悪女は、悪女らしくすべてを手に入れる
(まぁ、オフィーリアを手に掛けようとすれば許さないけれど)
今の私は、非力な小獣ではない。どんな手段を使おうと、私達の邪魔をさせるつもりなどない。が。
(そんな心配をしなくなったのは、一体いつからかしらね)
私にとって眼前のこの男は、ただの契約相手ではないと認めざるを得ないのが、非常に心外である。
「殿下が今後国王の座を継ぐにあたり、私と婚約関係にあったという事実が、別のご令嬢を王妃として迎える際の枷になるのであれば――」
「他の令嬢など、僕には考えられない!」
息つく間もなく私の言葉を遮り、クリストフが顔を上げる。緑水晶の瞳は眩しいほどの輝きを放ち、それが余計に思慕の念を思わせる。まるで心から、私を愛しているとでも言いたげに。
「……なぜ、貴女が泣きそうな顔をしているんだ」
「私は、そんな」
「すまない、困らせるだけだと分かっているのに」
私の頬に触れる彼の手は茹るような暑日の太陽と同じ、けれど凍てつく寒さの中に放り出されたかのように震えている。その不均衡な具合が彼らしいと、なぜか安堵してしまう。
「僕が貴女を求めることは、オフィーリアの幸せには繋がらない。たとえ今本当に結婚してほしいと懇願しても、それは契約という縛りを利用していることと同義だ。そんな卑怯な真似はしたくないのに、どうしても心が思い通りになってくれない」
「……クリストフ、貴方は」
「明日貴女が目の前から消えているかもしれないと想像しただけで、胸が潰れそうだ」
今の感情を表現する言葉が見つからない。私は気丈に振る舞っているつもりであるのに、クリストフは私を見つめながら「悲しむな」と、悲しげな顔で呟く。
一体、どこで間違えてしまったのだろう。オフィーリア以外の誰かを、心の内側に迎え入れるつもりなどなかった。そんな事態は起こりえないと、タカを括っていた。なぜならば私は、稀代の悪女であり、愛を知らぬ悪魔であるから。
死の瞬間に、大勢からの拍手喝采を浴びた。誰一人、私がこの世から消えて無くなることに涙を流してくれる人間は、いなかった。
「私が死んだら、泣いてくれる?」
「……なぜ、そんな質問を?」
「良いから、答えが聞きたいの」
唐突なその問いに、精悍な顔が簡単に歪んだ。
「想像すら、したくない」
「断頭台に立った私に向かって、拍手したりしない?」
「一体何を言っているんだ」
私の頬に触れた手を忙しなく動かすクリストフは、まるで生存確認でもしているかのようだ。
「ごめんなさい、なんでもないの」
微かに首を左右に振ると、私は力を抜いた。華奢なこの体は、鼻先にある逞しい胸に簡単に吸い込まれていく。
「ただ、嬉しいだけ」
「……アレクサンドラ」
焦ったい彼を急かすように、さらに顔を擦り寄せる。遠慮がちに回された腕に、この私が満足出来るはずもない。
(違う、私はオフィーリアなの)
今さら空疎な罪悪感など感じたところで、この手で握り潰してきた者達が息を吹き返すわけではない。アレクサンドラはとうに死に、これからはオフィーリアとして生きていく。
神など信じるつもりはないが、アレクサンドラの罰を彼女にまで飛び火させるような愚かな真似をするならば、地獄の底に突き落とされても決して許しはしない。
「クリストフ」
この私が心の内側に招いた、最初で最後の男。明日には目の前から消えていたとしても、それが一番望ましい結末なのだ。
「私を見つけてくれて、ありがとう」
伏せた睫毛が、微かに震える。それにつられぬよう、喉元を締めてわざとか細い声を出す。
「これからは、オフィーリアとして幸せに暮らしていくわ。だから貴方も、もう――」
「本当に、それで良いのか?」
先ほどまで遠慮がちだった腕に、一瞬力がこもる。先ほどとは真逆の立場に、自分の浅慮な行動を後悔した。
「彼女のことは、誰よりも一番貴女が理解しているはず。貴女が選ぼうとしている道は、本当に二人が望んでいるものなのか?」
「それは……」
彼と別れ一人で生きていくことは、最初から決めていた。にも関わらず、今この瞬間胸が張り裂けそうに痛むのは、一体どちらの感情なのだろう。
「いかないでくれ」
「……クリストフ」
「貴女を、愛しているんだ」
全てを取り払った、シンプルな言葉。私達が最も望んでいたものに手が届いた今、互いの存在は足枷でしかないと分かっている。それでも、あえて選ぶというのならば。
「……彼女が、私にこう言ったの」
あれは、夢などという言葉では片付けられない。正真正銘、本物のオフィーリアの魂だった。
「悪女が、素敵だと。自由に生きる私が、羨ましいと」
