16:artbook カッターナイフ
一昨日の登山疲れの余韻で寝過ごしてしまい、午前の講義に出そびれた。
久遠旭は抱えて眠っていたスケッチブックをベッドの足元に放る。
それとほぼ同時に着信があり、緊迫した口調の蛍が『山麓の側溝から杉谷さんが見つかったみたいで、その件で呼び出されてた』と言った。『「人に水をかけてしまったので同じ目に遭います」って学生証の裏にサインペンでメッセージが……。たぶん、わたしが疑われるように仕向けられてる。自殺じゃない』
おそらく蛍を孤立させる計画で、飛田が彼女と揉めていたメンバーを順に葬っている。今すぐに早退しろと言いかけたけれど、そうすれば逃げたと見做され、より濃厚な嫌疑をかけられかねない。
放課後、私服に着替えてから来るというのでいつもの公園で会う約束をしていたが、予定の時刻を過ぎても蛍が現れず、更に5分待ってから彼女のフォンに発信した。
数回のコール音の後に繋がったものの、本人の応答がなく様子が不自然だ。黙って耳を傾けていると、威圧的な男の説教に続き、冷ややかな抑揚で応じる蛍の声が聞き取れた。
『もう帰っていいですか? 杉谷さんとは課外授業での出来事以来、一度も接触していません。何度もそう言いました』
教員らしき男は、『本当のことを話すまでここにいて貰うぞ人殺し』と監禁に積極的だ。
直ちに救出すべきと判断し、青徨学院高等科に紛れ込むため、近くのファストファッションで男子の制服に似たチャコールグレーのスラックスを購入した。自宅に戻って適当な白シャツと革靴を合わせ、急いで現場へ向かう。
捕まった場合に備えて証拠が残りそうなサブウェーやタクシーを使わなかったが、辿り着いた放課後の門は拍子抜けするほど開放的で、すれ違った生徒や守衛に怪しまれている感触はなかった。あまり人も残っていないのだろう。建物の中は閑散としている。広すぎて居場所が掴めず、フロアマップで会議室や多目的室などの位置を確認して蛍を捜す。
3階に到達した直後、廊下の奥から施錠の音が聴こえて曲がり角の先を覗いた。
ポロシャツ姿の、教員と思われる男がこちらに歩いてくる。その背後で内側から叩かれる扉。毅然とした生徒の言動でくだらない自尊心を損傷したのか、プライド回復プログラムの一環で蛍を閉じ込めたようだ。思い立って彼女の番号にかけてみると、男のポケットでフォンが振動した。発信をキャンセルした途端に静寂が戻る。
「鍵と取り上げた端末を寄越せ」
こちらに気づいた男が、「誰だおまえ!」と不躾な口を利いてくる。「何だその態度は。先生に向かって。失礼だろう!」
「先生っていうと医者なのか? それとも弁護士? 本出してる人? ……どうでもいいけど、親しくもない相手に偉そうな口調で『おまえ』とか怒鳴る奴の非常識さが笑えるよな。勤務中だろ。自宅にいるときと同じ気分で私的な感情晒すなよ」
「黙れ! 生徒の分際で!」
残念ながら敵対してしまった。強引に奪い取ろうと近づいた瞬間、ポロシャツが逃走を謀ったので膝の裏を蹴って転ばせた。そのまま片方の足首を踏みつける。
「返せ」回収したアンケート用紙のように紛失されると迷惑だ。「早くしろ」
悔しげに投げつけてきた端末と鍵が廊下の壁に当たって乾いた音を立てる。
「退学にしてやるからな! おまえ、どこのクラスだ!」
「知らねえよ。謝罪はどうした? 生徒に危害加えたりしてないよな?」
無言なので太腿辺りを蹴る。
「教員免許センターに連絡して、罪を犯したから逮捕前に返納すると言え。通話はスピーカーにしろ。無駄な抵抗するなよ。それが済んだら学長にかけて退職を申し出ろ」
速やかに従わないのでもう一度蹴った後、ポケットに突っ込んでおいたネクタイを男の首に巻きつけた。
「ごめんなさい許してください辞めたくないですお願いしますっ。妻と子どもがっ……」
「家族が大事なら人に恨まれるようなことをするな。生き様が醜いんだよ」
学生相手の罵倒。恫喝。体罰。侮辱。成績操作。隠蔽。虚偽報告。こいつらは教育機関の名を借りた無法地帯で、どれほどの心を踏みにじれば自らの異常さに気づけるのだろう。
「生徒を閉じ込めた理由は? どこにも連絡できないように端末取り上げて、最低だな」
反抗的で嘘ばかりつくから、という挑発的な答えが返ってきたので渾身の制裁を加える。
「死ねよ」
攻防の末に男が屈し、指示通りに退職を依願したのを見届けてから拘束を解く。「監禁の証拠は押さえた。刑務所に入りたくないなら二度とこの街に近づくな」
泣いているかもしれないと思いながら鍵を拾って扉を開けると、厳格な女性司令官風の表情で頬杖をついていた蛍と視線が合った。彼女は会議室の椅子から立ち上がり、微かに頷いた後、自分のフォンを回収して遠ざかっていく。ふたりで歩いているところを目撃されるとまずいので、こちらも気まぐれに手を貸した男子生徒のふりをする。
廊下の角を曲がる前に足を止めた蛍が、「ありがとう。助けてくださって」と他人行儀な声で言った。次に会ったときもこの口調だったら傷つかずにはいられない。
近くの洗い場で、直に触れてしまった鍵をハンドソープまみれにして鏡の横に放置する。
やがて俯せたままの男が拳で床を叩き始めた。鬱陶しい残響だ。
一度帰って着替えを済ませ、待ち合わせ場所だった公園を訪れると、ブランコを囲っている鉄柵に真新しいメモが貼られていた。夜のせいか辺りには誰の姿もない。
紙はルーズリーフを切ったもので、接着を担っているマスキングテープに淡く柄がついていた。『明日同じ時間にここで』と大人びた文字が並んでいる。
「……俺のこと避けないのかよ」
退廃した手の平に、灰色の痣ばかりが増えていく。ブランコに座ってスケッチブックを開き、錆色の返り血を振り払うように鉛筆を強く握った。
この世界の暗渠から目を背け、また人間に生まれたいと思うためには、まともな精神の何割を生贄として捧げればいいのだろう。
artbook:16 end.




