いつの間にか、両手から溢れるほどの
クリストフと共に深林から一歩出たところで、二つの影がすぐさま飛び出してくる。ぎゅうっと抱きつきながら喚くのは、双子のルカとスピナ。
「オフィーリアさまぁ!心配したんだよ!」
「どこも怪我してない⁉︎髪が短くなってる!」
泣きながら喜び、不安げに眉根を寄せ、聞き取れないほど早口に捲し立てる二人を、私が止めることはない。
「最後まで言いつけを守れたのね、偉いわ」
決して深林に足を踏み入れてはならないという私の言葉を守った褒美に、それぞれを優しく抱き締める。ヴィンセントへの復讐を確実に成し遂げる為には、この子達の力にも頼るべきだったのだろうが、私の中の何かがそれを拒んだ。同様に、侍女であるユリについてもそう。足手纏いであるという理由を除いても、同行させるという選択肢はなかった。
代わりに、クリストフ側の護衛については私は関与していない。気配を探るまでもなく複数が深林に潜んでいたが、その者達の命まで気にしてやる義理もない。
おそらくは、助太刀の暇もなく主君自身があっさりと片付けてしまったようだが。
「ただ待つだけなのがこんなに辛いって、知らなかった」
ぽろぽろと大粒の涙を流すルカの白墨の瞳に、私の姿は映らない。
「オフィーリア様は絶対死なないって信じてたけど、本当はすごく怖かった」
私がどれだけ慰めの言葉をかけようが、スピナの耳には届かない。
残飯さえご馳走となる排他地区で、彼らは常に死と隣り合わせの生活だった。感情など持つだけ無駄で、少しでも気を抜けば無様に搾取されるだけ。
貴族令嬢だったオフィーリアも、境遇は違えど似たような暮らしをしていた。排他地区は周囲も同じく飢えていたが、彼女は彼女だけが与えられなかった。
裕福だろうがそうでなかろうが、側にいる人間が腐っていればそれは幸福には直結しない。
(同情でも、なんでもいいわ)
「私はね?あなた達が可愛いの。与えてあげたい、笑顔が見たい、悲しまないでほしいと、そんな風に思っているわ」
穏やかな口調はルカに伝わり、柔和な笑みはスピナに伝わる。二人は目や耳が不自由な分些細な機微に優れているが、それでもこれは私なりの表現だった。
顔すら思い出せない自身の母ではなく、オフィーリアが私に与えてくれた掌の温もりを、二人にも分け与えるつもりで。自分以外の誰かの為に何かをしてやりたいという生産性のない感情も、案外悪くない。
「大好きよ、私の可愛い子猫ちゃんたち」
ルカとスピナの頭を、愛情を込めて撫でてやる。涙は止まることなくさらに溢れ、私の泥に塗れたワンピースの上にぱたぱたと落ちた。
「ユリも、ご苦労様。この子たちの面倒は大変だったでしょう?」
「……いいえ、私などが少しでもお役に立てるなら」
ユリは給仕服の腰元を握り締め、眉根を寄せ俯いていた。家族を見殺しにし、婚約者を殺し、他国の王子と共謀してひとりだけが幸せになろうとしている。
そんな女を、なぜここまで信用することが出来るのだろう。
「以前も言ったけれど」
感情のままに泣き喚く双子とは対照的に、ユリは私を煩わせまいと必死に耐える。そんな彼女に歩み寄り、硬く握られた拳の上に手を重ねた。
「この私の世話が務まるのは貴女だけよ、ユリ」
そう言って、ドレスの裾を軽く持ち上げてみせた。
「見てちょうだい、この格好。泥塗れでも美しいことに変わりはないけれど、ベタベタして気持ちが悪いわ」
「もちろん、お召替えをご用意しております。清潔な水と布、それに暖を取る為の火鉢とオフィーリア様のお好きな――」
即座に顔を上げたユリは、心配げに視線を彷徨わせながら矢継ぎ早に捲し立てる。そして短くなった髪を見て、再び口を噤いだ。
「もちろん、これも整えてくれるわよね?」
「……はいっ、喜んでお手伝いさせていただきます!」
緩んだその表情に、私の昂っていた気持ちも凪いでいく。双子といいユリといい、本当に呆れるほどオフィーリアのことが好きらしい。
「ご無事でなによりでございます、オフィーリア様」
耳に心地いいテノールの響きとともに音もなく現れたのは、クリストフの側近であるレオニル・ドルクだ。深林でも彼の気配が途切れることはなく、浴びている返り血も凄まじい。こちらも、ユリ達に負けずとも劣らない主君信者のようだ。
「あら、レオニル。貴方の主君を危険に晒した私を、労ってくださるの?」
「殿下に降りかかる火の粉を振り払うのは、私の役目ですので」
「私は火の粉ではないのかしら」
「オフィーリア様は、殿下にとって唯一無二のお方です」
相変わらずの無表情を貫きながら、口にする言葉はなんともロマンチックで思わず口元が緩む。
「ですから、本当にご無事でなによりですと申し上げました」
「ふん、どうでしょうね。今後の私の振る舞いを見ていたら、そうは言えなくなるかも」
「それでも、殿下はお喜びになるかと」
「……ああ、そう」
これ以上話していると、ただでさえまたたび酒のせいで酷い頭痛がさらに悪化しそうで、私は溜息と共に口を閉じた。普段以上に話が通じないところを見るに、今はレオニルの精神状態も少しおかしいのかもしれないと思う。
「やはり、オフィーリアは人気者だな」
囲まれている、といっても大した人数ではないが。こちらの様子を黙って見ていたクリストフが、やや強引に長躯を割り込ませてきた。
「ここは冷える、そろそろ移動しようか」
「ええ、そういたしましょう」
「ではオフィーリア、こちらに」
当然のような顔をして私の手を取ると、まるで敵から姫を守る勇敢な騎士のごとく、私の体をすっぽりと包み込む。
「……ちょっと、度が過ぎるわよ」
「貴女は寒さに弱いだろう?ただでさえ酒の匂いにやられたんだ、こんな時に僕を頼らないでいつ頼る?」
「大げさね、一人でも歩けるから」
「駄目だ、僕は絶対に離れないぞ」
「ああ、そう。でしたらお好きにどうぞ」
人を酔っ払い扱いする失礼な男に向かって、私は思いきりしかめ面をしてみせる。いつも以上に過保護で大げさで、婚約者というよりもまるで父親のようで素直に聞きたくなくなる。
「オフィーリア様……」
ユリは潤んだ瞳で私達を見つめ、レオニルはわざとらしく素知らぬ振りをする。そしてルカとスピナは、わなわなと体を震わせながら私に向かって突進してきた。
「オフィーリア様は、僕たちのオフィーリア様なんだ!」
「こんな大男には、絶対に渡さないんだからね!」
第二王子に向かって歯を見せるその様は、誰にも真似出来ない。可愛らしい番犬を両脇に抱え、私は満足気に笑いながら颯爽と歩き出す。
「ちょっ、オフィーリア!そんなに急ぐと転ぶぞ!」
クリストフの小煩い声を背景音楽に、すっきりとした黎明の空を見上げながら、その眩さに目を細めるのだった。