2話 聖女の婚約者
マルグリットとエドワールが初めて出会った時、エドワールは彼女に一目惚れをした。
混じり気のないプラチナブロンドの長い髪。透き通るようなエメラルドの瞳。この2つだけでも絵画のように美しいのに、彼女は笑うと小さなえくぼができるのだ。
それだけで心臓をきゅっと掴まれたような気分だった。
「あら、エド。あなた顔が真っ赤よ。そこのお姫様、どうかこの子にお名前を教えてやってくれないかしら?」
クスクス笑いが堪えきれない様子の母が彼女にお願いをする。マルグリットは可愛らしくドレスの裾を掴み、足をクロスさせて完璧な礼を見せた。
「お初にお目にかかります。私、マルグリットと申しますわ」
「……俺はエドワールだ。よろしく」
「ふふふっ。とても緊張しているのね。ねぇ、あなた。年回りも良いし、良い組み合わせではありませんか?」
母は勢い余って父に向かってそう尋ねる。初めて息子の恋愛を見て興奮しているのだろう。父は渋い顔で曖昧に返事をする。
「先方が良いと言うかどうか。お前の願いを叶えてやりたいのは尤もだが、向こうも聖女を手放したくはないだろう」
「まあ、意気地無しねぇ。それでも国王なの?」
「分かった。一度話してみよう」
「ふふふっ。良かったわね、エド」
確かこの1週間後だった。マルグリットがエドワールの婚約者として内定したのは。
*
噎せ返るような血の匂いと、荒らされて原形を失った部屋にエレオノールは唖然としている。エドワールはその横でぼんやりと周りの様子を眺めていた。
ベッドのシーツは破かれ、ぐちゃぐちゃに。クローゼットのありとあらゆる高価な洋服が荒らされ、半分以上消えている。彼女が大事にしていた宝石箱は足がつきそうな刻印付きのものを除いてごっそり中身が消えていた。
ティールームの方はまだ損傷が少なかったが、ティーカップとティーポッドが地面に落ちて割れてしまっていた。
こみ上げてくる吐き気を呑み込んで、エドワールは窓を開けるよう一緒に部屋に入ってきた国家警察の1人に頼んだ。窓から下の庭を見下ろす。マルグリットの部屋は3階で、地面からそこそこ高さがあった。
「大丈夫ですか」
エドワールに水を差し出したのは、リュドヴィックだった。義妹の従者はこの血塗れな部屋を見ても全く動じず、周りを気遣う余裕まであるらしい。
「ほら、姫も」
リュドヴィックの言葉で、エレオノールの顔色が青くなっていることに気がついた。それこそエドワールよりも体調が悪そうだ。
「ちょっと。エドワール兄様が先で、わたしが後って主人に対する敬いがなってないわね」
体調が悪いながらも口だけは一丁前だ。彼女は渡された水を一気に飲んで、清々しい顔をしている。
「エドワール殿下のが格が高いのは事実じゃないですか」
「あなた世論というものを知っているかしら?」
「知っていますよ。姫の意見でしょう?」
「ちーがーうーわーよっ!」
リュドヴィックの頬を強くつねって、エレオノールが否定する。
「お前は大丈夫なのか?」
エドワールがリュドヴィックに聞くと、彼は目を瞬いた。
「何がですか?」
「何って、血だよ」
何を言われてるか全く分からない様子の彼に、エドワールは吐き捨てるように言う。リュドヴィックは首を傾げて、一瞬エレオノールの方を見やり、曖昧に頷いた。
「ああ……随分と魔力を撒き散らしましたよね」
少しズレた感想に、やはりエレオノールの従者だけあって変わった男だと再認識した。血に対して魔力と脳内で変換するのは血を魔法薬に利用しているような輩だろう。
そういえば、リュドヴィック・アンディセンブルと言えば、魔法薬に長けていることでも有名だったなとエドワールは今更ながらに思い出す。
「ところで何故お前たちがここにいる?」
