不可解な苛立ちと、大型の犬
「ああ、うん。それはそうとして、話を戻そう」
「逸らしたのは私ではありませんが」
つんと顔を反らしてみても、距離が空いていないせいであまり意味をなさない。
「聞こえますか?ヘレナ・デズモンドの叫声が」
「ええ、微かにですが」
本当は、頭に響いて仕方ない。地下牢から漏れているヘレナの叫び声は、敏感な私の耳を先ほどから絶え間なく攻撃し続けていた。
「昨日までは大人しかったのに、貴女と顔を合わせてからずっとああして叫び声を上げている」
「ああ、だから心配してくださったのですね。我を失ったヘレナが鉄格子をぶち破り、私に危害を加えたのではないか、と」
案にそれはあり得ない妄想だと、にこりと微笑みながら告げる。クリストフは一瞬バツの悪そうな表情を浮かべたが、やはり私から手を離そうとはしない。
「ご覧の通り、心配には及びません。レオニルが……、いえクリストフ様が遣わしてくださった護衛の方もいらっしゃいましたし、ヘレナとは少し言葉を交わしただけですわ」
「わざと、ヘレナ・デズモンドを焚き付けた?」
「さぁ、なんのことだか」
どうせ、この男に私の本性は暴かれている。ふふっと控えめに笑いながら、ヘーゼルの瞳でクリストフをじっと見つめた。
「私はもう二度と、あの国に帰るつもりはありませんわ。もちろん、頂くものはきっちりと頂戴いたしますが」
その為にも、ヘレナに更生などされてもらっては困る。あの女には未来永劫、オフィーリアという存在を心に焼き付けさせなければ。
取るに足りないと小馬鹿にしていた姉には、どう足掻いても勝てない。それどころか、まさか自分が姉の愛を欲していたなどという最大の屈辱は、ヘレナの精神を粉々に砕くには十分過ぎるほど。
冷たく陰気臭い牢から「殺してやる、呪ってやる」と、今もなお私への愛のメッセージが鳴り止まないところを見るに、やはりヘレナが最も執着していたのはオフィーリアだったというわけだ。
「……だとしても、なぜこんな危険な真似を」
「牢に入れられた妹が危険?私にはそうは思えません」
「もっと、僕を頼ってほしい」
ああまた、そんな瞳でこちらを見つめる。世間でも無敵の戦士だと大評判の美丈夫な王子様が、たかだか侯爵令嬢に縋り付くとは情けない。
こうして見るとつくづく、出会った頃の食えない男と本当に同一人物なのかと疑いたくなる。
「私は今後も、貴方を飼い主様だと勘違いしないよう気を付けなければなりませんわね」
「それはどういう意味だろう?」
「主従関係ではない、家族ではない、互いに癒し癒される存在ではないということです」
契約は、契約。クリストフは、兄を蹴落とす為にデズモンド領の海域とその専売特許が重要な布石となる。私は、自由の為にベッセルでの安定した暮らしと身の安全の保障が不可欠。
自ら戦場の前線に立ち、その命を削りながら勝利を手にしてきた頭のおかしな男。過度な正義感はただの馬鹿だという私の考えは、おそらく永遠に変わらないだろう。
そんな人間が今さらただの女一人に、愛を持ってしまったとでも。もしもそうだとするのならば、まるでこの私のようではないか。
「……まったく認めたくないわ、そんなものは」
ぼそりと吐き捨てた言葉は、ジンジャーティーと共に染みとなって消える。ユリやレオニルに対しては浮かばないこの苛立ちの正体など、知りたくもない。
クリストフという人間に嫌悪を抱くことすら負けたような気分になる、この不可思議な屈辱感も。
「妹がご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございません。直にロイヤルヘルムより使者が身柄を引き取りに来るでしょうから、それまでどうか」
「……わざと話を逸らしたな」
「生産性のない会話は時間の無駄ですもの」
とはいえ、鞭ばかりではよろしくないだろうと思い直した私は、おもむろにクリストフの頭を撫でてやる。
「お気遣いには感謝いたしますわ」
「……貴女は狡い人だ、オフィーリア」
「ふふっ、そうかしら」
「歴戦の猛者も、貴女には敵わないな」
不満げな声色ながらも、彼は抵抗の片鱗すら見せなかった。




