この先も永遠に、愛していると誓うから
♢♢♢
ある晴れた清々しい午後、私は侍女であるユリと共に温室にてゆったりとした時間を満喫していた。私達以外に人がいないのを良いことに、靴を脱ぎソファの上で足まで乗せている。
ふわふわとした深緑のドレスで隠れてはいるが、令嬢のする格好としては相応しくないだろう。
ヴィンセントと決着をつけた夜に自ら切った自慢の髪は、今や肩口ほどまでに伸びた。それでも二つに言える長さではないが、困ったことに私はどんな髪型も似合ってしまうのだ。
今朝は、ユリがカチューシャのように髪を編み込んでくれた。さすが彼女は、私の好みを熟知している。
「今日は平和ねぇ、ユリ」
ふわぁと欠伸を漏らしながら、両腕を天高く上げ思いきり伸びをする。天下の悪女はすっかりと鳴りを顰めたが、ぽかぽかと降り注ぐ陽射しの前では太刀打ちできない。
「またたび茶をお飲みに?」
「そうねぇ。もう少し後でもいいかしら」
「かしこまりました」
私のことを熟知している彼女は、甲斐甲斐しく世話を焼いたりはしない。無駄のないてきぱきとした動作、好みの把握、そして私が最も快適に過ごせる室温についても、万全に整えることができる。
「オフィーリア様は、どんなお姿でいらしてもお美しいです……」
時折、狂信的な瞳でうっとりと私に見惚れているような瞬間さえなければ、さらに完璧なのだが。
全面ガラス張りのここは、咲き誇る四季折々の花も、優雅に飛んでいる鳥達の姿も見渡せ、退屈しない。猫としての狩猟本能が顔を見せることもあるが、それについてはほどほどにしているので問題はないだろう。何事も、我慢し過ぎるのは体に悪い。
「本当に、この温室は素晴らしいわ」
私の為に作らせたという、無駄に金のかかった空間。そんなことをするのはもちろん、この世界にはただ一人しかいない。
「あの頃は、こぢんまりとした屋敷でそれは慎ましやかに生活をしていくつもりだったというのに」
「だったら、その『こぢんまりとした屋敷』とやらも早急に建てようか」
そんな嫌味たらしい台詞と共に、背後から伸びてきた腕。筋肉質でごつごつとして、ひと目で戦の為に鍛え上げられたものだと分かる。
突然抱き締められても驚かないのは、馬沓の響く音がずっと向こうから聞こえていたから。彼が可愛がっている金毛の美しい馬の足音を、私はすっかり覚えてしまった。
「言っただろう?貴女の願いはなんでも叶えると」
やたらと耳に残る甘ったるい声に思わず顔を顰めるが、クリストフは全く動じていない。私がどんなに可愛げのない物言いをしようとも、一切腹を立てないどころか嬉しげに頬を緩めるのが、余計火に油を注ぐと分かっているのだろうか。
「最先端の仕立て屋や建築家を国に招き、異国の甘味を輸入する為取引を活発化させ、猫達が豊かに暮らせる法の改正も行った。後は――」
「……はぁ。短期間にどれだけのことをすれば気が済むのか、呆れて文句を言う気にもなれないわ」
私がベッセルへと籍を移し、クリストフの妻として暮らすようになってから、季節は三度移り変わった。
今はまたたびの実が黄色く熟れる時期だが、もうしばらくすると私が最も嫌うこの国の冬がやってくる。
そうなるともうこの温室には足を運べなくなるだろうから、今のうちにゆったりとした時間を満喫したいというのに。
「で、屋敷の屋根は何色にしようか?」
「……はぁ」
この男が私を溺愛するせいで、ちっとも休まらない。身も心も、なにもかも。
「ただの独り言よ。いちいち鵜呑みにしないで」
「だが、もう時期冬が来るだろう?貴女が快適に過ごせるよう、盤石の体制で挑まなければ」
「まるで、戦のような言い草ね」
溜息を吐きながらそう口にするが、確かに私にとってこの国の冬は戦のようなもの。一日中暖炉の側から一歩も動かず、柔らかな長毛の毛布に包まっていたいがそうもいかない。
「本当に私の体って、気候への順応が遅いわ」
「仕方がないさ、誰だって似たようなところはある」
「だけど、あまりにも季節に振り回され過ぎよ。時々うんざりするわ」
こうして愚痴を溢している間にも、クリストフは背後から私を抱き締めたまま。目の前にいたはずのユリは、いつの間にか目視できる範囲から消えていた。