「私がマルグリットの親友なのはみんな知っていると思っていたけれど、ここに例外がいたようね」
「マルグリット様と親友だったんですか。初めて知りました」
わざとらしく驚く動作をするリュドヴィックをエレオノールがギロリと睨みつける。
「私、この部屋にマルグリットの友人で唯一呼ばれたことがあるの」
ふんと鼻を鳴らしてとても誇らしげに言う彼女に、エドワールは義妹になる予定だからではと言いかけて止める。
マルグリットがエレオノールを可愛がっていたことは事実だ。親友かは置いておいて、妹のように愛でていたのをエドワールは知っていた。
「お前は何故だ、リュドヴィック。関係者以外入れないと聞いて、俺はベルトランを追い出したが」
「それはもちろん、僕もここに入ったことがあるからですよ」
「はあ?」
思わず間抜けな声が出てしまう。マルグリットがエレオノールの従者とまで仲が良かったというのは初耳だった。
「姫の従者として、一度入れてもらったことがあります」
「婚約者として聞くと不愉快だな。まあいい」
部屋に入ってきた男が誰なのか気づくと、エドワールは口を閉ざした。
「状況から見て、この血痕はマルグリット嬢のものである可能性が高い。もちろん、血液検査が必要だが。魔力痕に関しても特定が必要だ」
アルフレッドが珍しく神妙な面持ちで国家警察に向かって言った。彼はエドワールの兄で、王子でありながら、学園の教授もしている。魔法犯罪学のスペシャリストであることから、国家警察が協力者として重宝しているらしい。
まさか本当にこいつ主導で捜査が行われていたとは、とエドワールは心底驚いた。アルフレッドが優秀なのは知っていたが、王子に捜査の真似事をさせているとは思ってもみなかったからだ。
「みんな悪いね。この部屋は少し血が多すぎたみたいだ。第一発見者は君?」
アルフレッドがへらりと嘘っぽい笑みを浮かべて、部屋の隅で立っている赤毛の美しい侍女に声をかける。彼女は恭しくスカートの裾をつまみ、頭を傾けた。立ち振る舞い、姿勢の美しさから彼女を知らない者でも生まれが良いことを察せられるだろう。
「はい、アルフレッド殿下」
エレオノールが侍女を見て、首を傾げる。
「あなた、学園にも通っているわよね。授業で見かけたことがあるわ。確か名前は……」
「リリアーヌと申します。マルグリット様の侍女をしております」
リリアーヌのことはエドワールもよく知っていた。
彼女はマルグリットが婚約者兼留学生として王宮へ来るずっと前から、1番近くで仕えている侍女だ。赤毛を後ろでまとめて三つ編みにしていて、化粧っ気がないのが素朴で良いとエドワールに付く護衛の騎士たちの間でも人気が高く、言いよる男が後を絶たないそうだ。
身分もルナーリア王国伯爵令嬢と申し分ないため、マルグリットに付き添って学園通いもしている。
「侍女ならずっとマルグリット嬢と一緒にいるべきだよね?」
アルフレッドの厳しい言葉に、リリアーヌは眉を垂れる。
「お恥ずかしながら、昨日の晩に食中毒で倒れまして、休養をいただいておりました。本当に申し訳ございません」
「ごめん、悪いことを聞いたね」
アルフレッドはバツが悪そうに謝った。
まさか侍女が食中毒で倒れることがあるとは。昨日倒れたばかりの侍女を働かせる方も酷いものだ。
「他にマルグリットの部屋に入った者はいないのか?護衛は?侍女長、答えろ」
エドワールがドア付近に立つ侍女長を問いつめる。服にはシワひとつなく、厳格そうな顔つきをしており、リリアーヌが萎縮している。
「護衛は部屋の前にいました。マルグリット様は人の出入りを嫌うものですから、ここにいるリリアーヌ以外は部屋の立ち入りを禁じられておりました。マルグリット様の着替えはいつも別の部屋で行っております」
