上辺の平和など必要ない
つつがなく朝食を終え、現在馬車にて王都の中心街へと向かっている最中。付いて来ずとも良いと再三申し出たにも関わらず、クリストフは私の正面にどっかりと腰を掛けている。
「本当に申し訳ありません。私などの為に殿下のお時間を割いていただきまして」
「今は二人ですから、気を遣う必要はありません」
だったらしかめ面で舌打ちをしても許されるだろうか。ただでさえいけ好かない男であるのに、猫嫌いと聞いてますます嫌悪感が増した。思えばヴィンセントも猫だった私をいやに毛嫌いしていたと、思い出したくもない記憶が勝手に蘇る。
あんなに愛らしい存在を躊躇いなく蹴飛ばせるなど、あんな野蛮人は死んで然るべきだと断言出来る。
まぁ、そろそろ我慢の限界に達したヘレナがこの国での出来事をあの男に手紙で告げ口する頃だろうから、この私がオフィーリアの体で好き勝手な行動をしていることに、遠い地で地団駄を踏んでいるだろう。
どんなに邪魔をしたくとも、ヴィンセントはロイヤルヘルムから出られない。王子たる人間が、戦争まみれの危険な国への入国を許可されるはずがないのだ。
――せいぜい幻影のオフィーリアにでも縋りついているが良いわ。
端正な顔が憎悪に歪む様を想像すると、いくらか溜飲を下げられた。
「なんだか悪い表情をなさっていますね」
「あら、そうですか?私はただ、街に住む猫に会えないかしらと考えていただけですわ」
「……それは素敵な案だ」
たちまち眉根を寄せるクリストフに、ざまあみろとくすくす笑う。
「貴女は意地悪な人だ」
「私は猫が好きなのです。結婚を考えてくださるなら、慣れていただかないと」
「その条件は必須ですか?」
「ええ、もちろん」
金のツインテールをふわりと揺らしながら、つんと顎の先を上げてみせる。彼の表情はすでに落ち着いており、こちらを見つめながら適当に笑っていた。
街に到着すると、そこは想像よりもずっと活気に溢れていた。あらゆる露店がずらりと立ち並び、男女問わず商人の声が響き渡る。小さな子を抱いた母親や、快活そうな少年達、幸せそうに寄り添う若夫婦。
私が見たかった光景とはほど遠いそれに、思わずクリストフを下から睨め付けた。
「お気に召しませんか?」
「ええ、まったく。上辺の平和を見せられても、そのようなものはロイヤルヘルムで見慣れていますわ」
富裕層を相手にする商売など、今さら学ぶ必要はない。ヴィンセントの手から逃れ、クリストフとの契約婚も終了した後の基盤作りには、普通の貴族が手を付けない部分に焦点を当てる必要がある。
オフィーリアとして幸せに生きていく為に必要なものは、揺るぎない基盤と資金のみ。彼女はおそらく、貴族よりも平民としての穏やかな生活を求めていたのだろう。
一人と一匹、何のしがらみもなくただ平穏に暮らすことが出来たならば、どれだけ幸福だっただろう。永遠に叶うことのない未来を憂うのは、ただ虚しく意味のない時間を費やすだけだというのに。
「貴女はつくづく、侯爵家のご令嬢とは思えません」
「それは褒め言葉と受け取っておきましょう」
「ええ、もちろんです」
確かに、自らスラム街を見学したいなどと申し出る令嬢はこの私くらいのものだろう。そのくらい飛び込む覚悟がなければ、ヴィンセントに勝つことは不可能だ。
あの男はオフィーリアを我が者にする為ならば、どんな手段をも厭わない。殺される前に殺すことが出来れば楽なのだが、彼女がそれを望まないのだから仕方がない。
私は決して、この滑らかで美しい手を血に染めないと誓っている。
「では、貴女が望む場所へご案内いたしましょう」
「レオニル卿をつけてくだされば、殿下にご同行していただく必要は」
「さすがに、ここでおめおめと踵を返すわけにはいきませんよ」
クリストフはおそらく、私の行動に予想が付いていたのだろう。護身用にしては随分と大仰な剣を腰にぶら下げ、にこりと人当たりの良い笑みを浮かべている。
「殿下ほどのお方がいらっしゃれば、何も怖いものはありません」
「任せてください、しっかりとお守りいたします」
上辺だけの会話など面倒だが、彼は何やら楽しげに喉を鳴らしている。その余裕そうな表情は、今すぐに爪で引っ掻いてやろうかと思うくらいには、私の癪に障った。