どういうわけか猫としての体質が僅かではあるが残っている私には、普通の人間とは異なる部分が多々ある。嗅覚や跳躍力に優れ、狭い場所を好む。寒暖の変化に弱く、柑橘系や香草の香りを嗅ぐと鼻が曲がりそうになる。
まぁ、オフィーリアとして生活するようになりそれらにも随分と慣れはしたが、クリストフと生活するようになってから新たな問題に直面したこともあった。
「確かに、夏の貴女はとても刺激的だった」
耳にかかる彼の吐息の温度が、確実に上がっている。不愉快と羞恥に眉を顰める私の反応を見て、厚い胸板の奥に隠れているはずの鼓動が大きく跳ねたのが分かった。
おそらく、思い返しているのだろう。日照時間が長くなるにつれて、潤んだ瞳で己をねだる端ない女の姿を。
「……それは、言わない約束でしょう」
この私が、まさか発情期に悩まされる日が来ようとは。本来の雌猫ほど激しいものではなかったが、あの時期のことは私にとって真っ黒に塗りつぶしたい恥でしかない。まさか自ら進んで、あんなことを――。
「僕としては、早く冬が終わるのを願っている」
「……まだ、始まってもいないわよ」
「確かに、少しばかり気が早かったか」
ああ、腹が立つ。恋人を揶揄うのは私の役目であり、こうして逆転されるのは我慢ならない。
「もう、貴方なんてしらない」
無理矢理腕を払い除けると、彼に背を向け立ち上がる。振り向かずとも、今彼がどんなに情けない顔をしているのか容易に想像がついた。
「すまないオフィーリア、怒らせるつもりは……」
「まったく。あれだけ戦場で活躍してきた男が、聞いて呆れるわ。こんな小娘に簡単に謝ったりして、ご機嫌をとろうだなんて」
細い腕を組みながら、ゆらゆらと髪を揺らす。おそらく背後では、長躯を情けなく丸めた大型の犬が、潤んだ瞳でこちらを見つめていることだろう。
(……なんて、私も大概だけれど)
こんな馬鹿げたやり取りだけで、怒りなどとうに治っているのだから。
「はぁ、もういいわ。何か用があってここに来たのでしょう?」
くるりと振り返ると、それに合わせて深緑のドレスがふわりと揺れる。ガラス越しに差し込む日の光も相まって、クリストフの嬉しげな笑顔が一層輝いてみえた。もちろん、悔しいので本人には伝えてやらない。
「ようやく式の日取りが決まったんだ。それを早くオフィーリアに早く伝えたくてここに来たのに、顔を見たら嬉しくてつい」
「ああ、そう。大方、一年かもう半年といったところかしら」
「凄いな、正解だ」
まるで難問を解いたかのように、彼は声を弾ませた。
「それはそれは盛大で、各国の王族方も大勢集まるのでしょうね」
「ああ、その為に準備期間が必要なんだ」
「どれだけ掛かろうと構わないわ、質を落とすことだけは絶対にしないから」
オフィーリア・デズモンドがベッセル第二王子の婚約者となってから、この国は目に見えて変化を遂げている。
第一王子マシューは廃的され、山奥の塔に幽閉されている。王都よりもさらに極寒の地であり、食料はもちろん水すら凍るほどの場所で、生き延びていくのは困難だろう。
死罪と同義であるが、いつ息を引き取ったか分からない為新聞にすら乗ることがない。父である国王が、無能な息子よりも保身に走った結果である。
そんな王も、度重なる無意味な戦争に耐え切れなくなった臣下や国民達から痛烈な批判を浴び続け、今や風前の灯。一刻も早く生前退位をして叱責から逃れたいという魂胆がみえみえだが、もうしばらくは矢面に立ってもらわなければならない。
いまだにこの私を非難する頭の固い連中からの、火除けという大切な役割が残っているうちは。
(同情の声も多いけれど、それだけでは舐められる)
だからこそ、盛大な結婚式が必要なのだ。オフィーリアのお披露目、クリストフの本格的な台頭、そしてベッセルはもう戦にばかり興ずる国ではないという意思表示の為に。
「ドレスも宝石も、一流のものでなければいけないわ。もちろんパレードも盛大に、披露宴のパーティーは一週間、後半は王族や貴族だけでなく国民にもご馳走を振る舞いましょう」
「ああ、全て仰せのままに。結婚式の費用に糸目は付けない」
「貴方がそんな台詞を口にするなんて、レオニルがこの場にいればさぞ驚いたことでしょうね」
