命を捧げても、守りたいもの
「は……っ、この……っ!」
「やはりお前は、化け物だ」
憎らしいヴィンセントから見下ろされていると分かっていても、四肢がいうことを効かず地に膝を突く。急激な接種は中毒症状を引き起こし、脳を麻痺させる。今や呼吸すらも忘れかけ、眼前が暗く陰り始めるのを必死に瞬きしながらやり過ごす。
「安心しろ、一瞬だ」
抑揚のない声が、やけに側で響く。時間を増すごとにまたたび酒が体中に回り、血液を沸騰させる。だがこれは、毒ではない。私が獣であるという前提で作られたものであり、普通の人間にとっては何の害もないのだから。
駄目だ、動け、でなければ何の為にもう一度生まれ変わったのか分からない。私は、このアレクサンドラ・レイクシスは、今度こそ必ずオフィーリアを守ると誓った。
(もう二度と、死んでほしくなんてないのよ……!)
――大丈夫、可愛い猫ちゃん。
鋭い切先がためらいなく私の頸を目がけて振り下ろされるよりも先に、確かにオフィーリアの声が聞こえた。その一瞬驚きと共に頭が冷え、私は地に両手を突きながらその場から飛び退いた。
「アレクサンドラ!!」
背後から、私の名を呼ぶクリストフの声が響いている。それが近いのか遠いのか、耳鳴りのせいで距離が測れない。
――言ったでしょう?あなただけは、何があっても守るから安心して、って。
「……オフィーリア」
ゆっくりと立ち上がり態勢を整えながら、まるで母を探す子猫のように、暗い闇の中に彼女の姿を求める。
これは、幻聴なのだろうか。窮地に立たされたせいで、潜在的な本能が作り出したオフィーリアの面影。
どれだけ目を凝らしても、そこにあるのは深い闇だけ。私はもう二度と、あの優しい手に撫でてもらうことは出来ない。
「……また、貴女に命を救われたのね」
自然と笑みが溢れ、昂っていた鼓動が凪いでいくのを感じる。どうやら私は、今自分が誰であるかを忘れていたらしい。
(オフィーリアは、ずっとここにいたのに)
短剣を構え直すと、私はツインテールの片方にその刃を当て、躊躇いなくざくりと髪を切った。もちろん、もう一方も。こうしなければ、髪に染み込んだまたたび酒が動くたびに鼻先をくすぐり、すぐに脳が痺れてしまう。
「そんなに睨まないで、オフィーリアならきっと短い髪も似合うわ」
「……貴様ごときが、その体を好きにするな」
「あら、私達仲が良いの。ヘレナに耽溺するような貴方と違ってね」
ヴィンセントの綺麗な顔が憎悪に歪み、怒りのあまり手が震えている。せっかくオフィーリアを取り戻せると思っていたのに、それが叶わなかったせいで冷静さを失ったようだ。
(仕方ないから、お礼にまた今度お腹を触らせてあげるわね)
いつの間にか、呼吸の乱れは一切なくなっていた。
「オフィーリア、大丈夫か⁉︎」
私のもとへ駆けつけたクリストフは血腥く、さすがに息も乱れている。おそらく傷だらけなのだろうが、それを気にする素振りなど一切なく、戦闘での疲弊よりも私の身を案じて焦っている。
「あら、お疲れ様」
「この匂いは……」
「気にしないで、人間に害はないから」
その言葉に彼は微かにたじろいだが、すぐに私を庇うようにヴィンセントに立ちはだかる。前世が猫だなんだと説明するつもりはないが、奴にとっては知りたくもないことなのだろう。オフィーリア以外には、微塵も興味がないのだから。
「何度同じ手を使おうと無駄よ。私には、オフィーリアがついているのだから」
「なぜ、貴様など……」
もしかすると、ヴィンセントも何かを感じ取ったのかもしれない。優勢が劣勢に変わり焦っているというよりも、親に見捨てられた子のように当惑しているように見えた。
「僕が止めを」
「いいえ、少し待って」
今しがた私の生殺与奪の権を握りかけていた男とは思えない、渦巻いていた殺気がぽろぽろと剥がれ落ちていく。気を逃すまいと剣に力を込めるクリストフを、手で静止する。
「ねぇ、ヴィンセント」
「……寄るな!」
「オフィーリアを、本当に愛していたの?」
私の指から短刀がすり抜け、とさりと地に落ちる。クリストフの咎めるような息遣いに気付かない振りをしながら、私は一歩ずつ歩みを進めた。