07:artbook スケール
持ち慣れたデッサン鉛筆とは角度の違う、硬いペン先と艶やかなインク。
フィデルの屋根裏部屋は静かで、ひとりの作業に打ち込むには心地がよかった。
久遠旭は椅子から立ち上がって窓の外を覗く。ストームが迫っているのか、夜の魔力に支配された森が声を出さずに泣き叫んでいる。
紫青病に由来するフィデルの譫言めいた説明によると、作品の応募締切は明日の昼らしい。それまでに戻れる可能性が低いので、スキャンした完成原稿を室内のPCで送信してほしいと頼まれた。入力事項を書いたメモがデスク横の壁に掲示されている。
数時間前、交渉に応じたフィデルにつき添ってリビングに下りたところ、心配する姉に反抗的な態度を向けたまま、作中の『ドサッ』を再現するように彼が倒れ、グレースの連絡で駆けつけた診療所の医師が車で隣街のメディカルセンターへ運んでくれた。
ふと見ると、脇に置いた試し描き用の紙が四隅以外真っ黒だ。
馴染みのないビルや店内などは、棚に資料があったのでそれを参考にした。
無限に自由でありながら、精密さと緻密さが織り合っている紙上の都市。
人の作品を壊すわけにはいかないので、別に描いた背景を切り抜いてフィデルの原稿に貼りつけている。好みでなければ遠慮なく剥がして他の絵を入れてほしいと思った。
夜の食事を辞退し、自分との闘いの果てに仕上げたものをスキャンする。空の荒れは激しくなるばかりで、朝を待たず、人間を吹き飛ばす威力のストームが通過するだろう。
メモにあったサイトに繋いで作者の情報を入力したところまでは順調だったが、作品名の隣にあるペンネームで手が止まった。書置きにはフィデル・M・グラントという名前しかない。
迷った末、グレースにメディカルセンターの番号を調べて貰い、本人に直接訊くことにした。自分のフォンを使って久遠名義の履歴を残すのは躊躇われ、充電が心許ないと偽って家庭用の通信機を借りる。
耳慣れないコール音を数えていると水底に沈んでいくような虚無感に襲われた。
応答したナースに頼んでフィデルに取り次いで貰う。携帯しているはずのフォンの電源を点け、安全なエリアから家に掛け直すよう彼に指示した。面倒だが、第三者に会話を傍受されることを防ぐべきだ。蛍に関わった人たちを狂わせる目的で飛田が現れ、グレースとフィデルの未来を切り刻む気がして怖ろしくなる。申し出は有り難かったが、宿泊に頷いてしまった短絡さを後悔していた。明断果決を修得できていない。
すぐに折り返しの着信がある。
『僕ですけど。周りには誰もいません』
「背景は描き終わった。減点されるほど酷くはないと思うが正解がわからない。俺の判断で送っていいのか? その前にペンネームを教えてくれ」
『公園の絵が桁違いに素敵だったのでそのまま応募してください。本当にありがとうございます! ミドルネームがミカエルなので』
大天使が長期休暇中しか通学せず、屋根裏部屋で不気味な漫画を描いている緑豊かな荒野で、錆びた線路に囚われない生き方を見つけたくなる。
短い沈黙の後に彼が口を開いた刹那、隣街の電波塔がやられたらしく通話が断絶した。急がなければこちらも危ない。
ペンネームはミカエルと音が似ている、もしくは天使っぽくないワードのどちらかだ。
フィデルのPCに戻って『エルフ』と入力し、削除した。異世界からの応募はまずい。
焦っているときの癖で襟を握った途端、閃きに唆され、『振リ返ル』と打ち込む。
原稿は無事に送信された。結果に関しては占いで当てるしかない。
作業を終えた屋根裏のデスクに伏せ、自宅に届いているはずの手記の先行きを想像しながら眠ってしまった。
溌溂としたノックで覚醒し、あたたかく疲れを帯びた腕でドアを開ける。
原稿にかかりきりで忘れていたが、蛍の顔を見た瞬間、昼間の奇妙な絵を思い出した。
背景の資料を探している最中にクロッキー帳が棚から落ち、使いかけのページが悪気なく目に触れてしまった。描かれていた鉛筆画の、頬に手を添えた涼しげな人物が彼女そのもので、偶然の一致では片づけられそうにない。
あれは蛍なのだろうか。直接訊いて確かめたかったが、フィデルの承諾を得ていないので伏せておくことにした。
「グレースさんから預かった夜食持ってきたけど……。いる? いらない?」
トレーにパンとサラダが載っている。原稿を避難させ、礼を言ってデスクに置いた。
「どんなマンガなの? 面白かった?」
現物を読むつもりはないようだ。しかし『痙笑MAN』の内容と感想は聞きたいらしい。
率直に、救いはあるが希望はない戦闘系ファンタジーだと説明する。
「血だらけになって建物破壊しながら敵と殺し合うやつでしょ? たまにある緩い休日と絆のエピソードが好き。……マンガといえば、作者の先生にメッセージを送った2日後に訃報を知ったことがあった。物語の最後に願いを叶えてくれて嬉しかったけど、助けて貰ったのに応えられなくて今も悲しい。この話をしたの、旭が初めて」
彼女のお気に入りだった漫画は『裏側の地図』ではないか。暗い質感の絵が美しく、リバースワールドを旅している青年が、人々の辛い記憶を力に換えて狂気の侵略者と戦うストーリーで、最終話にホタルという少女が憧れの騎士に看取られる描写がある。
抗えない運命だとしても、否定、悲惨、非情にまみれた社会の空気を吸い、目の前の歪んだ悪意と向き合っているうちに精神がくすんでいく。
傷を負うばかりの現実を閉じて、物語に夢や理想を求める感情の憩いが逃避と見做されるのはなぜなのか。
「子どもの頃、俺は漫画の主人公たちを自分の仲間みたいに思ってた」
この世界の内側は脆く残酷だけれど、ときおり両手で掬った砂の中に、綺麗な硝子片が紛れている。
artbook:07 end.