私の嫌味にも、クリストフは動じることなくにこにこと微笑んでいるだけ。両親や兄が派手に金を使うことに心底嫌悪し、自身は王子とは思えぬほど質素な部屋に住んでいた男とは思えない。
「どうするの?私がこれからあらゆる贅沢を望んで、この国の王室予算を食い尽くしてしまったら」
「オフィーリアは自ら不利になるような真似はしないさ」
「まぁ、随分と信用されているのね」
ふんと鼻を鳴らしてみせるが、彼の言い分は正しい。己の為だけに派手な生活を送り、見下した相手には金貨を投げつけていたような女だったのに、出会いとは恐ろしいものだ。
オフィーリアの為ならば、たとえ雑草を食らう生活になろうともしぶとく生き抜いてみせる。
「心配せずとも――、いえ、貴方はちっとも心配していないようだけれど。これは先行投資でもあるの」
最先端のウェディングドレスを着たいという欲望がないわけではないが、それをわざわざ口にする必要はないだろう。
「戦ばかりの危険国という印象を覆し、他国との交易を活性化させる。まぁ、この辺りの塩梅は貴方にお任せするとして、私はこの美しさを最大限に生かして広告塔としての役割を担うわ」
昔よりも随分と軽くなった後髪をかきあげながら、堂々と胸を張る。
「そして何より重要なのはその後。貴方が私を、退廃地区の復興支援の責任者に就任させることよ!」
得意満面に笑ってみせる私の背後では、大勢の拍手喝采が鳴り響く未来が見えている。
「だが、あまりオフィーリア自ら危険な区域には飛び込んでいかないでくれ」
「ちゃんと分かっているわ。ルカとスピナだっているのだし、あの子達と一緒なら心配いらない」
「僕も、必ず同行するから」
「はいはい、ご自由に」
この手の話題になるといつもそうで、私がクリストフの側近であるレオニルを筆頭に、他の人間に頼ろうとすると対抗心を剥き出しにする。非常に面倒だとは思うが、なくなってしまえばそれはそれで物足りなくなるだろう。
いやとりあえず、クリストフが予想以上に独占欲の強い男だという話はおいておくとして。退廃地区の復興は、私の完璧な計画の内の非常に重要なピースだ。成功すればオフィーリアを『ロイヤルヘルムから送られた人身御供』などと嘲る者を潰すことができるだろう。
悪魔だなんだと指を指され処刑された私にとって、今さら陰で何を言われようと気にもならない。が、のちのち掌に刺さりそうな荊棘の花は、芽の内から摘んでおいた方が無難というものだ。
(この私の前でオフィーリアを馬鹿にすればどうなるのか、きっちりと教えてさしあげないとね)
王妃という肩書きに拘りはないが、しばらくはクリストフの側で私らしく過ごすことに決めている。オフィーリアは目立つことを好まないだろうが、この国の民の暮らしを豊かにする私の行いを、きっと穏やかに微笑みながら見守ってくれるだろう。
「愉しげな顔をしているな、オフィーリア」
「私、慈悲深い女神様にはなれそうにないわ」
「貴女はそのままで、とても魅力的だ」
ちゅ、と音を立てるキスを髪に受け、思わず彼の頬に手を伸ばす。されたことをそのまま頬に返してやれば、クリストフはとても初々しい反応をみせた。
「ふふっ。いつまで経っても貴方は可愛らしいわね」
「……本当はもっと男らしくありたいと思っているのに」
「そんな必要はないのよ。私だって、そのままの貴方を愛しているんだから」
私が滅多に口にしない愛の言葉を聞いたクリストフは、数秒の間時が止まったかのように動かなくなる。
「今の言葉、本当に……?」
「何を、今さら分かりきったことを」
「い、いや、そうだ……、うん、ああ、そうだ、よな」
緑水晶の瞳がきらきらと輝いているのは、惜しみなく降り注ぐ陽光が原因ではない。彼はこの世の幸福をすべて煮詰めたかのような顔をして、それは愛おしげに私を見つめた。
「僕も愛している、オフィーリア。どんな貴女も、心から」
――愛しているわ、金の瞳の可愛い猫ちゃん。
クリストフとオフィーリアの声が重なり、光となって私の頭上に降り注ぐ。
「……綺麗ね、とても」
かつては悪魔と呼ばれた金の瞳から、一筋の涙が溢れ頬を伝う。それ以上言葉を紡ぐことなく、私はただクリストフの温かな胸に体を預けたのだった。