1話 聖女が消えた日
教会の鐘の音が鳴る。エドワールは瞑っていた目を開け、もうこんな時間なのかと動揺した。時計の針は6の文字盤を示していた。
6時になってしまったか。
エドワールは深いため息を吐く。
「もうこんな時間じゃの。信心深いのは結構じゃが、そろそろ教会を閉めなければならぬ。お主もそろそろ休みなされ」
「はい、神父様」
神父の声に、エドワールは礼儀正しく返事をする。
彼は昼から熱心に祈っていたが、特段信心深いわけではなかった。ただ、逃げ場を求めてやって来たに過ぎなかった。
森の中にある教会は王都のものとは違い、人の出入りが少ない。さらに、神父が盲目であることもあって、エドワールの身分を隠して過ごすにはこれ以上ないような場所なのだ。
「何か悩み事でもあるのかね?」
「実は……」
教会の両扉を勢いよく開かれる。扉の向こう側にいた男の顔を見て、エドワールは顔を逸らした。護衛のベルトランだ。彼を追って来たのだろう。
ベルトランはずかずかと大きな靴音を教会に響かせて、エドワールの前で立ち止まると、これまた大きな声をあげた。
「こちらにいらっしゃいましたか!あちこちを探し回ったんですよ?!」
「うるさい。ここは教会だぞ」
「失礼」
ベルトランは声のボリュームを下げて、エドワールの耳元に手を当てて話しかける。
「もうすぐパーティーが始まりますよ。いくら何でも主役が顔を出さないなんてことは許されませんからね」
「分かっている、ベルトラン。少し静かなところにいたかっただけだ」
立ち上がると、神父がこちらに顔を向けた。エドワールは自分の正体に気づかれたかと思いどきりとしたが、彼の表情は穏やかで落ち着いている。
「神の御加護があなたと共にあらんことを」
なんだ、決まり文句か。
エドワールは何度も聞いたことのあるその台詞に安心して息を吐く。彼もまた決まり文句を返した。
「また神父と共に」
神父の笑みが微かに深まる。
教会の外へ出ると、真っ暗な空がエドワールを包みこんだ。来る前は日が差していたのに、いつの間にか日が暮れてしまったようだ。
教会の目の前に留まっている馬車に乗りこみ、エドワールは窓から真っ暗な空をぼーっと眺める。
「まったく、殿下は何やってるんですか。今日は婚約発表もあるんですよ」
「……ああ」
ベルトランの言葉にエドワールはぼんやりとした返事をする。
今日はエドワールにとっては嬉しくもない誕生日だった。彼と婚約者の正式な婚約発表が誕生パーティーで執り行われるのだ。
婚約者のマルグリットは幼い頃に聖女と認定されてから、王子の伴侶となるために王宮に住んでいた。聖女が王子と結婚するのは昔からのしきたりである。つまり、婚約発表と言っても既に婚約は周知の事実なのである。ただ、エドワールの年齢が成人を迎えたために、公式の婚約発表をして、その3ヵ月後には結婚式を行うらしい。
「そんなあからさまに気落ちしなくても。マルグリット様は非の打ち所のない素晴らしい方じゃないですか。女の嫌いな狩りにも積極的で、剣術にも秀でている。さらには何ヶ国語も話せて、勉学ではあのアルフレッド様をうならせるほどだって言うじゃないですか。一体、どこが不満なんです?」
「それがどれも誇張じゃないからだ。この国で生まれ育ったわけでもないのに、彼女は何でも出来すぎるぐらい出来る。俺は剣術は諦めて止めたし、語学も隣国の言葉が少し話せるぐらいだ。彼女といると、俺は冴えない男になった気分になる」
自分の身分がなければ不釣り合いな相手だろうとエドワールは劣等感に苛まれた。マルグリットは慈悲深いので口には出さなかったが、周りに何度となく比較されたことを彼は覚えていた。その度にうんざりして、彼女を恨めしく思ったものだ。
「俺は殿下のそういう謙虚さも美徳だと思いますけどね。それに、得意不得意はありますから。マルグリット様が貴族らしい振る舞いが苦手なのを知っていて、殿下が先回りして貴族の対応をしていること、きっとマルグリット様も気づいてますよ」
「励まし上手だな。ありがたく受け取っとく」
ベルトランのサラッとしたお世辞を受け流す。何だかんだで彼も優秀なので、エドワールの気持ちが理解できるわけないのだ。
「そういえば最近、マルグリット様の良くない噂を耳にしますね。シェフを突然クビにしたとか。男爵令嬢のことを虐めているとか」
「俺も聞いた」
「まったく、恋愛小説に出てくる「悪役令嬢」かって思いましたよ」
「お前、恋愛小説なんて読むのか? 見かけによらないな」
剣術に秀でているベルトランはがっしりしていて、恋愛小説からは縁遠く見える。
「妹がハマってるんですよ」
