18:artbook パンの内側
完成した水族館の背景をフィデルに送った。久遠旭は寝転んだベッドでレポートの文献を開き、ページの余白に魚の絵を描く。
午前の2科目が休講になるという罠で朝の爽やかな時間を持て余し、昼過ぎまで起きなければよかったと後悔する。
程なくフィデルから返信があり、真面目な心根が透けて見える礼の言葉と、漫画の契約を断った理由が綴られていた。報復殺人の場面を削除しろと迫られたらしい。
思い遣りのない正しさを押しつけてくる奴らを相手にしなければいけない社会だ。一緒に狂れていくつもりがないのなら対岸に渡るしかない。試練と葛藤を積んだ船が、いつかきっと地図にない海へ流れ着くだろう。
二度寝が未遂に終わり、デッサンの道具を持って、蛍と先日待ち合わせたメディカルセンター前広場を訪れた。同じベンチが空いていたので絵の続きに取りかかる。
どこかで聴いた曲の、少しもくだらなくない切実な声と投げ遣りな歌詞の痛みが頭から離れず、仕上がりを確かめてスケッチブックを閉じた後にふと、窓からこちらを見ていたという白衣の男を思い出した。
さりげなく建物を眺めたが、それらしい人物の姿はない。以前顔を合わせた平間医師の同僚かはわからないけれど、できれば直接話をして奇妙さを片づけたい。
後ろ暗い好奇心を抱え、受付で『久遠旭』を駐車場に呼び出すアナウンスを頼んだ。
移動して数分待つと、パーキング行きの通路に焦りを帯びた面持ちの男が現れた。スーツのジャケットを脱いだ装いで、着ていた白衣を置いてきたことを想像させる。首から下げたIDカードの名は『近宮(CHIKAMIYA) 一喜(KAZUKI)』。
「俺を知ってるみたいですね」
「あぁ」と降参した声を発し、男は表情を整えた。「恭介とは留学先の寮で一緒だったんだ。君にも何度か会ったことがあって……。連絡が取れなくなってしばらく経つんだが、お父さんは元気かい?」
「既に死んでるかもしれません。俺も両親とは音信不通です」
男が「それは残念だ」と呟いて僅かに俯く。「接し方が難しくて君も悩んでいたかもしれないね。恭介は几帳面すぎるところがあったから」
父親の友人という関係は嘘ではないだろうが、あまり有力な情報を得られそうにないと判断した。「今後も実家に帰るつもりはありません。あそこで暮らしてた頃のことは断片的にしか思い出せないです。自殺に失敗したせいで」
言い終えた瞬間、拒絶のためとはいえ、余計な過去を暴露してしまった迂闊さを罵りたくなる。IDカードには外科と書かれているが、男の本領はあの分野かもしれない。カルテを作られる前に立ち去らなければ。
「今も死んでしまいたいと……」
労わるように伸ばされた手を躱した。
「理解は求めてないので放っておいてください。ここにはもう来ません。……父より俺の方がいかれてると思いますよ」
男を振り切って自宅に辿り着いたのと同時に蛍から着信があり、変な丸いパンが焼けたので連れて来るという。彼女に白衣の人物が父親の学友を名乗っていることを伝えるべきか迷い、けれど家族の話をすると爪の間に針を刺したくなるので黙秘を選んだ。
やがて訪問してきた蛍を招き入れる。一度帰ったのか私服姿で、無地のシャツワンピースにニットを重ねていた。件のパンは村娘風の手提げカゴに詰め込まれているようだ。
「おなか空いてる?」
まさかこの状況で、不審な男に触られそうになった衝撃で食欲が失せたなどと打ち明ける訳にもいかず、半ば無意識にイエスと答えてしまった。
「本当? 材料持ってきてよかった。白いシチューも作るから待ってて」
飛田の挑発で消耗しているかと思ったが、蛍は意外と元気そうだ。その凛とした気丈さを分けてほしくなる。
調理音の催眠効果で眠ってしまい、夢の中で執拗に幼い手を消毒されるという古い苦しみに溺れた。父親の旧友らしき人物と無駄な遣り取りをしたことを心の底から後悔する。
「旭、寝てるの? シチューできたけど」
ソファの傍らに膝をついた彼女に肩を揺すられて仮死状態から復帰した。
「ごめん、少しでいい」
大人びた態度でやわらかく頷いた蛍がキッチンへ向かい、トレーに食事を載せて戻って来た。「絵の描きすぎで疲れてる? 4割くらい身体起こして。病人枠が空いてるから食べさせてあげる。……あ、待って。手洗わないと」
立ち去りかけた彼女を呼び止め、診察室の棚にエタノールがあることを告げた。ボトルを抱えて帰還した蛍に、個人的には降霊会向けだと思う秘伝の手指消毒を教えてみる。
「ここで暮らしてたから医学に詳しいの?」彼女は冗談ぽく笑い、菌を殲滅し始めた。
その姿を眺めていると父親の妄執的な指導が、ひとりでも病原体から身を庇えるようにという愛情由来のものだったのではないかと惑わされそうになる。
「どうぞ」儀式を終えた蛍がクリーミィなあいつを掬ったスプーンを近づけてきた。
不思議と抗う気になれず、彼女がひと口を見繕って運んでくるシチューと、可愛げのある変な丸いパンをいただいてしまった。
潜んでいたやさしさの粒子に冒され、蛍がいないと不安に襲われる体質になりそうだ。
「姉がコスメの会社に勤めてるって話したことあると思うけど、本人の希望で海外支社に行くかも。でもわたしはこの街に残るから」彼女はシティ・グランが好きらしい。
「遠くに引っ越せば飛田も追って来ないだろ。俺のことなら心配しなくていい」
蛍が微笑みながら手を伸ばし、いつの間にか胸元に落ちていた野菜を布巾で拭う。
「するに決まってる。……襟の縁破れてるけど大丈夫? 気に入ってる服でしょ」
つまらない寂しさに翳る荒野で、暖色が揺れる彼女の声を瓶に閉じ込めたくなる。
この刹那に蛍が、味方はあなただけだと言って、もうすぐ死ぬトレーナーと自分を見守ってくれることを、祈るように願っていた。
artbook:18 end.




