呆気ない命
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真上に輝く月明かりは、金というよりも赤に近かった。美しく輝くそれは、見上げる人間を虜にする。実に珍しく、艶めかしく、一度目にしたら忘れられない。
そんな素敵な夜も、この深林では意味をなさない。奥へと足を進めるたびに、どんな光も届かない闇に引き摺り込まれていく。
人の死というものは、いつも唐突にやって来る。どんな大貴族だろうが王族だろうが、それに抗うことは出来ない。けれど目の前のこれは確かに、人為的な悪意が働いている。オフィーリアはまだ、死神に選ばれた存在ではなかったというのに。
「……ヘレナ。一体、どういうことだ」
本来ならば、王子殿下であるヴィンセントがこんな深林に従者もつけず佇んでいるなど、あり得ないことだ。
凍てつく夜の寒さなど微塵も感じさせない様子で血まみれのオフィーリアの胸に抱き、眼前で震えているヘレナを睨め付けている。
「私とお前は共闘していたはずだ。オフィーリアを殺す時には、決して体を傷つけてはならないとそう約束しただろう。それにまだ、決行の日ではなかった」
「だ、だって!貴方がいつまで経っても行動を起こさないから……。だから私が暗殺者を雇って……」
「どこぞの輩にオフィーリアを殺させる気などなかった。私がこの手で、ゆっくりと首を絞めるつもりだったのに」
冷ややかな声色は、纏う空気さえ凍ってしまいそうなほどに凍てつき、仄暗い森の中でもその顔が蒼白であるとよく分かる。食いしばった唇の端から、じわりと鮮血が滲んだ。
「死の瞬間には私だけを見つめさせて、頭の天辺から足の爪先まで誰のものであるか分からせて、生を失った美しい唇に口付けをして、永遠に側に置いておくと決めていた。二人きりの空間で、オフィーリアだけに愛を囁きたかった」
「ヴィンセント様……?一体何をおっしゃって」
「お前が全て台無しにした。頭の足りない馬鹿女が、私のオフィーリアを奪った罪は、万死に値する」
ゆらりと立ち上り、がたがたと震えているヘレナを見据える。漆黒の瞳が、オフィーリアの体から溢れるどす黒い血の色に染まり、妖しく輝いていた。
「い、意味が分からないわ‼︎お姉様を殺して私を妻にしてくださると、私だけを愛してくださると、そうおっしゃったではないですか‼︎」
「お前など愛する意味がない」
「そんな……!私を騙していたのねこの悪魔‼︎」
ヘレナの金切り声は、うっそうと生い茂る木々に吸い込まれる。どれだけ涙を流そうと、湿った土に呑み込まれる。
「死をもって償え、ヘレナ」
「い、いや。こっちへ来ないで……っ‼︎」
戦慄に顔を歪めたまま、オフィーリアの妹ヘレナ・デズモンドの人生はあっけなく幕を閉じた。ヴィンセントは帯刀していた剣で彼女を切り殺し、べっとりと付着した血を振り払うこともせず、剣ごと地面へ放り捨てた。
「もっと早くこうすべきだった。オフィーリア殺害の罪を被せるつもりだったが、馬鹿を生かしておく価値はなかったな」
びくびくと痙攣を繰り返すヘレナの亡骸は、私の心を微塵も動かさない。本当に、なぜもっと早くそうしなかったのかと、先ほどのヴィンセントの呟きに大いに肯定の意を示した。