25、勤務初日の夜に
「このような時間にお一人で、どうかされましたか?」
「私は買い出しです。リシャールさんこそ、今お帰りですか? 随分遅いんですね」
「私は仕事が立て込んでいたものですから」
確かに仕事帰りと答えるリシャールはどことなく疲れて見える。
(仕事帰りって……もう誰も残っていないと思ったのに、リシャールさんはこんなに遅くまで働いているのね)
感心しているとリシャールは自らの上着を脱ぎカルミアに羽織らせた。
「リシャールさん!?」
あまりにもスマートな動作だったため、カルミアはつい最後まで一連の流れを見守ってしまった。
「海ほどではないかもしれませんが、ここも冷えますから。風邪をひかないよう、気を付けて下さいね」
勤務初日から倒れたせいで過度な心配を与えたことを申し訳なく思う。とんだ病弱設定を与えてしまったものだ。
「走れば大丈夫ですから!」
「ですが、その荷物では走るわけにもいかないでしょう。風邪をひかれては困りますし、帰る場所は同じです。よければ寮まで使って下さい」
(そ、そうよね。密偵に風邪をひかれたら困るわよね。リシャールさんの言い分は正しいわ。前科がある分、気をつけないといけないのは私よね)
リシャールのもっともな言い分にカルミアは考えを改めさせられる。そもそも両手で荷物を抱えているせいで、返したくても返せない状況にあった。
「ところで買い物の件ですが、何か生活に足りないものでもありましたか?」
「違うんです! リシャールさんが用意してくれた部屋は完璧です! ただ、保冷庫の中が空だったことを思い出して。明日までに必要な物もありましたから、急いで調達してきました。あの、もちろん夕方までは仕事に励んでいたんですよ!」
密偵のと、カルミアは声を潜めて告げる。
「本当にカルミアさんは仕事熱心で頼もしいですね。明日の準備も万端、といったところでしょうか。そちらも手伝いますよ」
並んで歩きだそうとしたところでカルミアは手にしていたかごを奪われる。こちらも無駄のない動きで、気付いた時には手から荷物が消えていた。
「リシャールさん!? それ重いんですよ、返してください!」
「女性に重たいものを持たせてはおけません」
「私こそ雇い主に重たいものを持たせておけません」
「つまり、カルミアさんは重いと感じているのですね。それでしたらなおのこと、私に持たせて下さい。私は重いと感じるほどではありません。それにカルミアさんがここで働いているのは私の責任です。ということはこの荷物も私のせい、ということになりますよね」
(確かに突き詰めると元凶はリシャールさんなんですけど!)
だからといって、はいそうですと頷けるわけがない。かごの中身はカルミアが個人的に調達したものばかりだ。
迷うカルミアにリシャールは優しく止めを刺す。
「ここは私の顔を立ててはいただけませんか。ね?」
ここまで言われては断るのも失礼だろう。カルミアは大人しく、寮まで荷物を届けてもらうことにする。
そのためにも歩き出せば、話題は明日の料理対決へと移った。
「明日の対決については、部下が材料を届けてくれますので問題ありません。それよりも、着任早々、問題を起こして申し訳ありませんでした! リシャールさんにもご迷惑をお掛けして」
「とんでもない。面白いことになったと思っているくらいですよ」
どうしてだろう。リシャールは笑顔を浮かべているし、カルミアを責めているわけでもない。それなのに嫌味に聞こえるから不思議だ。
(確かに密偵として潜入させたはずが、初日から問題を起こして仕事仲間と対立。料理対決をするとかわけのわからないことを言い出したら嫌味の一つも言いたくなるわよね! わかったわよ。甘んじて受けるわよっ! でも廃止寸前の学食に派遣する方にも問題はあると思わない!?)
カルミアの猛烈な抗議にリシャールはけろりとして訊ねた。実際はすべて心の声なので届くはずもないのだが……。
「ところで初日の勤務を終えたわけですが、仕事の進捗はどうなっていますか?」
(ほら来たー!)
絶対に聞かれると警戒していただけに、ついに来たかと身構える。
カルミアは強く拳を握り、屈辱に耐えながら答えた。
「お役に立てるほどのことは、まだ何も……」
(悔しい。悔しいっ! 私が、この私が! 仕事が遅いと思われるなんて!!)
ラクレット家としてのカルミアの仕事は迅速かつ丁寧と評判だ。それがこの有様である。
しかしリシャールは特に気にすることもなく、そうですかと頷くだけだった。さすがにリシャールも都合よく犯人が見つかるとは思わないのだろう。敵は彼ですら尻尾を掴むのに苦労する相手だ。
(敵は狡猾な人間なのね。慎重に計画を進め、巧妙に立ち回っているに違いないわ。私も慎重に探りを入れないとね)
決意を新たにしたカルミアだが、リシャールからの質問は予想外のものだった。
「それにしても、随分と熱心に空を見上げていたようですが、空に何か?」
「あれです」
カルミアがもう一度空を見上げると、リシャールはその視線を追いかける。自然と足は止まり、夜の静けさだけが残った。
「月を見ていたんです。あと、王都の明るさに驚かされていました」
「なるほど、確かにそうですね。私も先日王都を離れたばかりですから、やはり久しぶりに戻ると眩いほどの明るさですね」
「はい。夜の海はもっと暗くて、数えきれないほどの星が見えました。辺りには何もなくて、波音だけが聞こえるんです。風は冷たくて、そうですね。この格好だとちょっと寒いかもしれません。でも家族の温かさがいつもそばにありました。物心ついた時から船に揺られていたので、今はなんだか不思議な気分で……」
言葉にしたことでカルミアはどうしてこんなにも月を恋しく思うのか、その理由に気付いてしまった。
船の上との違いを探し、その度に落胆していたのは……。
とても情けない理由だ。だからこそ自分では意識しないように目を反らしていたのかもしれない。
しかしリシャールはカルミアの心を正確に言い当てる。
「寂しいのですか?」
「――っ!」
自分でも自覚したばかりだというのに、どうしてリシャールにはわかってしまうのだろう。それはカルミアが最後まで言葉にすることが出来なかった想いだ。
(船での生活が恋しいなんて子どもみたいじゃない。私はもう立派な大人なんだから!)
核心に触れられたカルミアは驚きに取り乱す。けれど大人の男性であるリシャールに知られるのは恥ずかしく、仕事のパートナーである人間に子どもっぽいと思われるのはプライドが許さなかった。
「そんな風に見えましたか? 気のせいですよ。それよりリシャールさんも寒いですよね? 風邪をひかないうちに急ぎましょう」
「そうでしたね。このままでは私が風邪をひかせてしまいます。引き止めてしまってすみませんでした」
カルミアが一刻も早く寮に到着することを望めば、リシャールは追及せずにいてくれる。それがリシャールの心遣いなのかはわからないが、カルミアにとっては有難いものだった。
それにしても勤務初日からこの疲労である。主に心労ではあるが、始まったばかりの密偵生活に早くも不安を覚えたことは確かだ。実際不安しかない。
まずは明日、料理対決からすべてが始まる。
そしてカルミアの長い一日は、まだ追わりそうもない。
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