事の起こりは突然に
「ああ、もう何度考えても腹が立つ!」
そう叫んで、ローヒールの先で道路の端に落ちていた凹んだ空き缶を蹴っ飛ばす。
少し離れたところにいたサラリーマンがその音に驚いた様に振り返り、チラッとこっちを見てだらしない笑顔で口を開きかけたが、ジト目で睨んでやったら誤魔化す様に笑って逃げてった。
今ナンパはお断り。悪いけど、全然そんな気分じゃないの。
来月の誕生日で、ついに三十代への最後のカウントダウンが始まる、世間でいうところのアラサー女子、華山美咲。ただいま会社で嫌なことが続いて完全にやさぐれております。
無責任で事なかれ主義のお馬鹿な上司と、男性社員の噂話ばっかりしている同僚の女性達。別に何してても良いけど、お願いだから私の仕事の邪魔はするな。
挙句に憂さ晴らしをかねて飲みに行けば、必ずと言って良いほど男が寄って来る。
一人で飲みに来てるのならそう言うつもりだろうって、お前、何様のつもり?
キッパリ断ったら、一人で勝手に怒って捨て台詞を吐いていなくなる。毎回毎回まあ見事なまでに同じパターン。本当にもう、いい加減にしろって言いたくもなる。
ましてや、人の身体を勝手に触ろうとするなんて論外。はっきり言って犯罪よ! セクハラ滅ぶべし。
まあ、これでも一応美容にはそれなりに気を使ってるわ。
学生時代には読者モデルとかやった事あるし、アラサーの今でもそれなりの見た目にはなるように努力してる。そして、自慢じゃ無いけど世間的には標準サイズ以上の胸よ……まあ、これは勝手に育っただけだから、別に私が何かしたわけじゃ無いけどね。
だけど知ってる? 胸が大きいと別の苦労があるのよ。いや、本当だって。
私のサイズになると種類も限られるし、そもそも可愛いブラって本当に殆ど無いのよ。ワゴンセールでは、絶対売って無いしね。
仮に通販とかで可愛いのを見つけて、大きいサイズもあると書かれていたとしても、そう簡単には喜べない。
同じデザインのはずなのに、このサイズになると急に可愛く無くなるのよ。あれも一種のいじめだと思うわ。下着メーカーさん、高くなってもいいから大きなサイズの場合にはレースと飾りを増やしてちょうだい! でも、やっぱりできたら同じ値段で欲しい……。今月ちょっとピンチなのよ。
ああだめだ。思考が散漫になってきてる。そんなつもりはないけど、ちょっと飲みすぎたみたいね。
はあ、帰って愛しの二次創作サイトPixiyRoomで、お気に入りの作家さんの新作がアップされてないかチェックしよう。そして、もし上がってたらチャットルームに一番最初に感想を書くのよ。
私は、楽しく推しの話がしたいの。好きなアニメの話がしたいの!
そうよ。私は世間でいうところのオタクで腐女子よ。悪い?
なので、現実の男性にいまのところ興味は無い。
そんな事する暇があったら、今夢中になってる深夜枠アニメのあの人の事を語りたいの!
最強だけど世間知らずな主人公の横で、陰ながら働いて汚れ仕事を全部一人で被って、それでも笑ってるあの人の事をね!
え? 現実にそんな奴はいないって? 分かってるわよ、そんな事くらい。
……良いじゃない、創作の中でくらい夢を見させてよ。
はあ、今夜は気分良く飲めなかったので、もう帰ろう。
世間は嬉しい週末だけど、私は明日も出勤よ。下手をすれば明後日も出勤よ。
はっきり言ってブラック以外の何者でもない会社だけど、まあ給料はそれなりにあるから推しの為だと思って我慢してる。
唯一の良いところは、残業代がきっちり出るところ。あ、これだけは見ればホワイトね。仕事量と社員の扱いは本当に最低だけどね。
来月に出る、推しのブルーレイと原作漫画の新刊を目の前の人参にして頑張るわ。
当然、ブルーレイの初回限定版と新刊の限定特装版は、いつものアニメショップのネット通販で両方とも予約済み。
両方予約した人限定のショップ特典の詳細はまだ発表されてないけど、新刊の限定特装版には、描き下ろしミニ単行本が付いている事と、ブルーレイの初回限定版には、原作者様の書き下ろしイラストの特殊印刷パッケージと、同じ柄のクリアファイル、それからアニメの設定資料集の小冊子が付いている事は分かっている。
ああ、どっちも早く観たい。
酒気の残るため息を吐いてから、背筋を伸ばす。
それから道路の向こう側にある地下鉄の乗り場に続く階段へ向かう為、青に変わった横断歩道を渡った。
目的の階段を降りかけて、ふと足を止める。
今、間違い無く誰かに呼ばれた。
「え、誰?」
振り返ったけど、周りには誰もいない。
「空耳? 変なの。うう、まじで飲みすぎたみたいね。そんなに飲んだつもりはないんだけどなあ」
そう呟きながら階段を降りようとして気が付いた。地下鉄の改札に続く階段の奥は明るいのに、何故か手前側の壁の照明がついていない。
「職務怠慢〜! 照明が切れてるんなら早く交換してよね。暗かったら足元危ないじゃない」
そう文句を言いながら薄暗くなった階段を降りる。しかしその階段に足を出した瞬間、何故だか体が浮いた。
そこにあるはずの階段が無かったのだ。
代わりにあったのは、真っ暗闇の何も無い空間。
「ええ! 何よこれ!」
咄嗟に叫んだが後の祭り。
完全に前方に体重移動していた私の体は、そのまま止められる筈も無く転がる様に下に落ちていく。
ふわりと浮く体と誰かの悲鳴。
だけど、その次に来るはずの落下の衝撃は来ず、そこで私の意識はプッツリと途切れてしまった。
「あれ? 私、何してたんだろう……?」
不意に意識が戻り目を開くと、何故だか目の前は真っ暗闇。そしてふわふわとした奇妙な感覚と、不思議と暖かい足元。
一瞬パニックになりかけたが、この状況のあまりの非現実さに逆に冷静になる。
それに真っ暗闇の中でも、何度か瞬いているとおぼろげに何か見えてきたのに気が付く。
「んん? 何? 何が宙に浮いているの?」
まだよく見えない目を凝らして、もっと見ようと身を乗り出す。
「ああ、待って。まだ動かないで。定着するまでもう少しかかるから、じっとしてて」
目の前に浮いていた不思議なそれが、そう言いながら慌てた様に私の鼻先を押さえた。確かに、何故だか目が霞んでいてよく見えない。
「大丈夫だから、もう少し眠っててね」
優しく鼻先を撫でられると、不思議な事に急激な眠気に襲われて目を開いていられなくなった。
「大丈夫だから、安心してね。おやすみ……」
誰かにおやすみなんて言ってもらえるなんて、いつ以来だろう。そんな事を思ったら、不意に故郷の両親を思い出した。
最後に会ったのっていつだっけ? ああ、駄目。思い出せない位に前だわ、
ごめんね。今度、絶対休みを貰って帰るから……。
そう思ったきり、また唐突に意識が途切れて何も分からなくなってしまった。