじっとこちらを覗き込んでいる。
鈴のついた首輪をしていたので、どこかの家で飼われているのだろうと思った。
猫はしばらく私を見ていたが、にゃあと一声鳴くとトコトコ歩き出し、振り返ってもう一声鳴いた。
まるでついてこいとでも言うようだった。
黒猫は少し歩いては立ち止まり、私がついてきているのを確認して、また少し歩いてはと繰り返すため、歩調はかなりゆったりとしたものだった。
そうして時間はかかったものの、黒猫は私が住むアパートまで案内してくれたのだ。
ホッとする私を、黒猫は満足げに目を細めて見つめると、お礼を言う間もなくあっという間に走ってどこかへ行ってしまい、その後いくら探しても見つけることはできなかった。
あの時の黒猫の鳴き声と鈴の音は今でもしっかり脳裏に刻み込まれている。あれは間違いなく、あの時の黒猫の鳴き声で、あの時の黒猫の首輪の鈴の音だった。
茂みは速いペースで移動をしていて、澄んだ鈴の音は弾むように鳴り続ける。
私は揺れ動く茂みを見失わぬよう必死で後を追いかけた。
途中何度も転びそうになるが、鈴の音はあの時のように私を待っていてくれはしない。背後ではまだガランゴロンと黒猫の鈴とは違う鈴の音が鳴っていた。
急斜面を駆け下りたかと思えば、いつの間にか上り坂を走っていて、複雑な道をどれほど走っただろうか。
気づけば私は、いつもの何の代わり映えもしない帰り道の途中に立ち尽くしていた。
どうして私はなんの疑問も持たず、目についた神社に立ち入ってしまったのか。
この辺りに神社なんてないというのに。
リイン。
すっかり暮れた夜空の下、澄んだ鈴の音が一度だけ聞こえた。
けれど、後はどれだけ耳を澄ませても、ただ熱っぽさのある夜風の音が聞こえるだけだった。