侍女長の証言をアルフレッドの側近が杖で空中に書き取っていく。空中に書かれた青い文字が浮かんでいるのを下っ端のメイドたちがキラキラした目で見つめていた。恐らく魔法適性が無い平民なのだろう。
「はい。マルグリットさまの軽い身支度はほとんどわたしができるので、他のメイドは今日のようなパーティーの時のみ手伝ってもらっています。あとはお茶会の同行ぐらいで、普段は別の仕事をさせています」
リリアーヌは仕事を自分一人に任せてもらえることに少し誇らしげな様子だった。何人ものメイドに身支度を任せているエドワールは自分の常識とは違うことをマルグリットがしていたのかと奇妙な気分になった。
「意外と神経質なんだな」
「何を呑気なことを言っているの。マルグリットは知っていたのよ、誰かに命を狙われているって」
エレオノールがぴしゃりと言って、エドワールを睨みつけた。その言葉にメイドたちが反応して、顔色が青白くなる。彼女たちの反応を見たからか、アルフレッドは厳しい表情でエレオノールに真偽を尋ねた。
「レノラ、言うからには根拠があってのことなんだろうね?」
「マルグリットは何度も毒を盛られて死にそうになったことがあるわ」
「何故それを……!」
リリアーヌがとても驚いた様子で目を見開いている。その反応だけでそれが真実だとエドワールたちは察してしまった。
「リリアーヌ、僕は君から全て聞いたと思っていたけど」
アルフレッドの冷ややかな声にリリアーヌが声を震わせる。
「申し訳ございません。マルグリット様から他言しないようにと仰せつかり、アルフレッド殿下にも申し上げることができなかったのでございます」
「もしかして、昨日の食中毒というのも毒だったんですか?」
「……はい。ですが、何故エレオノール殿下がその事をご存知なのですか?マルグリット様は誰にも知られたくないとおっしゃっていましたのに」
リリアーヌはエレオノールを怪しむような様子で不思議がっていた。周囲の視線が彼女に注がれ、エレオノールは真っ赤になって否定する。
「そんなのどうだっていいでしょ!私が彼女に毒を盛ったなら、わざわざその事を口に出さないわ。こんな疑われそうな場で!」
「毒殺未遂か。調べる価値がありそうだね……素晴らしい絵だ」
アルフレッドが大きな絵画に描かれたマーガレットの花束を持つ笑顔の少女を目にして、そう口にする。どうやらこの絵画だけは無事だったようだ。少女の姿にエドワールはどこか懐かしい感情が湧き上がってきた。
「俺がマルグリットの7歳の誕生日にプロポーズした時の絵画だ。名前にちなんで、マーガレットの花束を毎年あげると約束したんだ。とても懐かしい」
思わず口を挟むと、アルフレッドは微笑ましいものを見る目で絵画とエドワールを交互に見る。
「知っているよ。有名な話だよね。エドがマルグリット嬢に一目惚れをして、それを前の王妃様が取り計らって2人は婚約した。羨ましいものだよ」
「そんなに有名になっていたのか。少し恥ずかしいな」
エドワールの頬に赤みが差す。それにリリアーヌが追い打ちをかけるように言う。
「その絵画には『エドワール王子の一目惚れ』という名前が付けられているのですよ」
「嘘だろ」
室内に笑い声が広がる。唯一、エレオノールだけがムスッとした顔をしていた。
「そんな話どうだっていいわ」
「姫、少し落ち着いてください。外に新鮮な空気を吸いに行きませんか?」
リュドヴィックに連れられて、エレオノールが部屋を出る。彼女は外で待機するエドワールの護衛であるベルトランに対しても、親の敵でも見るような目で鋭く睨みつけて去っていった。