もちろんそれは、他者を蔑ろにしても構わないという意味ではない。どこまでいってもあの子は、お人好しの優しい子なのだ。
「考えてみれば、我慢なんてこの私らしくない。悪女はどこまでいっても、その本質を変えられはしないのよ」
このところ、心の底に散らばっていた小さな黒い破片。それは悔恨の念という、私が持つには不相応な感情達。掌でかき集めていたのを、天に向かって思いきりぶち撒けたような気分だった。
「私は私のやり方で、あの子と共に生きていく」
冴えない顔はもうじゅうぶん。悪女は悪女らしく、ふてぶてしく微笑いながら我が道を行くだけ。もちろん、愛するオフィーリアを悲しませるようなことはしないけれど。
「ああ、ごめんなさい」
親の顔色を窺う幼子のような反応を見せるクリストフが目に入り、私はくすりと笑みを溢した。思えば最初から、この男には調子を狂わされてばかり。些細な言動や行動にも、腹が立って仕方がなかったのは、いつかこんな日が来ると無意識に悟っていたからなのかもしれない。
「私はこの先も、オフィーリアとして生きていくわ」
「ああ、分かっている」
「その上で、自分が欲しいと思うものも手に入れる」
離れた彼の腕を再び引き寄せ、案外薄い唇に自身のそれを寄せる。クリストフは歴戦の猛者とは思えないほど、ただのか弱い令嬢にあっさりと唇を奪われた。
「い、今のは……」
「ちょっと、生娘のような反応しないでちょうだい」
「頭が、ついてこない」
惚けていると思ったら、頭上からクランベリーの果汁を浴びせられたように、首元まで真っ赤に染まっている。大袈裟な反応は白けるだけだというのに、緩む頬を引き締めることが出来ない私も、どうやらまだ寝惚けているようだ。
ほんの一瞬、僅かに隙間を埋めただけ。キスとも呼べないお粗末なものだったが、なぜだか肩の力が抜け長い溜息が漏れた。
「けれど良いの?これから大変なのは、私ではなく貴方なのよ?婚約者を亡くしたばかりだし、実家は悲惨な有様で後ろ盾もない。次期国王として盤石な体制を築く為に相応しい人選だとは、誰も思わないでしょうね」
憑き物が取れたような晴れやかな表情で、私はそう口にする。クリストフは何かに憑かれたようにぼうっと惚けたまま、明眸には私の姿だけが映っていた。
「やはり気の迷いだったと許しを乞うなら、今よ?」
「は?まさか!」
ようやく我に返ったのか、彼は頓狂な声を上げながら首を左右に振る。
「そう、猫嫌いのくせにとんだもの好きだわ」
「……これからは、猫好きになるよう努力する」
「ふふっ、可愛いことを言うのね」
どちらが翻弄されているのか、いい勝負といったところか。私の一挙手一投足に振り回されているクリストフを見ていると、わしゃわしゃと頭を撫で回したくて堪らなくなる。この男が戦場では鬼神の如く暴れ回るのだと想像すると、さらに心をくすぐられるのが妙に悔しい。
歳を重ね、男の趣味が変わったのだろうか。それとも、オフィーリアの趣味が伝染しているのか。
(そう考えると、なんだかおもしろくないわね)
急に気分が萎え、ふいと顔を背ける。気ままな猫だといえばまだ可愛げがあるが、実際はただの気分屋で都合よく周囲を振り回しているだけ。
結局、私がしていることはオフィーリアの真似事にしかすぎないのだ。
「……貴女の前では、いつも情けない姿ばかり見せているな」
クリストフは背後から私を優しく抱き締め、耳元で呟く。背中越しに伝わる鼓動は雷鳴のように荒々しく、それでいて子守唄のように心地良い。
「なぁ、最後にもう一度だけ。名前を呼ばせてくれないか?」
低い声が、私の居場所を示してくれる。自分が一体何者なのか、迷う暇もなく私の手を引いてくれる。
――アレクサンドラ……。素敵な響き。
大した思い入れもないこの名前を、大切そうに呼んだ彼女の声を。私は永遠に、この胸に刻んで生きていく。
「……ええ、構わないわ」
「愛している、アレクサンドラ」
「まぁ、奇遇ね。私もよ、クリストフ」
目を閉じ、互いに互いの瞳の色を思い浮かべる。そこに滲む感情は、今後はひとりだけのものではなくなる。
「貴女のいない明日など考えられないんだ」
「……まぁ、奇遇ね」
「ずっと、そばにいてくれ。オフィーリア・ベッセルとして」
心を許した男にそう懇願されて、断れる女などいるのだろうか。たとえば相手の為を思い身を引く、などという悲劇の主人公ぶった振る舞いは、この私には似合わない。
「未来がどうなるかは知らないけれど、今貴方とこうして触れ合っているのは心地が良いわ」
「……オフィーリア」
「ただ、それだけで十分よ」
先ほどの奇襲めいた口付けとは何もかもが違う、私達はとても自然に唇を重ねたのだった。