求めたのは愛か、欲か
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ヴィンセントはやけに大人しく引き下がったが、大方私を殺す算段でも立てているのだろう。肉体には興味がないと言ったあの言葉は、果たして負け惜しみか本心か。
「その前にまずは、羽虫を駆除しないと」
ロイヤルヘルムへの帰国は許されず、ヘレナは再び地下へ逆戻り。しかも今度は、罪人を幽閉する牢に閉じ込められた。
初日はひたすら悪態を吐き、次の日は大声で泣き叫んだ。三日目、四日目と被害者ぶって啜り泣き、十日が過ぎた今は魂が抜けたようにぼんやりと虚空を見つめている。
深く傷付いた自尊心と、腹の底から湧き上がる恐怖。クリストフは一切の慈悲を見せず、周囲からも白眼視される。なにより、愛するヴィンセントがあろうことか自分に罪をなすりつけさっさと一人で帰国してしまった。
レオニルが、ご丁寧にあの男の印章入りの同意承諾書を突きつけた瞬間、ヘレナはがっくりと膝から崩れ落ちた。それ以降は、随分と大人しくなってしまい張り合いがなくてつまらない。
何もかもが思い通りだった生活から一変し、恋人からは見捨てられ、戦を好む第二王子に冷遇される。冷たく硬い石床の上で、彼女は生まれて初めての絶望を味わっているのだ。地味でつまらない姉を虐める余裕など、今のヘレナにあるはずもない。
「食事を持ってきたわ、食べて」
使用人から受け取った盆を持ち、彼女の牢へと向かう。膝を突きながら声を掛けるが、反応は返って来ない。私は膝を突いて、ヘーゼルの瞳を潤ませる。
決して無視出来ないよう、己の恥を思い知るよう、優しく柔らかく、私がちゃんと被害者に映るように。
「可哀想に、そんなに痩せて」
「オフィーリア、お姉様……?」
「ヴィンセント様はすべて貴女が仕組んだことだと仰っていたけれど、あれは嘘なのでしょう?」
もはや、私に噛み付く気力もないようだ。ぱさついた髪と潤いのない唇、光の消えた虚な瞳を見つめてみても視線が合うこともない。
あんな男に裏切られたくらいで、なんとも情けない。姉に対する劣等感はもっと激しいものだと思っていたのに、この程度ならば最初から慎ましやかに生きていれば良かったのだ。
「以前にも話したけれど、あの方は私との婚約を破棄するつもりなんてないの。甘い言葉で貴女を騙して、エトワナ侯爵家を意のままに操るつもりだったのね」
「お姉様とヴィンセント様が、結婚……?」
「ええ、そうよ。婚約を解消してほしいという私の要求を、決して呑まないと」
初めてこちらに視線を向けたかと思えば、それは憎しみにどす黒く染まっていた。私の助言など不要だとでも言いたげに、冷たい床に怒気を孕んだ溜息を吐き捨てる。
「もしもそうだとしても、悪いのは全部お姉様だわ!」
「……どうしてそう思うの?」
「さっさと死ねば、結婚なんて出来ないのに!いつまでもしぶとく生き延びて、ヴィンセント様の視界に入るからいけないのよ!」
まるで興奮した闘牛のように、今にもこちらに向かって突進してきそうな勢いのヘレナに、思わず笑いが込み上げる。この期に及んで、あんなクズを庇おうなんて。
いや。ヘレナが本当に愛しているのは、誰より自分自身だ。ヴィンセントに手を出したのは、姉の婚約者であるから。地味で目立たず、両親からも虐げられている哀れな女。にも関わらずヘーゼルの瞳は常に光り輝き、白く滑らかな肌と金の髪はなぜか目を惹き心を乱す。
取るに足らない存在であるのに、いつか足元を掬われ全てを奪われるかもしれないという恐怖が纏わりついて離れない。
ドレスを引き裂き、身体を傷付け、婚約者を奪ってもなお、ヘレナの器は空のまま。
――私は最初から貴女の気持ちがよく分かるわ、可哀想な可哀想なヘレナ・デズモンド。
彼女もあの男も、そしてそのこの私も。土に埋もれた美しい華を掘り出そうと、爪に泥を食い込ませながら必死にもがいている。オフィーリアという令嬢から、愛されたいがために。