「相変わらずおかしな女だ。侍女しか知らないことを何故あの女が知っている。アルフレッド、エレオノールは怪しいぞ」
アルフレッドはエドワールににっこりと微笑んだ。
「エドワール」
「何だ?」
義妹の悪口を言うのは止めろといつもの説教が飛んでくるのかと思い、身構える。しかし、返ってきたのは想像とは全く違う言葉だった。
「今日一番最後にマルグリット嬢に会ったのは君らしいね。一体どんな様子だったか教えてもらえるかな?」
アルフレッドの言葉に、エドワールは体が硬直する。しかし、すぐにそれが疑いではなく単なる質問だと気づいた。
「何を言っている、アルフレッド。俺が最後なわけないだろう」
エドワールは落ち着いて、アルフレッドの発言を否定した。
アルフレッドがメイドたちに視線を送ると、侍女長がすっと前に出る。
「いえ、アルフレッド殿下のおっしゃる通りです。マルグリット様がエドワール殿下を呼ぶようにとおっしゃり、殿下を部屋にお連れしたのが最後でした。その時にはもう身支度はお済みになっていたので、私は大広間に移動しておりました」
参ったなとエドワールは渋い顔をする。
一番最後に会っていたというのは、周りから見るとかなり怪しい。怪しまれても弁解のしようがない。
「どうなんだ、エド?」
「間違いない。もうドレスに着替えていたようだったが、あの後誰にも会っていないのか」
「何の用事でマルグリット嬢に?」
「誕生日プレゼントとメッセージカードを受け取ったんだ。直接渡したかったらしい」
「わざわざ直接?」
アルフレッドが訝しげに片眉を上げる。エドワールは怪しまれていることにイラッとして、つい小さな舌打ちをしてしまう。
「毎年そうだ。特に今年だけってわけでもない」
「殿下のおっしゃる通りです。毎年、お互いの誕生パーティーの前に、ティーサロンでケーキを食べながらプレゼント交換をするのが恒例となっております」
リリアーヌが前に出て、エドワールの証言を裏付けるように説明する。その言葉に他のメイドたちも頷き、去年も同様にプレゼント交換をしていたことを口々に告げた。
「それなら、そこに落ちているティーカップはエドと食事をした時のものか。その後はどこに?」
アルフレッドの目がエドワールを捉えて離れない。まだ疑いは消えていないようだ。
「教会に祈りを捧げに」
「それを証明できる人は?」
「俺を疑っているのか?」
「確認だよ。答えて」
アルフレッドの真剣な顔に、エドワールはため息をつき、今日の行動を振り返る。
「確か……マルグリットとの昼食の後に教会に1人で向かって、礼拝堂にはしばらく誰もいなかったと思う。6時頃に神父が奥から出てきて、それでその後ベルトランが俺を呼びに来たから、二人が証言してくれるはずだ」
いくつか省いた部分はあるが、大方間違いない。教会の神父は盲目だから証言が難しいとしても、ベルトランなら間違いなくエドワールのために証言してくれるはずだ。
しかし、空白の時間をアルフレッドは見逃さなかった。
「つまり6時頃までは誰とも会わなかったんだね」
「俺はマルグリットがいなくなったのとは無関係だ!」
声を荒げて、エドワールは主張する。一瞬周りがびくっと身を引いて、息の音すら聞こえない静寂が訪れた。エドワールは自分が想像よりずっと大声を出してしまったことに気づき、声のトーンを落とす。
「アルフレッド、俺じゃない」
「分かってるよ。マルグリット嬢の魔力の主属性は?」
「聞いたことはありませんが、聖属性では? 歴代の聖女は全員そうですし」
リリアーヌが答える。魔力の主属性は本人以外はほぼ知らない。しかし、マルグリットの場合は特別だ。
何しろ彼女は「聖女」なのだから、属性は聖属性以外ありえない。
