9.
俺が今その生活の基盤を置いているここは、ラッセル王国の王都、エレンという名の街だ。
そして。この王国の現在の王妃様も、エレンという名前なのだそうだ。
現在進行形で俺に多大な迷惑を掛け続けているキラキラなイケメンであるバカ王子が、十八歳。
そして。来年には、現在の王様と王妃様のご成婚二十周年を祝う記念行事が、予定されている。
ちなみに。ここがエレンの街と呼ばれるようになったのは、十九年ほど前からのこと、らしい。
俺がこの街に定住するようになってから、約三年。
ではあるが、俺は、それ以前にも何度か所用でこの街を訪れたことがあるので、約十年前からここの様子を知っていたりする。
だから。まあ、流石に、十九年前の姿を実際に見た訳ではないのだが、長期間に渡って定期的にこの目で見てきた街の変遷から何となく、当時のこの街の様子はおおよその想像がついてしまうのだ。
この街は、厳密に区画整理が為されて事前に描いた青写真に基づき計画的に整備された訳でない、という点については見るからにして明らかなのだが、基本設計の段階で将来の拡張も視野に入れた余裕と柔軟性のある配置と構造が取られていた、という点についてもまた確かだった。
何故なら、この街は、俺の知る限り、十年前から少しずつ、王宮を中心にして外へ外へと無理なく徐々に広がっていっているからだ。
街の周囲が見渡す限りのだだっ広い平原であり、拡張の余地が十分にあったというか予め確保されていた上に、この街の役人たちが臨機応変な対応をするので、特に諍いもなく需要に応じた継続的な発展を享受してきた、と言えるだろう。
と、まあ、そんな雑学的な過去の回想話は、兎も角として。
そういった経緯もあり、この街では、商人や庶民にせよ、貴族にせよ、王宮から近い位置に陣取っている建物には、伝統と格式のある其れなりに認められた家柄の人たちが居を構えている、という話はこの街における常識の一つとなっている。
つまり。貴族のお屋敷地区にあって王宮前の広場を望む位置に広々とした庭園まで備えた豪邸を構えている人物はこの王国の重鎮である、と断言してしまっても全く問題がない程に。
うん、まあ、そうだ。予想の範囲内、ではあった。
実物はアレだったけど見ためは悪くないし、中身は非常に残念な生き物ではあったが一応は王子様なのだ。
現時点での甚だ芳しくない本人に対する評価はさておき、この国の将来を背負って立つ可能性が高い重要人物に対して周囲の実力者たちが吟味の上で選んだ婚約者殿が、小者な訳など無いのだ。
俺は、そんな今更ながらの埒もないことを考えながら、侍女と護衛を兼務する女性騎士のエリカさんに案内され訪ねて来たお嬢様のお屋敷の、その落ち着いた趣ある上質な応接室で、寛いでいた。
絢爛豪華という感じではないが一見するだけで超高級品だと分かる年代物のよく手入れがされた調度品の数々を、のんびりと興味深く眺める振りなどしながら、俺は、座り心地の良い上等なソファーにどっかりと座って、無の境地とまでは行かないものの己が心を鎮めるのだった。
はてさて。どのような人物が、現れるのやら...。
先方からの呼び出しを受けて即座に出向いて来た割りには、到着してからの待たされる時間が長い、ような気がする。
いや、まあ。エリカさんが物凄く頑張った、或いは、俺の準備が予想以上に速かった、という想定外のパターンだった可能性もある、のかな。
もしくは。直前になって何らかの想定外の割込みが先方に入った、というケースもあり得る。
いや、それ以前に。そもそもが、高貴なお育ちのお嬢様は格下の相手を待たせて当然と考えるタイプの高慢ちきな人物である、といった可能性も否定は出来ないのだ。
ついついお仕えするお嬢様こそ我が命なエリカさんの言動から、高潔で人格者な心優しい美少女をイメージしてしまっていたが、高位貴族のお嬢様が貴族と平民を分け隔てなく公平に扱うとは限らない訳で...。
「お待たせ致しました」
