愛を捧げるのは、永遠にただ一人だけ。
実に無駄な時間を過ごしたが、やはりマシューは単純な馬鹿だった。現王も利己的な愚王であるが、すでに年老いて呆けているらしい。玉座に座り国政について語り合うよりも、今日の食事はなんだろうと涎を垂らす姿はまるで躾のなっていない犬、だと。
「お疲れ様でございました、クリストフ殿下」
淀んだ空気が充満した謁見室から解放された私は、クリストフの私室にて思いきり手足を伸ばす。そのまま前足も後ろ足も投げ出して寝転がりたくなるのを、オフィーリアの体だという理由で自重した。
「万事上手く事が運んだのですから、そう怖い顔をなさらないでください」
「……貴女は知らないだろうが、僕は兄と話す時はいつもこうだ」
「あら、でしたら勘違いですのね。私がマシュー王太子殿下に侮辱されたことに、腹を立ててくださっているのだと思ったのに」
自身の滑らかな白い肌を、そっと手の甲で撫でる。相変わらずこの男の部屋は妙に居心地の良い香りに包まれていると、思わず鼻孔をひくひくと膨らませた。
「また貴女はそうやって、情けない姿を晒す僕を見て嘲笑うんだ」
「いいえ?愛でているのですわ。戦場では負けることを知らない貴方が、私の前ではその凛々しい眉を下げて可愛らしいお顔をなさるのを」
クリストフは大袈裟に溜息を吐くと、私の隣に腰を下ろす。広々としたソファが一瞬にして窮屈になった為、身じろぎをして反抗の態度を示した。
「マシュー殿下は、自ら破滅へと進むでしょう。優秀な貴方とは違い、目先の利にまんまと飛びつくような方ですから」
私を餌に、飄々としたヴィンセントの負け面を拝んでやろうと、ほくそ笑んでいたあの男。オフィーリアに向けられた視線には、はっきりと色事への誘いが乗せられていた。
気色の悪い息遣いと、キツい香水に混ざる不快な体臭。特徴のない顔立ちをしているくせに眼光だけはいやに艶かしく、脳内のほとんどを淫欲に支配されているのだろうと思うと反吐が出る。眼前のこの男からは、ただの一度も感じたことのないもの。
「……だからこそ、タチが悪いのよ」
こと最近、やたらとオフィーリアに思いを馳せる自分に嫌気がさしている。もちろんただのひと時も忘れた瞬間などないが、より強く思い出すきっかけがクリストフに起因していることが問題なのだ。
腐った国を建て直したい、その為ならば命さえ捨てても構わないという、無意味な自己犠牲の精神。己の欲には大層鈍感で、狡猾で戦略的でありながら誠実さを失うまいと葛藤もしている。
もしもオフィーリアがこの場に存在していたならば、恋をする余裕を持ち合わせていたならば、あるいはクリストフのような男を……。
「ああ、嫌だわ!こんな想像するだけで!」
背筋をぐうっと丸めて、低く喉を唸らせる。丹念に磨かれた木製のローテブルには、瞳孔が開ききった金眼がぎらりと反射しているように見えた。
なんの脈略もなく忍気呑声の雰囲気を滲ませる私に、隣でこくりと控えめに唾を飲む音が聞こえた。
「き、気に障ったのならば謝ります」
「別に、腹など立てていませんわ」
こんな男に嫉妬するなど、本当に馬鹿げている。大体私は、耳の裏から尻尾の先にいたるまで全てをオフィーリアに曝け出した身。彼女にとっても、この私が最も愛する存在であることに間違いはなく、今後それを超える者など現れるはずがない。
「先に礼を言わなければならなかった、申し訳ない」
マシューの件で文句を垂れたことに対して激怒していると勘違いしたクリストフは、その長躯を情けなく縮こまらせながら、まるで許しを乞う幼子のような瞳でこちらを見上げている。
「貴女のおかげで、兄を失脚させる為の足掛かりが出来ました、本当にありがとうございます」
「これは互いに利のある謀ですから」
「もう怒っていない?」
「……ええ、失礼いたしました」
一瞬目を伏せた後、背筋を正す。非常に不愉快だが、クリストフを相手にすると平静を保つのが難しいと認めざるをえない。オフィーリアといいこの男といい、私は無垢な存在にめっぽう弱いらしい。
アレクサンドラとして暴挙の限りをつくしていた頃には、気が付かなかった己の弱点。私に近付く人間は、打算か恐怖か私欲か。それで構わなかったのだ、むしろ余計な感情に振り回され、なんと面倒なことか。




