47、邪悪の形
それは突然、なんの前触れもなく起こった。
身体が痺れるほどの咆哮だ。恐ろしい何かが吠えている。
凄まじい勢いで風を切る何かが近付いていた。
その直後、立っていられないほどの衝撃がカルミアたちを襲う。建物が揺れ、奥の厨房からは瓦礫の崩れる音がした。
厨房にはベルネがいたはずだ。彼女は無事だろうか。カルミアは体制を立て直すとリデロの制止も聞かずに駆け出していた。
リデロが自分を案じてくれていることも理解している。けれどいてもたってもいられなかった。
「ベルネさん!?」
カルミアは血相を変えて厨房に飛び込むが、ベルネは自身の特等席で変わらず湯呑を手にしており、ひとまず無事であることに安堵する。
しかし問題は彼女の見つめる光景にあった。
呆然とするベルネと見つめ合うのは黒い竜。それは壁を突き破り、まるで首だけが生えているような状況だ。
(か、壁、壁から竜が生えて、ていうか厨房の壁に穴!?)
衝撃と瓦礫が崩れるような音はこれが原因だろう。
この状況を前に、さすがのベルネも言葉が出ないのか、硬直して竜と見つめ合う。その相手である竜は衝撃の影響か、沈黙していた。
「ベルネさんとにかく外に!」
竜を刺激しないよう、カルミアはベルネの腕を引く。ここで暴れられては建物が崩壊する恐れがあるので厄介だ。
「あたしの城、あたしの楽園が……」
カルミアは放心するベルネの腕を引いてフロアへと連れ出し、避難していたロシュたちに続く。
外に出たとたんカルミアたちの頭上に影が差す。それは鳥よりも明らかに巨大なものであり、リデロたちも空を見上げていた。
「何、これ……」
空には無数の黒い影が舞う。
巨大な体躯に強靭な皮膚。翼を広げた姿は圧倒的な支配者であり、立ち向かうという気力を人々から奪い去る。それが竜という生物だ。かつて国を亡ぼしたとされる魔女が使役していた恐るべき兵器でもある。
しかし現代では伝説上の生き物とされ、あり得ない光景を前にみな狼狽えていた。
カルミアとて信じられないことの連続だ。それでもいくらか落ち着いていられるのは、あれの正体を知っているからだろう。
(黒い竜はかつてアレクシーネ様が封じた邪悪な力が形を得たもの。本来は実態のない黒いモヤだけど、増幅した力は形を得た。かつての主が使役していた生物の姿を真似てね)
そうゲームでは語られていた。
(でもどうして、あれは学園の地下に封印されているはずよ)
これは本来ドローナが引き起こすはずの事件だった。
ゲームのオープニングではリシャールが衰えていた封印の扉を開き、力のある魔女を探すために一匹の竜を解き放つ。
竜を退けたことで主人公は魔法の才能を見出され、学園に入学することになるのだ。
(つまり誰かが扉を開けたのね。まさかリシャールさん、地下にいるの?)
