反吐が出る光景
「お願いです、唇にキスして」
恋人でもない相手に自ら口付けをねだるなど、情けないとは思わないのだろうか。
「それは全てが片付いた後だ」
「もう我慢出来ません」
「障害を乗り越えてこそ、私達の愛は本物になる。生涯の伴侶と決めている相手に、その場の欲望で手を出したくはない」
側から聞いていると、ヘレナはまったく愛されていないとよく分かる。それが当事者になると途端に目が曇り、目の前の色男のことしか考えられなくなり、自分が愛されていると信じたいという恐怖に支配される。
確固たる自信があるのならば、こうはならないだろう。この二人のどちらが主導権を握っているのかは明白で、一度優劣がついた関係は二度と覆らない。
ヴィンセントはヘレナの丸い額にキスを落とし、何やら耳元で囁く。だらしなく弛んだ顔を見るに、中身のない愛の言葉でも受け取ったのだろう。
「もうすぐオフィーリアがここに来る。お前は先に部屋に戻るんだ」
「間違っても、お姉様に触れたりしませんよね?」
「私が信じられないのか」
声を荒げない分、忍気呑声たる雰囲気がねとりとした恐怖を感じさせる。ヘレナはぶんぶんと首を振り、そのまま部屋を出ていった。
窓辺から様子を見ていた私にも、ヴィンセントの気だるい空気が流れ込んでくる。この男は、ヘレナなど微塵も愛してはいない。
カウチソファに深く腰掛け、その長い脚を優雅に組み替える。細やかな装飾の施されたロケットを胸元から取り出すと、まるで世紀の宝を発見したかのようにうっとりと目を細めた。
「ああ、私のオフィーリア。君以上に美しい女性は、この世界のどこを探しても存在しない」
そう、この男は異常者だ。幼い頃から婚約を結んでいたオフィーリアに、歪んだ愛情を注ぐ偏執狂。表向きは彼女を白眼視しながら、内側で大き過ぎる愛をふつふつと煮えたぎらせている。
私からすればこれも愛などではなく、ただの自己満足。稀代の悪女と呼ばれた私が言えた義理ではないが、相手が望まない愛情ほど恐怖に感じるものはない。
若干二十にして剣聖と謳われるほどの才能を持ちながら、絶対的長子継承制を敷くこの国では第三王子の存在価値は決して高くない。自ら進んで戦場の最前線へ赴き武勲を立てる、王家の名を上げる為に最適な駒。
家族や境遇に恵まれなかったオフィーリアにシンパシーを感じ、それでも優しく慎ましやかに育った彼女を勝手に神格化し、手に入らないと分かれば壊す。ある意味では私と相通ずる部分があるが、猫となった今では反吐が出るほどに嫌いだ。