聖属性はマルグリットの母国、ルナーリア皇国の最初に生まれてくる男女のみに受け継がれ、男子が聖皇として国の頂点に、女子が聖女として人々を癒す国のシンボルになるのが通例だった。
しかし、長年戦争を行ってきた両国の和平のため、聖女がエドワールの婚約者になったのである。
エドワールの一目惚れでマルグリットとの婚約が決まったという美談にまとめているものの、実際エドワールが本当に一目惚れしたのかは自分でもよく覚えていなかった。きっと大人たちがでっち上げたストーリーで、本当は政治絡みの婚約だったのだろう。
エドワールは長い考え事から現実に戻る。
「なるほど。聖属性か。血液の魔力属性を確認する際に伝えておくよ」
「確かーー」
エドワールはリリアーヌの発言に付け加えようとして、口を噤んだ。言うべきではないような気がしたからだ。
「ん?」
「いや。確か……血液の魔力属性は精度が低いんじゃなかったか? 主属性だけでは人の特定は困難だと聞いたが」
「普通だったらね。ただ、聖属性を持つのは聖女ぐらいだ。あの血液が本人のものかどうかはすぐに分かると思うよ」
それはまずいな。
エドワールは口に出しかけた言葉を飲み込んだ。アルフレッドは気にせず、別の質問を投げかける。
「マルグリット嬢が誰かと揉めていたとか、誰かに恨みを持たれていたという話はあるかな?」
「さあ。マルグリットの性格上、そんなことは無いと思う」
リリアーヌがエドワールを盗み見る。
お願いだからこっちを見ないでくれ。頼むから。
エドワールが視線で圧をかけると、彼女は違う方向に目を逸らした。リリアーヌは急に思い出したという素振りで口を開く。
「1人、マルグリット様があまり好ましく思っていない方はいらっしゃいました。アルナンディ家のフェリシー様です」
エドワールは聞いてすぐに苦い顔をした。
フェリシー・アルナンディ。マルグリットが悪役令嬢と呼ばれる原因を作った男爵令嬢の名だ。
学園で2人は同じクラスに所属していて、どちらも成績優秀で、金髪碧眼の美人で、両方とも人気があった。しかし、マルグリットが近寄り難く高嶺の花だったのに対して、フェリシーは天真爛漫で親しみやすい子だった。
フェリシーの母親がマルグリットの母国出身だったという繋がりで、2人は幼い頃は仲が良かったと聞く。エドワールもフェリシーと親交があった。2人の仲が悪くなるまでは。
何が起こったのか、詳細は当人たちしか知らない。しかし、マルグリットはフェリシーを階段から突き落としたことで停学処分を下されたことがある。
その事件をきっかけに、マルグリットは悪役令嬢と呼ばれるようになってしまったのだ。
「噂の可哀想な男爵令嬢か。それで、本当に虐めはあったのかい?」
アルフレッドは興味深々でリリアーヌに先を促す。リリアーヌは息を吐き、渋々話し始めた。
「おっしゃる通り悪役令嬢と呼ばれるようになったのはフェリシー様がきっかけです。しかし、マルグリット様の名誉にかけて、虐めのようなことは起こっておりません。階段から落ちたのも、単なる事故だったと伺っております」
アルフレッドは侍女なら主人を庇うのは当然だとばかりに、目を細めた。彼はリリアーヌの話を完全に信じてはいないようだった。
「上の者が嫌うと下は皆それに応じた対応をするからね。マルグリット嬢がもう少し感情を表に出さなければ……」
「酷い言い方だな。人間好き嫌いがあるのは当たり前だ」
「ごめんごめん」
エドワールが口を挟むと、アルフレッドは軽薄な笑みを浮かべて謝る。
「この話は終わりにしよう。マルグリット嬢と仲の良い人たちにも話を聞きたいんだけど、誰に最初に聞けばいいと思う?」
「それなら、エレオノール殿下です。この部屋にもよく来てて、内緒話のためによく二人で奥の読書の間にこもることもしょっちゅうでした」
