馬という生き物は、小動物に甘い
その後ホーネットから例の海図や商船の契約書や蝋印など、必要なものを受け取り屋敷を出た。もう二度と、この屋敷を訪れることはないだろう。
「侯爵はどうぞ、こちらの馬車に」
「ほう。これはまた何とも、趣のある」
世話になろうという人間とは思えぬ、尊大な態度。無精髭にだらしのないスーツ姿で、にやけた面がなんとも惨めで滑稽だ。見ているだけで、胸のすく思いだった。
「私とオフィーリア嬢は、馬で向かいます」
「おや、私だけ楽をしていいのでしょうかな」
「楽ではありませんよ、座面の下に身を置いていただくのですからね」
「座面の下、ですと……?」
クリストフは詐欺師のような笑みで、へらりと目を細めた。
「安全に国を建つ為ですので、どうかご容赦を」
「はぁ、仕方ありません」
ホーネットは渋々といった風で頷くと、私に視線を向ける。
「守備よくやれ、オフィーリア。これ以上、我が家の面汚しとならないよう努めるのだ」
「ご心配には及びませんわ、お父様」
クリストフの屈強な逞しい腕に手をかけながら、私は優美に微笑む。トークハットのせいで普段よりも低い位置にあるツインテールが、私の首筋をくすぐる。
「すぐに、汚れる家門もなくなりますから」
「何?声が小さ過ぎて聞き取れん」
「また船着場でお会いしましょう、と」
黒いドレスを風に靡かせながら、小さく消えゆく馬車を見つめた。オフィーリアにとっては父親でも、私にとっては違う。彼女を苦しめた罪は、サラやヘレナと共に地獄で償わせる。
「ごめんなさいね、オフィーリア」
私とて、例外ではない。貴女を守れなかった報いは、いずれ必ず受けるから。
「貴女は何も悪くないの。だからそんなに、悲しまないでちょうだい」
小刻みに震える手を握り締めたのは、私の細い指ではなく、ごつごつと節くれだった厚い掌。
「僕も一緒に、すべてを背負う」
「はっ、そんなものは必要ないですわ」
「勝手に、そうしたいだけなんだ」
「……そう」
最後の最後まで、ホーネットはオフィーリアを慈しむことなかった。そんな男の命など、少しも惜しいとは思わない。けれど慈悲深く優しい彼女の心臓は、いつまでも早鐘を打っていた。
「馬には、乗り慣れているのか?」
「オフィーリアには、許されていませんでした」
「貴女は?」
「この私に、出来ないことなどありませんわ」
さも当たり前のように言うと、彼は小さく噴き出して笑う。
「船や馬車には勝てないのに?」
「あ、あれは、時間が長過ぎるせいよ。貴方の国が遠いのが悪いの!」
「ははっ、それは悪いな」
何がおかしいのか、クリストフは愉快そうに馬の手綱を引いてこちらに寄せる。馬鹿にされた私は、思いきり眉根を寄せて唇を強く結んだ。
「ほら、綺麗だろう?貴女の瞳と同じ毛色の馬だ」
彼が連れてきたのは、引き締まった体と艶やかな榛色の美しい雄馬。黒々と輝く瞳の奥には、優しさが滲んでいる。
「あら、お前いい子ね。ほら、いらっしゃい」
鼻の辺りに指先を差し出し、匂いを嗅がせてやる。そのまま軽く撫でると、身を任せるようにゆっくりと瞬きを繰り返した。
「お前、マシューやホーネットよりずっと賢いわ。人間の良し悪しを、ちゃんと理解しているのだから」
価値のある者が、それを見抜けない人間の側にいることほど不幸なものはない。オフィーリアは、家族や婚約者に恵まれなかった。ただ一匹、美しい猫を除いては。
「私が馬なら、お前を番に選ぶだろうに。次は猫でも人でもなく、馬になれるよう神に祈ってみようかしら」
「……それはどうだろう。馬もなかなか苦労するぞ」
「少なくとも、欲まみれの貴族の娘よりはマシでしょう」
「いや、しかし草しか食えない」
私が馬になるのを阻止しようと真面目な表情でそう口にするクリストフに、私は堪らず笑みを浮かべる。
「おかしいですわ、馬に嫉妬するなんて」
「……分かっているなら、これ以上意地悪しないでくれ」
「嫌よ、貴方の困る姿ってそそるもの」
くすくすと笑いながら彼の肩に軽く手を掛けると、そのまま鎧も使わずふわりと馬の背に飛び乗った。
「さすがだ、オフィーリア」
「ふふっ、ありがとうございます」
揶揄われることを諦めたように肩をすくめるクリストフを見て、私は満足げに鼻を鳴らしたのだった。




