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赤い月が輝く夜には

♢♢♢

 野生の勘とでもいうべきか。冬の澄んだ空気が肌に刺さる感触も、湿った土の不愉快な匂いも、何もかもがあの日に酷似している。ヴィンセントは今夜必ずこの場所に現れ、オフィーリアを手に掛ける。私から奪い、永遠に彼女を我が物にする為に。

 世にも珍しい赤く輝く満月に照らされながら、クリストフと共に早馬を飛ばしこの深林へとやってきた。

 たとえ身を隠していたとしても、あの男には通用しない。ならば、クリストフも堂々と隣を歩かせていた方が身動きもとりやすいだろう。しっかりと手袋をはめた手を彼の腕に絡ませながら、どこが最奥なのかも分からない道を迷いもなく歩いた。

 クリストフと共に、私は今度こそオフィーリアを守り切ってみせる。


(最初は、使い捨ての盾にしてやろうと思っていたのに)


 側で気配を感じているだけで安心するなど、天下のアレクサンドラ・レイクシスも随分と腑抜けたものだ。この場所は、不気味なほどにあの夜と同じ。私は、自分で思う以上に恐れを感じているらしい。

「大丈夫か?オフィーリア」

「ええ、まったく問題ありませんわ」

「霜のせいで土が重くぬかるんでいる。十分に気を付けて」

「どうやら殿下は、私の前世をお忘れのようですわね」

 互いに、足音を消す術には長けている。猫の忍足には敵わないが、歴戦の猛者もなかなか見所がある。

 深林は相変わらず、生を感じさせない空気を纏っていた。何らかの亡骸が転がっていても、すぐ獣に食い散らかされるだろう。まだ名も付いていないような毒虫もうじゃうじゃ湧いていたし、生身の人間が生きていける場所ではない。

「ふう。だいたい、この辺りかしらね」

 夜目の効く私に負けず劣らず、クリストフも訓練を積んでいる。すべてを飲み込む闇の中でも、きっと彼には見えているはずだ。私が穏やかに微笑みながら、金のツインテールをふわりと掻き上げる様が。


(安心してオフィーリア。この私が必ず、守ってあげる)


 羽織っていた袖付きの外套を脱ぎ捨てると、オフホワイトのドレスが風に靡いてぼんやりと浮き上がる。私は胸元で柔らかく指を組むと、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、歌声と共に吐き出した。


 ――ああ、炎が燃えている。手を伸ばせばすぐそこに、けれどとても遠い場所。ゆらりゆらりと身を揺らし、幻影に私を誘いこむ。


 ――たったひとつの魂がふたつの体に宿る時、その愛は首をもたげてこちらを見つめる。たとえ醜い灰となろうとも、風に乗って会いにゆけるならそれは素晴らしい奇跡となる。


 澄んだ歌声は、深林には馴染まない。異質なものを受け入れないとでもいうように、あちこちに反響して重奏を奏でる。生い茂った木々や育ち切った大きな葉が、中と外を明確に分けていた。

 オフィーリアが好きだった、ロイヤルヘルムに伝わる戯曲。幼い頃にヴィンセントと共に観劇した際にこの歌を知り、それからずっと一番のお気に入り。

 屋根裏部屋に軟禁された時も、窓枠に腰掛けながら外に向かってこの歌を歌った。そしてあの男は、私の中身がオフィーリアではない別の人間だということに、即座に気付いたのだ。彼女が誰かに聞かせる目的で歌うはずがないと、分かっていたから。

「気配を消す素振りぐらい見せたらいかがですか?ヴィンセント殿下。相変わらず、私の嫌いな柑橘の香りがきつくて、嫌でも気付いてしまうわ」

 まるで歌の続きを口にするように、私は滑らかな声でそう言った。誰も灯りを持たない闇の中で、普通ならば自身の足元さえ覚束ない状況。だが私達三人にとっては、そんなことは一切関係がなかった。

「意味のない行動は取らない」

 クリストフと同様、この男にも足音がない。ロイヤルヘルムに生まれたどの王子よりも優れているのに、肉親にとってはそれが欠点として扱われてしまった哀れな男。

 第三王子としてほどほどの資質であれば、きっとそれなりには幸せに暮らせただろうに。

 眼前に現れたヴィンセントは、どんな場所でも変わらずに美しかった。世間的には死亡したことになっており、今は自由に動けないはず。それを微塵も感じさせないどころか、本当に死者なのではないかと思わせるほど、この男に落ちぶれた様子はない。

 クリストフの吐息に、一瞬雑音が混ざる。私が嫌がるだろうとほんの少し隙間が空いているが、何かあればすぐに肩を抱いて自分が盾となれる距離。

 凍てつく冬の寒さに劣らない彼の気迫は、どうしてか私に安堵感に似た感情を与えてくれた。

「お前は人ならざるものだろう」

「あらまぁ、そのように酷いことをおっしゃらないでくださいませ。私は正真正銘、オフィーリア・デズモンドという一人の女ですわ」

 そう口にした後で思い出したように「ああ。デズモンド家はもうじきなくなるのでしたっけ」と、付け足した。

「無駄な御託はよせ。互いの要求は理解しているだろう」

 眼前に佇むヴィンセントからは、不思議なほどに負の感情が感じ取れない。以前クリストフがヴィンセントを退けた時は、この世の怒り全てを煮詰めたような視線で私を睨め付けていたくせに、今夜はそれがない。

 私に寄り添うようにして立つクリストフには目もくれず、ただまっすぐにオフィーリアだけを見つめていた。

 造形の精巧さも相まって、人ならざるものは私ではなくお前だろうと、そう返してやりたくなった。

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