「呼んだかしら?」
部屋の外からエレオノールが耳ざとくやって来た。リリアーヌが恭しく答える。
「マルグリット様と1番仲の良い方の話をしておりました」
「あら、わたしのことね」
エレオノールはすっかり機嫌を直したようだった。気分屋の困った女だ。後ろでリュドヴィックがとても疲れた顔をして立っている。
「それで、読書の間は一体どこに?」
アルフレッドがリリアーヌに尋ねる。
「そちらの鏡が入り口なんですが……その、マルグリット様とエドワール様にしか開けることができません」
エドワールは思わず顔を背けた。アルフレッドが何かに勘づいた様子でこちらを見ている。リリアーヌが顔をあげて、にっこりと微笑む。
「よく逢い引きに使われていた場所です」
「リリアーヌ、それは言わなくていい」
羞恥心で耳が赤くなるのを誤魔化すように、後ろを向く。
「エド、婚約前に何考えてるの?」
「最悪ね」
アルフレッドとエレオノールの視線が突き刺さるように痛い。リリアーヌを恨むように睨みつけるが、彼女はふふふっと悪戯っぽく笑っていて拍子抜けする。
「心配するようなことは何もない」
「それならいいけどさ。念の為中を確かめてもいいかな?」
「俺が開けよう。開け方が少し特殊なんだ」
鏡に手をかざし、魔力を注ぐと、鏡は縁を残して消え、小さな図書館のような空間が姿を現した。
「寝室にも大量の本があると思っていたけど、読書の間と呼ぶだけあるね。エド、彼女は普段どんな本を読むんだ?」
「え? ああ……そうだな、あまりそういう話はしないんだが、そこにあるヘリオット語の本はよく見かけるような」
エドワールは本棚の上に無造作に置いてあった本を指差す。アルフレッドは一瞬固まったが、すぐに笑った。
「はは、これはヘリオット語じゃなくて、古代魔法言語だよ」
「そうか? 間違えた……ああ、そうだった、古代魔法言語の本をよく読んでた」
「古代魔法言語はマルグリット嬢が学園での論文のテーマで使っていたね。他には?」
「マルグリットは恋愛小説が大好きだったわ。怪盗の恋愛小説は繰り返し読んで感動していたし」
エレオノールは本棚から恋愛小説を取り出し、アルフレッドに渡した。彼はパラパラとざっくりページを捲るが、どうも挿絵が多い小説だ。
「じゃあ怪盗に誘拐されたのかもね」
アルフレッドが冗談めかして言う。
「わあ素敵。愛の逃避行ね」
「いや事件だろ」
エレオノールの夢見がちな発言に、エドワールは思わずツッコミを入れる。アルフレッドはエレオノールに本を返し、辺りを確認すると頷いた。
「ふうん。大体分かったかな」
「怪盗が好きって話で?」
エレオノールが首を傾げて自分の持つ本を見つめた。
「まさか。マルグリット嬢は殺害されたのか、誘拐されたのかどちらかってことだよ。床の血を見ると、何かを引きずった後みたいに見えるだろ? 鈍器か何かで気絶して血が出たマルグリット嬢を犯人が引きずって移動させたのか、それとも死体となったマルグリット嬢を犯人が引きずっていったのか……」
「アルフレッド兄様やめて。マルグリットは生きているわ。きっと生きているわよ」
自分に何度も言い聞かせるようにエレオノールが繰り返す。アルフレッドは小さく「だといいけど」と呟いた。
「血の量からすると殺害の可能性が最も高いが、生きている可能性ももちろんある。リリアーヌ。君は大広間で僕たちに「連れ去られた」と言ったよね? 何で連れ去られたと思ったの? 殺された、じゃなくて」
アルフレッドの言葉に、言われてみればとエドワールは先程大広間でリリアーヌが「連れ去られた」と口にした時のことを思い出した。あの時はその不自然さに気づかなかったが、今聞くと妙だ。
