12:artbook マスキングテープ
休日の昼、久遠旭は隣区の公園で蛍を待っていた。
いつも同じ場所で落ち合っていると他人の記憶に残るので、新しいスポットをこちらから提案した。
小さな紙にスケッチを描き終えたところで現れた彼女は、半袖の白いニットにハーフパンツを合わせ、大人びたサンダルを履いている。海辺をイメージさせる開放的な笑顔だ。
「またブランコ乗ってたの? 依存症じゃない?」
「眠くて怠いんだ。揺れると少し治る」
肯定も否定もせずに相槌を打った蛍は、囲いのパイプ柵に軽く腰かけて辺りを見回した。隙のなさと警戒心の高さは保守の鑑だ。昨夜の話では、衝突した女子生徒が不審な死を遂げた件で、飛田本人に自殺教唆の罪を問い質したようだけれど。
ふらりとブランコを離れ、無数の樹木に監視された遊歩道へ向かう。
「進んでる? 灰色の街」
「サイズ変えて描き直すか迷ってる」
病的に会話を弾ませる力が不足していて恐縮だが、蛍が来てくれてよかった。ひとりきりで過ごしていると自分の内面を知りすぎてしまう。
「旭、待って」
虚無感を覚えるほど長い道を歩いている半ばで不意に腕を掴まれた。
前傾姿勢の蛍が足元に手を遣っている。「……どうしよう。サンダル壊れた」
「重傷だな」踵の部分が割れてしまっている。
「今気づいたんだけど」面白い発見をしたらしく、彼女は瞳を輝かせた。「絵を描くために生きてく人か、そうじゃない人かを触っただけで見分けるのは無理。腕の形はみんなと同じ」
他と違うのは中身の方だ。命ごと破壊しない限り、精神に植えつけられた芸術科目を切り離せない。そのうちイーゼルが墓標になるだろう。
幸い近くの通りにシューズショップがあり、星空っぽい灯りの下、10人に満たない客が靴を物色していた。
蛍は線の綺麗なサンダルを見繕い、試着用の椅子でフィッティングを始める。過労で倒れるわけにはいかないので、長期戦にならないことを祈るしかない。
やがて「これにしようかな」と、そっくりな3足の中から煌めくベージュが選ばれた。
「わかった。そこにいろ」
会計を済ませ、椅子に戻って履き替えるように促すと、蛍が涼しげな声に遠慮をのせて「いいの? プレゼントして貰う理由がないけど」と言った。
「受け取ってくれ」いつか彼女に救われる自分はきっと、それ以上のものを返せない。
靴の店を出て噴水広場で休憩している最中、ビルの壁と一体化した液晶画面から花屋占拠のニュースが流れた。パティシエ風の青年が男の首に腕を回しているシリアス展開だ。
「秘密の花園で揉めてるように見えるな」物憂い事件ばかりで暗い部屋に沈みたくなる。
キャスターの話によると、リレーの練習中に炎天下の急病で蹲った青年の兄が、陸上クラブのコーチをしていた人質の男性教諭から醜悪な暴力を振るわれ、頭部を激しく殴打されたダメージが致命傷となって現在も目を覚まさないという。
何万人の尊い生徒を犠牲にすれば、教育機関は悪魔的な毒手を省みるのか。
「高等科を卒業するまではわたしたち、無実の受刑者みたいなものだから」
青年は償いをさせようと捜し回ったが、軽薄かつ軽微な賠償責任を果たした男が行方を晦ましていたため見つけられず、諦めかけていたとき花屋の前で標的を捕えた。
殺人狂が平然と暮らすこの街の治安が心配だ。
男は言い訳を繰り返し、悪意の暴力ではないと主張して謝罪を拒んでいる。
「証拠見せてやるよ!」
青年が窓の隙間から放り投げたパスケースの中身が紹介される。
鮮やかな画面に、受傷直後と思われる痛ましい姿の兄と、そのベッドを囲む家族の惨い写真が映し出された。自分たちは、犠牲者の掠れた足跡から何かを学ばなければならない。
青年は泣きながら、男に死んで償えと怒鳴り続けている。そこで中継が途絶えた。
不運という言葉では片づけられない彼の悔しさと怒りが、生々しい重さとともに突き刺さって張り裂けそうだ。この放送がもたらす社会的な男の死で、青年と家族が僅かにでも報われることを願う。
衝動に駆られて小さなクロッキー帳を取り出し、黒板の前に立つ罪人の似顔絵の下に『こんにちは! 教員免許を所持した殺人鬼です』と文字を添えた。
幸運にも、課題に使ったテープがポケットに入っている。
街灯に駆け寄った蛍がこちらに手を伸ばした。悪戯で爽快なスマイルだ。
「貸して。わたしが貼る」
散々くだらないイラストをばら撒いた後、テイクアウトの包みを抱えて噴水広場に引き返した。珈琲に口をつけた瞬間、巨大な液晶画面が切り替わる。
あっ、と蛍が声を漏らした。予期せぬ続報だ。
溺死事件当日の昼頃、被害者たちと交友関係にあった児童が、そのうちのひとりに『お菓子屋さんの美味しいクッキーを貰えるから一緒にボートで遊ぼう』と声をかけられたことを証言し、何者かが子どもたちを池に誘い出したとみて捜査を再開したらしい。
情報提供者があの放置子かはわからないが、やはり事故ではなく事件だった。
無慈悲な風だ。生きているだけで疲弊する世界に、これ以上の暗さは必要ない。
「旭、変なケーキ半分あげる」
たとえば殺されたのが蛍だったとしたら、凛とした気の強さや、交わした遣り取りが壊れるほど懐かしくなって、寂しさと報復を刻んだ感情の牢を呪いたくなるだろう。
指に血を滲ませ、無灯の公園で描いた絵が自分自身を救うことはない。
お揃いのスニーカーで目の前を駆け抜ける兄弟を見て、青年の悲痛な叫びが胸を抉る。
他人の苦しみを思い遣り、挑発的な笑顔で援護射撃を引き受けるようなやさしさを、画布に立ち向かう右腕に与えてほしかった。
artbook:12 end.




