絵画の中の幸せな家族
そうして私は、生まれ育った国の王に売られる代わりに、ベッセルへと移り住む許可を得た。万が一拒否された場合には偽装死も頭に入れていたが、やはり予想した通りヴィンセントの弔いを優先し、私を許さないという方向に話は進まなかった。
「さぁ、舞台は整ったわ」
もうこれ以上、婚約者の死を悼む哀れな令嬢を装う必要はない。王宮を出てすぐに煩わしいトークハットを外すと、クリストフにぽいと投げ渡した。
「どうでしたか?私ちゃんと、悲劇のヒロインを演じられていたでしょうか」
「ああ、十分だ。あまりに迫真の演技だから、本当にヴィンセントを恋しがっているのかと」
「はっ。つまらない冗談は、笑えないどころか寒気がいたしますわ」
王子相手に盛大に舌打ちをする私を、クリストフはただ笑って見ている。生意気で腹立たしかったこの態度が、今では安堵さえ感じてしまうのは、先ほどまで白々しい連中の相手をしていたからだろう。
「親というものは、どれも似たような人達ですわね」
「そんなことはないだろう。普通の親は、子どもに惜しみない愛情を注ぐものだ」
「あら、よくご存知で」
「残念ながら自分の両親には当て嵌まらないが、少なくとも僕はそうありたいと思っている」
クリストフの言葉は、これまでの人生の中で私が一度も考えたことのないテーマだった。
「クリストフ殿下は、きっと子に慕われる親になられるでしょうね」
艶々に炊かれた煮豆のような赤子を、その逞しい腕でぎこちなく抱いている様がすぐに想像できる。温かな笑顔を浮かべ、慈愛に満ちた瞳で我が子を見つめる。そしてその隣で、夫を立てる貞淑で優しい妻が幸せそうに寄り添っている。まだ見ぬその顔は、白くぼんやりと霞みがかっていた。
「私には、オフィーリア以外の宝は必要ありません」
「……確かに、貴女の愛は彼女だけのものなのだろう。二人には僕の知らない、強く深い絆がある」
眼前のクリストフは、私の想像とはほど遠い表情を浮かべている。
「この先も、僕は貴女にいかなることも強制できない」
「ええ。それは、お互い様でしょう」
「いいや、それは違う」
彼の無骨な指が、赤子ではなく私の髪に触れる。そのもまリボンを解くと、金の細髪がふわりと風に乗って散らばった。
「貴女は僕に、どんなわがままでも言えばいい。爪で傷を付けようが、牙で噛みつこうが、それは取るに足らない些細なことだ」
再び、私の脳裏に一枚の景色が浮かぶ。
「ただひとつだけ。決して黙って僕の前からいなくならないと、約束してくれないか」
「……なぜ、そのような」
「それが唯一、僕が貴女に望むことだから」
緑水晶の瞳は、狡いほどに神秘的だった。いくつもの死線をくぐり抜けてきた大男が、今にも泣き出しそうな表情で小さな私を見つめている。
(……馬鹿げているわ、こんな妄想)
寄り添う男女の間には、愛らしい赤ん坊。オフィーリアによく似た、天使のように可愛らしい女の子。とても幸せそうに、互いの瞳を見つめ合い――。
「ご心配には及びませんわ。私は故郷を捨てた身ですし、貴方の統治する国以外で苦労して生活する気はありませんから」
虚に視線をやりながら、私は静かにそう言った。事実、ベッセルで生きていくことが一番オフィーリアにとって豊かに暮らせるだろう。
首都から離れた場所にこぢんまりとした屋敷を持ち、数人の使用人と、猫を数匹飼ってもいい。暖かい陽の下でのんびりと散歩をし、好きな時間に本を読み、流行りの甘味に舌鼓を打つ。虐げられることも、搾取されることもなく、オフィーリアが望んでいた些細な幸せをすべて叶えてやりたい。
クリストフは、ただの契約相手に過ぎない。いずれ私は、彼の結婚を新聞や風の噂伝いに知るのだろう。その時は、せいぜい私の次に幸せになればいいと、気が向いたら祈ってやろうではないか。
「ですからどうか、ご自分の理想通りの王になってください。戦争ばかりの国では、約束を守ることはできそうにありませんから」
「ああ、必ず約束する」
他の誰かが同じ発言をしたら、根拠もないのに大した自信だと一蹴するだろう。
「貴方ならきっと、悲願を果たせるわ」
それは紛れもなく、私の本心だった。くいっと顎を上げ、ただ目の前の男を見つめる。その指が私を捉える前に、ひらりと身を翻して距離を空けた。
「そしてその暁には、もっと最先端の仕立て屋をこの国に招いていただきたいですわ。建築家も呼んでもっと首都を煌びやかにすべきですし、知らない異国の甘味も食べてみたいし、それから猫達が豊かに暮らせるよう法の改正も」
「わ、分かった。続きは後ほど伺おう」
「ええ、リリに書面にさせますのでご安心を」
「本当に、いつでも抜かりがないな」
「当然ですわ、この私ですもの」
張り詰めた空気が穏やかなものに変わり、内心溜息を吐く。私はクリストフがたまに見せる真摯な表情が、とても苦手なのだ。以前ならば適当にあしらえたが、同じ時を過ごすにつれそれができなくなっている。
一刻も早くヴィンセントと決着をつけ、この男から離れなければならない。そうしなければきっと私は、取り返しのつかない選択をしてしまうだろうと、妙な焦燥感に駆られていた。