美少女、だった。
現れたのは、思わず見惚れてしまう程の、美少女だった。
ただし。笑顔はない。
けど。見下した感など一切なく、友好的な雰囲気ではある。
勿論、見ようによっては、お高くとまっている、と言えなくもないだろう。
とは言え。自身の立ち位置を自覚した立場あるご令嬢であれば当然、とも言える物腰と態度だった。
うん、問題なし。合格、かな。
これなら、対等な立場でとまで言えるかどうかは別として、少なくとも話の通じる商談相手として友好関係は築けそうだ。
そう判断して、俺は、ニッコリと余所行きの笑顔を浮かべ、立ち上がって軽く一礼する。
「お初にお目に掛かります。アルヴィンと申します」
「ロンズデール伯爵家の長女、クラリッサ・ラウザーですわ」
「よろしくお願い致します」
「こちらこそ。エリカから、お話は伺っております。是非とも、懇意にして下さいな」
「それはまた、光栄ですね」
「まあ。お上手ですこと」
「ははは。恐れ入ります」
「では。立ち話もなんですから、どうぞ、お座り下さいな」
落ち着いた態度と綺麗な所作で、俺にも座るよう勧めて向かいの席に腰掛けるクラリッサお嬢様。
うん。やっぱり、美少女だ。
光沢があり加減によっては銀髪にも見える薄桃色の長い髪が、窓から差し込む陽光でキラキラと輝いていて綺麗、だ。
釣り目気味で、少し気が強そうにも見える整った造作の綺麗な顔と、折れそうな程に体の線が細く華奢な体型の、成長途上な女の子。
これで、後は、眩しい笑顔さえ装備されていれば、俺の娘と良い勝負なんだがなぁ。
うん、実に惜しい。
やはり、十六歳というお年頃であれば、もう少し無邪気な笑顔が欲しい。
まあ、得体の知れないオッサン相手に貴重な笑顔を晒すのは勿体ない、という意見もあるかとは思う。けど、俺の娘は、笑顔の出し惜しみはしない。そう、まさに天使、なのだ。
ん?
十四歳と十六歳では、少し事情が異なるか?
確かに。成人前と成人後では、女の子と女性で分類が微妙に異なる、という考え方もあるかなぁ...。
などなど、と。
俺が目まぐるしく頭の中で色々と益体もないことを考えていると、いつの間にやら、エリカさんがお茶を給仕して、お嬢様の後ろへと控えていた。
勿論、俺にはこの部屋に通された時点で茶菓子と共にお茶が出されていたので、御代わり、という奴である。
俺は、淹れ換えかえられたお茶に口を付け、一息つく。
そのタイミングを見計らったかのように、社交用と思しき少し怜悧な仮面のような笑顔を貼り付けたクラリッサお嬢様が、背筋を伸ばした奇麗な姿勢を保ったままで俺の瞳を覗き込んでくる。
「レナード殿下の御戯れを収束させるお手伝いをして下さる、というお話でしたね」
「はい。エリカさんには、そのような申し出をさせて頂きました」
「アルヴィン様のお知り合いの方が迷惑されている、とか?」
「ええ。そうなんです。お若い王子様にも、困ったものですよね」
「...」
「けど、まあ。婚約者であるお嬢様が、冷静に対処できる才女のようなので、良かったです」
「...」
「...」
「...」
「ところで。お嬢様は、この街の女性社会で今流行りの乙女小説って、ご存知ですか?」
「いえ、存じませんわ」
「左様ですか...」
「...」
「周囲の野次馬的な皆様は、この乙女ナントカ小説とやらで描かれている修羅場イベント、って奴を期待されているようなんです」
「修羅場イベント、ですか?」
「はい。物語の中のクライマックスとされている場面を実際に見ることが出来る、と楽しみにされる気持ちも分からなくは無いのですが...」
「...」
「その登場人物として、大切な身内が割り当てられてしまうと、笑い話では済まされないんですよね」
戸惑いながらも貼り付けた怜悧な笑顔をきっちりと維持した上で、知らなかったり分からなかったりする事項には直ぐにコメントしないお嬢様の慎重な対応に感心しながら、俺は、今後の対応についての交渉に入るのだった。