可哀想な王子様
「お前はなぜ私が、この賭けに乗ると思った」
「確かに貴方は、表面上この子を蔑ろにしているように見えますものね。ですが、私には分かるのです」
跳ね除けられた手を、今度はそっと自身の首元に当てる。思った以上に細いそれは、軽く力を込めただけで簡単に折れてしまいそう。
「愛する者の為ならば、己がどれほど血を浴びようと構わない。この私がそうであるように、殿下も同じお考えでいらっしゃると」
私が指を動かすたびにヴィンセントの眉が微かに吊り上がるのが滑稽で、嘲笑せずにはいられない。愛しているのならば、彼女をもっと大切にしてやるべきだった。お前が愚鈍だからヘレナに出し抜かれるのだと、胸ぐらを掴んで思い切り詰りたい衝動をぐっと堪える。
「目的を果たしたら、必ずこの子を幸せに導くと誓いますわ。それまで殿下は、どうぞごゆるりと」
「……ふざけた女狐が。必ず寝首をかいてやる」
「あら!それは宣言などせずこっそりなさらないと意味がありませんわ!」
けたけたと笑いながら、くるりと身を翻す。大した荷物も入っていないトランクに寄りかかり、上目遣いに奴を見つめた。
「ベッセルへ逃げようとしても無駄だと思い知るだろう」
「心配せずとも、ちゃあんと帰ってきますわ。私の目的は、この国にあるのですから」
愛おしげにトランクを撫でながら、うっとりと目を細める。この男が絶望に堕ちる様が早く見たい、その為にはあの国へ渡る必要がある。ついでにヘレナにも、少しお仕置きをしてあげなければ。
ドレスのスカートを押さえながら立ち上がると、テーブルの傍に置いてあるベルを鳴らす。宣言通り、すぐにユリが姿を現した。
「殿下がお帰りになるわ。護衛を任せたいから、レオニルを呼んでちょうだい」
「その必要はない」
既に冷静さを取り戻したヴィンセントは、実につまらない。国の第二王子ともあろうものが侍従も付けず、明日出立してしまう婚約者の元へ駆けつけるのだから、可愛らしいと言えばそう見えなくもない。
ベッセルで私がこの体を汚してしまわぬよう、監視でも寄越すのだろう。そのくらいは許してやるが、私がオフィーリアを傷付けるような真似をするはずがないというのに。
「殿下、少しお待ちになって」
私の問い掛けに素直に反応し足を止めるあたり、ヴィンセントにもいくらか可愛らしいところはあるらしい。それとも、愛するオフィーリアを取られてしまうかもしれないという焦燥感が、この男から冷静さを奪っているのだろうか。
「しばらくの間お別れですから、寂しくないように」
耳元で優しく囁きながら、クラバットの結び目に指をかけそれを器用に解いた。アレクサンドラほどの女であれば、男の服を脱がすくらい造作もない。
「これ。いただいても構いません?」
「……好きにしろ」
僅かにはだけだ胸元は、実に艶めかしく魅力的。殺したいほどに憎い相手でなければ、唇を寄せて跡をつけてやったものを。
私の奇行に眉を顰めながら、ヴィンセントは今度こそ振り向きもせず去っていく。
「ふふっ、良い子で待っていなさいな。憐れな王子様」
誰もいなくなった部屋で一人ゆったりと呟きながら、手にしたクラバットを無意識に握り締める。優雅に笑ってやるつもりだったのに、姿見に映った私の顔は酷く歪んで見えた。
♢♢♢
デズモンド家の領地内にある港から出発した船は、おおよそ30日ほどかけ、そこから馬車に乗り換えさらに数日。ようやくベッセル王国の国境に足を踏み入れる頃には、我儘なヘレナ以上に私の体が限界を迎えていた。
「大丈夫ですか?オフィーリア様」
「とても答えられる気分ではないわ」
「お可哀想に……」
私を案じるユリの言葉も、今は鬱陶しいとしか思えない。もともと肉付きの悪い体に加え、今は五感がかなり鋭くなっている。望まずとも体が勝手にあらゆる情報を取り込み、肉体のみならず精神的重圧もかなりのものだった。
一旦レオニルの屋敷で体を休め、体裁を整えてから宮殿へと向かう。少しずつ体力が回復していった私は、ようやくヘレナをからかう元気を取り戻した。
「やっぱり、高貴な身分の方だったのね」
「私など、大したことはありません」
デズモンド家の護衛として仕えていた彼は伯爵家の次男で、普段は第二王子クリストフの側近として従事しているらしい。煩わしい前髪は相変わらずだが、その隙間から覗くグリーンアイは心なしか輝いているように見えた。




