弄ばれた怒り
「この制約証明書によって領民達を鎮めた後のことも、きっちりと手を打たなければなりませんわ」
「……あの国は、外国人を簡単には受け入れない」
「ご心配なく。可愛い妹と親睦を深める為に、ちゃんと手筈は整えておりますから」
レオニルから渡された入国許可証は、誰にも見つからない場所に保管してある。ホーネットが血眼になってさがそうが、猫の狩猟本能には敵わないだろう。
今日も今日とてお気に入りのブラックドレスに身を包んだ私は、これ以上話すことはないと身を翻す。
ヘレナは嫌がらせのつもりで他の衣装を隠したのだろうが、これ一枚あれば何の問題もない。彼女のように派手な色や装飾品で誤魔化さずとも、オフィーリアはただそこに佇んでいるだけで完璧なのだから。
「ではお父様、失礼いたします。どうぞごゆっくり、葉巻の続きを」
「……お前は本当に、オフィーリアなのか?」
馬鹿げた質問をされても、可愛らしく微笑んで答えてあげる。
「もちろん私は、貴方の娘オフィーリア・デズモンドですわ。ベッセルへ行っても、私のことをお忘れにならないでくださいませ」
ふわりと膝を折り目を伏せ、淑女の礼をしてみせる。ホーネットの回答など聞くまでもなく、もうこの場に用はない。
ヘレナがどんな反応を示すのかは火を見るより明らかだが、それよりもこの男は確実に己の利を取る。貴族思考とプライドの塊のくせに、散々見下してきた娘に頼る
なんて実に浅ましいが、そうでなければ困る。
「オフィーリアは、この家族に交ざらなくて本当に良かったわ。そうでなければ、こんなに純粋に育っていないもの」
シガールームを出て軽い足取りで自室へと向かいながら、早速荷造りに取り掛からなければと後ろに控えている侍女ユリに目配せをする。彼女は嬉しそうに何度も首を縦に振っていた。
「どうぞ、オフィーリア様」
やっと自分で扉を開けずとも良くなったと思いながら、自室へと足を踏み入れる。するとその瞬間、嗚咽を促すような酷い悪臭が鼻をつき、ぺちゃりという異質な足音が微かに響いた。
「……これは」
ほぼ同時にそれを目にした私達は言葉を失い、即座にユリの口を塞ぐ。案の定悲鳴を上げようとしていたのを、私の行動により彼女は必死に呑み込んでいた。
「ひ、酷いです!どうしてこんな……っ!」
「落ち着きなさい、騒いでは相手の思う壺よ」
彼女はがたがたと肩を震わせながら、その場にへたり込む。メイドドレスの裾にじわりと血が滲み、白を赤へと塗りつぶしていく。
「とはいえ、これはさすがにいただけないわね」
机上に横たわっているのは、猫の死骸だった。人為的なものであるのは明らかで、首元にはナイフが突き立てられている。部屋中に血液が散乱しており、数少ない本や調度品にもべったりと擦りつけられていた。
「……へぇ。やってくれるじゃない、ヘレナ」
静かに腕を組みながら、右頬に掌を当て首を傾げる。これだけ部屋が血塗れなのに、この猫が何色なのかはっきりと見て取れる。それはあの女が、私の言葉を真っ向から否定するという意志の表れなのだろう。
――私、夢を見たのです。そこで啓示を授かりました。美しいジンジャーキャットが、私に幸せを運んでくれると。
この猫は、ただその為だけに無惨に殺された。私が見たらどんな反応を示すのかと、きっとヘレナは高笑いしていただろう。無意味で、無価値で、涙すら流れはしない。
「も、もしかしてヘレナ様が……?」
「あの子以外にはいないでしょうね」
「信じられません、いくら何でもこんなに酷いことをするなんて……」
冷静な私とは違い、ユリは惜しげもなくぽろぽろと涙を流す。それを見ていると、なぜだかほんの少しオフィーリアの面影が頭を過ぎった。
万が一の為、ヴィンセントにはジンジャーキャットではなく「幸運の白猫だ」と嘯いておいた。サラはただ口煩いだけの意気地なしで、ホーネットはそもそも私の話を覚えているのかさえ怪しい。蛇のように執念深く知性の足りないヘレナ以外、選ばないようなやり方だ。