この部屋は単に連れ去られたと言うには血が多すぎる。それこそ、人が死んでいてもおかしくないような量だ。
リリアーヌは一点を見つめてゆっくりと思い出しながら、言葉を発していった。
「最初にこの部屋に入った時は、血塗れで、物が散らばっていて、頭が真っ白になってしまったんですが、その時風が気持ち良く吹いていることに気がついて」
「窓か」
「はい。閉めていたはずの窓が開いていたんです。下を見ると、マルグリット様を抱えた人影が。飛び降りるか迷ったのですが、降りられる高さではなかったですし、ここから落ちて生きられるとは思えなかったので、大広間で皆さんに伝えることにしたのです」
筋は通っているし、破綻もない。しかし、マルグリットがただ抱えられていたというだけなら。抵抗したかどうか分からないのであれば。
「殺人、誘拐両方あり得るね」
アルフレッドがエドワールの心を読んだようにそう言った。エレオノールがひっと小さい叫び声を上げる。
「リリアーヌ、ありがとう。みんな、今日は疲れただろうから、もう帰っていいよ。明日また呼び出すかもしれないけど。もしも誘拐だったら、3日以内に身代金の話が出るだろうから、それを待とう」
「そうね……ああマルグリット、せめて生きていて……」
「また明日」
エドワールが部屋を出ると、そわそわした様子のベルトランが待っていた。聞きたくて仕方ないといった様子の顔だ。
エドワールの部屋に向かいながら、ベルトランはエドワールに質問する。
「マルグリット様の部屋はどんな様子だったんですか?」
「酷かった。床が血塗れになっていたし、部屋全体が荒らされていて、金目のものがあらかた無くなっていた」
「盗賊が犯人の可能性がありますね。王都でも活発化していましたから」
「盗賊か。有り得るな」
怪盗よりもよっぽど現実味がある。
エドワールはアルフレッドの冗談を思い出し、ふんと鼻で笑う。
「それから殿下。陛下が明日、予定していた婚約祝いのパーティーを変更して、聖女の無事を祈る会にするそうです」
「父上は何を考えている」
「陛下は聖女を一刻も早く見つけるためには、人を集め、情報を集めるのが必須だとおっしゃっていました」
「はあ……分かった」
「それで、どうするんですか、殿下」
「なんだ?」
「婚約破棄をしようとしてたこと、アルフレッド殿下や陛下には隠すんですか?」
「ああ、そうだな…………え?」
当たり障りなく返そうとして、質問の内容に遅れて気づき、立ち止まる。エドワールは目を見開き、ベルトランの顔をまじまじと見た。廊下にはエドワールとベルトランしかおらず、辺りはシーンとしていた。
「俺は誰にも言ってないはずだ。何故知っている」
「教会で思い詰めたような顔していたでしょう。それだけで察しましたよ。マルグリット様には悪い噂もありましたしね」
ベルトランが噂についてマルグリットに非があると一方的に決めつけている様子で、エドワールは機嫌を悪くする。護衛が主人の意見を尊重するのは当然だが、そもそもエドワールはマルグリットの悪い噂が原因で婚約破棄しようと思ったわけではなかったからだ。
「考えていただけで、あの日実行しようとしていたわけじゃない。あの噂も、俺は信じていない」
「礼拝堂であんなに祈っておいて、よく言いますよ」
「関係ないだろう」
「まあいいですよ。マルグリット様、早く見つかるといいですね」
「……ああ」
その日エドワールはあまり眠れなかった。何度寝ようとしても、頭にマルグリットのことがちらついた。
『もしも、あなたが婚約破棄するつもりなら……』
彼女が寂しげにエドワールに語りかける。しかし、エドワールが手を伸ばすと、跡形もなく消えてしまった。