けれど竜にとってはカルミアたち人間たちの困惑など関係のないことである。意識を取り戻した竜が強引に壁から身を引こうとすれば建物全体が悲鳴を上げた。
間近で見るほどその存在は圧倒的な兵器だ。牙を剥き、鋭い咆哮がカルミアたちを威嚇する。
感情を見せない無機質な瞳はカルミアを標的に襲いかかろうとしていた。
「お嬢!」
リデロはカルミアを庇うため前に出る。しかしカルミアは背後で守られているだけの令嬢ではなかった。
ポケットにしまったばかりの香水瓶を掴むと、リデロの身体を利用して死角から投げつける。
こぼれた香水を浴びた竜は悶え苦しみ、黒いモヤのように身体が崩れていく。
「お嬢すげえ! てかうちの商品がすげえ! これ魔よけの効果でもあるんですか!?」
「いたって普通の香水よ。あれがバラを苦手としているだけね」
「そうなんですか?」
「え!? そ、それは……ほらよく見て! バラの生け垣を避けているじゃない!」
「そうですか?」
注意してみれば、背後にあるバラの生け垣をさけているように見えなくもないだろう。
バラはアレクシーネが好んで身に着けていた花で、あれはアレクシーネを憎み避けている。彼女を連想させる香りは苦手だろうと身体が動いたのだ。
「壁にぶつかって動きが止まったから物理攻撃も可能なはずよ。けど倒すまでにはいかないわ。消すことも一時しのぎにすぎないから、本当に消滅させるためには……」
強い力をぶつければ相殺する効果はあるが、半端な力では憎しみを煽るだけとなる。力の供給炉である地下の扉を塞がなければ消すことは出来ない。
(ゲームだと、扉を塞ぐことが出来るのは主人公だけという設定だったわね)
そこで待ち受けるのがラスボスとして立ちはだかるリシャールだ。つまりこの状況は主人公が最後に与えられる試練、最終イベントに酷似している。
「カルミア! 大丈夫!?」
駆け寄ってきたのはドローナで、背後にはオズとオランヌの姿も見えた。
「授業をしていたら窓の外に竜が見えたの。学食の方へ飛んで行ったから心配したわ」
ドローナは純粋にカルミアの身を案じて駆けつけてくれたのだろう。竜を見据える瞳は鋭いものだった。
「大丈夫、みんな無事よ。厨房の壁以外はね」
「そうみたいね。ちょっとベルネ、しっかりしなさいよ!」
ドローナはベルネをつつくが未だ放心したままである。
「あたしの、あたしの城が……」
「僕、こんなに取り乱しているベルネさん初めて見た気がします。ベルネさんに比べたら僕の混乱なんて小さな物ですよね」
カルミアが竜を撃退している間にも、ロシュは会話が成立するほどの落ち着きを取り戻していた。
人間たちは一息つくが、頭上をかける竜はまたしてもお構いなしである。無慈悲に降下する竜はまるで空気が読めないが、ここでもカルミアは颯爽と前に出た。
「物理攻撃は有効よ!」
有言実行とばかりに身体を浮かせたカルミアは降下してきた先頭の竜を華麗に蹴り飛ばす。
「すっげ……」
リデロが呟き、カルミアに続いたのは驚いたことに大人しかったベルネである。
「あんたたち覚悟しな!」
強風を打ちこまれた竜は背後の木々に打ち付けられ沈黙する。しかしこれもまた一時しのぎであり、カルミアは今のうちに対策を指示する。
「リデロ、今すぐ王都の店に行ってありったけのバラの香水を運んできなさい。私の名前を出して構わないから、ありったけよ。それがあれば撃退もしやすいでしょう? ロシュ、リデロを手伝ってもらえる?」
任せてほしいと走り出すリデロにロシュが続く。
「まずは生徒を避難させないと」
カルミアが振り返れば、最後まで語らずともオランヌが頷いた。
「あたしは他の教師たちと連携をとって生徒たちを守るわ」
カルミアが指示する前に今度はオズが提案をする。
「オランヌ先生が校内へ向かうなら、俺は外へ情報を伝えよう。これから登校してくる生徒もいるからね。校内に立ち入らないよう注意を促すよ」
オランヌとオズはそれぞれの役割を果たすために動き出す。
あとは残った自分がなんとかして開かれた扉を元に戻さなければならない。そうでなければ永遠に竜は増え続け、人の手に負えるものではなくなってしまう。
「それじゃあ、ここは私とベルネに任せなさい」
ドローナはまるでここが厨房であるかのような提案する。料理の指示を仰ぐような軽快さで、この作業は自分たちに任せろと言うのだ。
「カルミア。貴女、あれが何か知っているわね」
迷っている暇はない。カルミアは正直に答えた。
「止め方も?」
「知ってるわ。もしかしたら私にも止められるんじゃないかってこともね」
魂を受け継いだ主人公にしか止めることは出来ないと記されていた。しかし血を受け継いだカルミアにならそれが出来るかもしれない。