なるほどなとエドワールは納得した。
ベルトランには10歳の妹がいる。彼は重度のシスコンで何かにつけて妹の話をエドワールにしてくるのだ。
「そういえば、マルグリット様見ませんでしたか? ホールで見かけなくて」
「彼女のことだ。コルセットをきつく締めるのに時間がかかってるんだろう」
「あー、細いウエスト好きですもんね」
ホールに着くと、周りがエドワールに向かって作り笑いで微笑みかけてくるのが分かる。目はギラギラしていて、男女共に取り入ろうと必死だ。エドワールは長年の王子経験から、貴族連中の扱いはよく理解していた。とはいえ、全ての人との挨拶が終わった頃には10時を過ぎていた。
「まあ、ごきげんよう。あなたの顔を見るだけで反吐が出るわ」
この女は態度が悪すぎて逆に驚くな。
にっこりと笑顔でその女はエドワールを罵倒した。こめかみが引き攣るのを感じる。彼女の横の男も小さく悲鳴を上げておろおろしている。
エレオノール王女と呼ばれるその女は、エドワールよりも年下で、しかも寵妃の娘だ。今はその寵妃が王妃になったとはいえ、エドワールからしてみれば正式な王位継承権を持っているとは言えない。
「エレオノール殿下。それはうちの殿下にあまりにも失礼ではありませんか」
「誰があなたに話して良いと言ったの?黙りなさい」
エレオノールの魔力の圧に負けて、ベルトランがすごすごと後ろに引き下がる。エレオノールの後ろで従者が彼女の行動にいちいち反応して慌てふためいていた。
エレオノールは従者を何度も変えているが、彼は長く続いている方である。それはつまり、よっぽど我慢強いか相当な変わり者のどちらかということだ。
「嫌な顔を見たら急にお腹が空いてきたわ。ところで、エドワール。あなたマルグリットを見なかった?」
「見ていない。まあそのうち見つかるだろう」
さすがにマルグリットがまだ部屋にいるとは考え難い。もう大広間に着いているはずだろう。婚約発表の予定は11時頃になっていたから、その時間までには間違いなくいるはずだ。
「自分の婚約者の居場所ぐらい把握しておきなさいよ」
「悪かったな」
エドワールは精一杯の作り笑いを顔に貼り付けて対応する。エレオノールは国王のお気に入りだ。いくらエドワールが次期国王だからといって、現時点で国王とは敵対できない。
それにしても、仮にも誕生日の人間をどんな扱いだ。自分が国王になったら、この女は真っ先に北の僻地に送ってやるとエドワールは決意した。そのままそこで凍え死んでほしいと願う。
「リュド、わたしお父様と話してくるから、マルグリットを探してきてちょうだい」
「え、俺一人でですか?」
「当たり前でしょ。ついでに水を持ってきて。喉が乾いて仕方ないわ」
「はい、かしこまりました」
お腹が空いてるのか喉が乾いたのかどっちなんだ。どっちもか。
エドワールが苦々しい顔をしていると、エレオノールの従者がこちらに顔を向けて今にも泣きそうな顔をしている。
失礼な王女を主人に持つと苦労するものだな。
「ほんとすいません。許してください。うちの姫がとんだご迷惑をおかけしました」
父のところに向かったエレオノールをよそに、頭をペコペコ下げて必死に彼女の側近が謝った。エドワールは彼を学園でも何度か見たことがある。エレオノールのお気に入りの文官で、名前をリュドヴィック・アンディセンブルと言ったか。
「気にするな。お前も大変だな」
「あー……やっぱり分かります?」
「やばいと思ったら辞職した方がいいですよ」
ベルトランが後ろから的確なアドバイスをする。リュドヴィックの目の下にはクマもあり、就業体制も酷そうなので的確なアドバイスだ。
「そうですね。でも、もう少し続けたいと思います」
「もの好きだな」
我慢強い方かと思ったが、どうやら変人の部類だったらしい。
エドワールの中でリュドヴィックの評価が下方修正された。
「変ですね。姫の言う通り、さっきからマルグリット様の姿が見えない気がします。とても目立つ方なので、すぐに見つかると思ったんですけど」
リュドヴィックが周りをキョロキョロと見渡して、首を傾げた。エドワールも釣られて周りを見るも、確かにそれらしい人物は一人も見当たらない。彼女がよく着る真っ白なドレスも、光り輝くプラチナブロンドの髪も、視界には少しも映らなかった。
「ここにいないということは、まだ部屋にいるんじゃないのか?」
エドワールがそう呟いた瞬間だった。
「大変です!」
マルグリットの専属メイドが大声で周りに呼びかける。
彼女の声に周りが静まり返る。数秒して、何事かとざわつく周囲に彼女は声を張り上げた。
「マルグリット様が何者かに連れ去られました!」