愛する人を攫う者
「あの子が心配ですので、少し様子を」
そんな心にもない台詞と共に立ち上がり、ヘレナの後を追う素振りを見せる。それはまるで体術訓練の一環のように、ヴィンセントは見事な手捌きで一瞬にして私を壁に追い詰めた。オフィーリアの薄っぺらい手首など簡単にまとめられ、太腿の間に挟み込まれた長脚がやけに艶かしい。
精巧な氷の彫刻のように、酷く美しく冷血な男。そして、私と同じくオフィーリアを心から愛している。
「お前は誰だ」
「婚約者をお忘れに?」
「まさか」
やはり、この男は勘付いた。私が別人であると知らしめる為にいくつもヒントを与えてやったが、予想よりも早かったのはさすがだと褒めてやろう。
先からヴィンセントを騙すつもりも、オフィーリアとして誘惑するつもりも、ましてや結婚するつもりも到底あるわけがない。たとえ私の人格がオフィーリアとは別者だと気付かなかったとしても、この男の目的はただひとつ。
――愛しているから、殺したい。
だったら、二度と手を出せないよう私がオフィーリアを攫ってしまえばいいのだ。
「この体に少しでも傷をつけてごらんなさい。元の魂はもう二度と還らず、すべては私の手中に落ちる」
金色のツインテールを揺らしながら、まるで小鳥が歌うようにつらつらと嘘を並べていく。
「そういう術を施したの。貴方様のような尊い王子様には想像もつかないようなごみ溜めで、生きる為に得た力よ」
「肉体の乗っ取りなど、聞いたこともない」
「当たり前でしょう?これは崇高な占星術でも神の啓示でもなんでもない。どんなに文献を調べようが、絶対に見つけることなど出来ないわ」
天下のヴィンセントさえ、不測の事態に狼狽えているようだ。その証拠に、掴まれた手首が千切れそうに痛む。
「そんなに力を入れて良いのかしら。私は構わないけれど、ぐちゃぐちゃになるのはこの子の体よ?」
私の言葉を聞いたヴィンセントは、はっとしたように瞳を揺らす。ブラックダイヤモンドによく似たそれは、私にとってなんの価値も感じない。
「魂が別人だと気付いたことだけは、褒めてあげるわ」
「……なぜ、あの歌を知っていた。お前はこの国の人間ではないのだろう」
「さぁ、どうかしら?その答えを知らずとも、無事にあの子を取り戻せばすべては元通りになるわ」
きっと今この男の腑は、さぞ煮え繰り返っていることだろう。眼前の私を今すぐ斬り殺したくて堪らないのに、それが出来ない。
ヴィンセントはオフィーリアを殺したがっているが、それは自身の掌の上でという絶対条件下でなければ成立しない。無情で酷く美しいこの男の本性は、まるで母親に捨てられた赤ん坊。
他者からは十全十美に見えるかもしれないが、実際は鬆だらけの模造品。だからこそ、素直で清らかなオフィーリアに強く惹かれてしまうのだ。そしてそれは、この私も同じ。