微睡む私を、優しく抱き締めて
――そうして、次に目を覚ました時。当然目の前に、オフィーリアの姿はない。
「気分はどうだ?痛むところはないか?」
開けた世界に飛び込んできたのは、想像とは異なる人物。それでも腹が立たないのは、寄る辺もない淋しさに心が苛まれているからなのだろう。
「クリストフ、殿下。いつから、そこに?」
「ああ、気にしなくていい。何度か様子を見に来ただけで、ほとんどここにはいなかった」
(まったく、嘘が下手なくせに)
彼の草臥れた顔を見れば、自身はろくに休息も取っていないとすぐに察しがつく。柔らかなベッドに着心地の良い寝着を身に纏う私の方が、よほど健康的に見えるだろう。
当の本人はそんなこと気にもしていない様子で、もの思わしげな表情で私を見つめながら、骨ばった手をそわそわと動かしていた。
いつも通りに起き上がろうとしても、やけに体が重く感じる。クリストフは慌てながら私を支え、しきりに痛みはないか辛くはないかと尋ねてくる。
つい「大げさな男だ、余計な気遣いをするな」などと可愛くない台詞を吐きそうになる口を噤み、私は大人しく彼の腕に身を委ねる。そして、視線だけを脇机に向けた。
「水が飲みたいのか?」
「ええ、少し喉が渇きました」
言うが早いか、クリストフは水差しとコップを手に取ると、器用になみなみと水を注いだ。
「それ、頭から浴びた方が早そうな量ですね」
「あっ、ああ。すまない」
「口元まで運んでいただけませんか?」
おそらく数日寝たきりだったのだろう私の体は、ぐっすりと眠った後にしてはやけに気怠く、すぐにでもベッドに身を沈めたくなる。それをしないのは、大仰で初心なクリストフの反応が見たいが為。
「く、口元まで?」
「不敬でしょうか?」
「い、いや。構わない」
私の彼に対する態度が不敬などとは今さらであるが、わざと目を伏せてみせれば、クリストフは大きく首を横に振った。オフィーリアの形の良い小振りの唇は、いつ何時も熟れた桃のように艶々と輝いている。それをほんの少し開け、強請るように顎をくいと上げた。
どんな大剣でも簡単に収まりそうなほどの掌で、たかだかコップひとつを持つ手が震えている。そんな出際では、結果は分かりきっていた。
「あらら、びしょびしょ」
「すまない!今すぐに侍女を……」
「構いませんわ、この程度」
オフホワイトの寝着が肌に張り付き、そこだけが冷たく不愉快だ。私はただ喉を潤したかっただけだというのに、クリストフはそれさえも満足に叶えてはくれない。
「自身で着替えられます」
「え……っ」
「申し訳ありませんが、クローゼットから新しい寝着を出していただけませんか?その間私は、濡れたものを脱ぎますので」
「ぬ、脱ぐ……」
その言葉を聞いたクリストフは硬直し、力の抜けた手からはするりとコップが落ちた。グラスが砕け散る高音も、今の彼の耳には届かないようだ。
「あの」
「は、はい」
「グラス、割れました」
「あ……」
そこでようやく自身のやらかしに気が付いたクリストフは、長躯を窮屈そうに屈めながら慌てた様子でそれらを拾い集める。
(耳が、真っ赤だわ)
溢れた水で張り付いた寝着と、それを脱ごうとする仕草。他に誰もいない二人きりの空間で、私達の間に流れる雰囲気は、男女の艶めいた駆け引きにはほど遠い。
「ふふ……っ」
とうとう耐えきれず、私は盛大に笑みを溢す。淑女らしく口元を隠すことさえ忘れ、腹を抱えて笑った。
「あはは!貴方って、どこまで初心なのかしら!こんなことでそんなにも動揺するなんて、年頃の子どもでももっと堪え性があるわ」
「そ、そんなことを言われても……」
「ああ、おかしい!こんなに笑ったの、いつぶりかしら」
滲む涙を指で拭いながら、声が掠れても気にせず体を震わせた。どの記憶を辿っても思い出せないということは、いつぶりかというよりも初めてなのかもしれない。
「……僕をからかって満足か、オフィーリア」
「ええ、とーっても」
「……むぅ」
顔どころか首元まで赤く染めながら、クリストフが講義の声を上げる。だがそれも、満足気な私を見ると長くは続かないようで、なんとも言えない表情と共に小さく唇を尖らせるだけに止まった。
「ずっと殺伐としていたから、貴方のおかげで和んだわ」
「……幸いとは言い難い」
「だけど、許してくださるのでしょう?」
いまだに屈んでいるクリストフを見つめながら、わざとらしく首を傾げてみせる。戦場では怖いものなしで暴れていた屈強天下無双の豪傑も、私の前ではカタなしというのが妙に母性をくすぐられる。
「貴女が僕に対して許されないことなど、あるはずがない」
「男性としての面目は?」
「そんな余剰資源はとうに尽きたな」
観念したように溜息を吐き、彼は私の側に腰掛ける。ベッドの軋む音と共に、ほんの少し体が揺れた。
「散々気を揉ませたと思ったら、今度は掌でころころと転がして。随分な仕打ちだとは思わないか?」
「貴方がすぐに分かるような嘘を吐くからでしょう?」
どうやら私は、自分が思う以上に気に食わなかったらしい。ほとんど側にはいなかったと、そう言われたことが。
「……鬱陶しいかと思って」
耳に心地の良い低音が、ぽそぽそと小さく響く。
「貴方がしつこいのなんて、今に始まったことではない気がしますけれど」
「もう、全てが終わった後だから」
クリストフは俯いたまま、こちらを見ようとはしない。
「ヴィンセントが消え、貴女の願いは叶った。これからは、オフィーリアと共に穏やかな人生を送るだろう。そこに、僕はもう必要がなくなる」
「それならば、今の殿下にこそ私は不要なのでは?無能な兄は没落し、現王の権威も地に落ちている。ロイヤルヘルムとの友好も結ばれ、デズモンドが所有していた海域も無事貴方の手中に収まりました。私との婚約が条件というのは建前であり、ロイヤルヘルムはヴィンセントの尻拭いが出来ればそれでよかったのです」
そう、立場は逆でなければおかしい。私は死の運命から逃れることに成功したが、今後この国で生活をしていく為には、クリストフの助力が必要不可欠となる。
名目上私に譲渡された海域の管轄権と、これまで取引のあった海商人達との契約書をクリストフへと引き継ぐ際の契約金があれば、生活費としては余りあるほどの贅沢が出来る。それを元手に、ロイヤルヘルムでの小銭稼ぎとしていた化粧品や雑貨等の販売も続けていけば、商人として生きていけるだろう。
けれどそれらは、クリストフの許可の下でこそ成り立つ人生設計なのだ。契約の縛りはあれど、立場としてこちらが圧倒的に不利なのだから。