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とっておきの場所

作者: 都 郁史

とっておきの場所              都 郁史


「失礼しました」

 軽く頭を下げてから、左手でドアを閉じる。

 職員室の外、廊下には俺をふくめて数人しかいない。

 時期はもう四月の下旬。

そして、放課後であるこの時間帯、部活の連中はラストスパートと言わんばかりに練習に打ち込んでいる。運動部の掛け声や吹奏楽の音色といった、学校特有の放課後の音は閑散としたこの廊下にも届いてくる。

 右手にあるのは一枚の紙。

 もう見なくてもわかる。進路希望調査票だ。

同じ書類をさっき提出したばかりだというのに。

 これで再提出は三回目。一体いつになったらこの連鎖が終わるのだろう……。

「あぁ! ダメだダメだ!」

 首を左右に振り、頬を両手でたたく。

 このまま沈んでいたってしょうがない。

 そうだ、今日はあの場所に行こう。

 三年生になってから見つけた、とっておきのスポット。

 まぁ、『とっておき』とは言っても、そこまで秘匿されているわけじゃない。

 この学校の生徒なら誰でも知っているような場所だ。

 しかし不思議なことに、なぜかだれも寄り付かない。

 四月に入ってから俺はすでに何回か訪れたが、他の生徒がいるところを見たことがない。

 まぁ、人がいないに越したことはないけど。

 この場所は一人で楽しむのが一番だ。

 だから、誰にも教えていないし、誘うこともしない。

 そして、それでこそ『とっておき』なのだ。

 思い浮かべるだけで胸が高鳴ってきた。俺は廊下の向こうへと足を向けた。

「っと……その前に」

 そこで一度振り返り、職員室前の壁面に目をやる。

 壁に張り付いたホワイトボードには今日の日付や、連絡事項が書いてある。

 今日は水曜日。問題なさそうだ。

 ここ一週間は予備校通いに、山盛りの課題で時間を作ることができなかった。

 幸い、今日は授業もないし、金曜日までの予習なら明日やれば何とか間に合う。

 それから、もう一つ。

 その場所に向かう前に教室に戻った。

 このまま帰るからバッグを持っていくのは当たり前だ。

 それよりも大事なものがある。

 『とっておき』の場所で、最高の時間を過ごすための友。

 ロッカーを開け、それが入った紙袋を取り出す。

 これで準備万端。

 俺は再びその場所に向けて足を踏み出した。

 

 屋内にあるここは校舎の端の端にして、目的地の一歩手前。

 採光窓しか光源がないため、少し薄暗い。

 あたりには使われていない椅子や机が積み上げられていて、その隙間を縫うように人一人が通れそうな通路らしきものがある。

 そしてその先に金属製の鈍重なドア。これを開いた先がそのとっておきの場所だ。

 少し窮屈な通路を通り抜けてドアの前に立つ。

 わずか一週間ぶりだというのに、なんだかとても久しく感じられる。

 ノブを握り、ゆっくりと回しながら押し開いていく。

 開いたドアのわずかな隙間から風が勢いよく噴き出し、肌を撫でていく。

 今日は天気もいいし、さぞかし風が気持ちいいだろうな。

 想像しながらノブを押す腕に一気に力を籠めると、視界が開けていった。

 まず目に映るのは、三色の色彩。

 視界上部に空の青、下部に床面のタイルのグレー、そしてその合間、柵越しに見える町の風景のまばらな色。

 そう、ここは屋上だ。正確に言うなら特別棟の屋上。

 四月になって間もないころ、「あぁそういえば、この学校の屋上、入ったことないな」くらいの気持ちで何となく屋上探索を始めたのがきっかけだった。

 結果的に俺はここにしばしば入り浸るようになり、今となってはこの屋上は「第二の自室」と言っても過言じゃない。

 入ってきたドアの脇、壁に背をもたらせて腰を下ろす。そして、もって来た紙袋にはいっているマンガの単行本を取り出した。

 もともと友達に貸したり、休み時間にこっそり読むつもりで持ってきていたものだったが、この場所が見つかってからもっぱらここでしか読まなくなった。

 この屋上で読むマンガは格別だ。余計な雑音やストレスから隔絶されているから、自宅で読むよりも作品の世界に入っていける。そうしてトランスしているうちに気付けば最終下校時刻のチャイムが鳴っているのだ。 

 今日もそうやって、いつもと同じように読んでいた。

 どれくらい時間が経っただろう。

「またマンガ読んでいるんですか……」

 急に誰かに話しかけられた。

 一気にフィクションから現実に引き戻される。何となく気持ち悪い。

 この感覚は寝起きに感じるあの不快感と似ている。

 ぼんやりとした頭をもち上げて前を見ると、そこには少女がいた。

 黒いセーラー服の少女。

 屋上に吹く風で、その布地ははためいている。

 その姿の新鮮さに、俺は目を奪われた。

 この屋上で人と会うのが初めてだった。

 でも、それだけじゃない。

 彼女の着ている黒いセーラー服はこの学校の制服じゃないのだ。

 この学校の制服は学ランやセーラー服ではなく、男女ともにブレザーだ。

 だからこの学校に二年間も通ってきた俺にとって、その姿は目に焼き付くかのようで……。

「あんまりジロジロみないでください…………」

 その言葉でようやく俺の中に現実感が戻った。拒絶反応で目が覚めたらしい。

「あ、あぁごめん」

 慌てて頭を下げてから、彼女のほうを見ると、さっきまでいた場所にはもういない。

「……」

 その場所からさらに後ろ、一メートル引いたあたりで体を抱きしめるようにしていた。

 黙ってこちらを見る目には警戒色が浮かんでいる。

 なんだか不当な気がした。向こうから話しかけてきたくせに。

 まあ、このままじゃ埒が明かない。とりあえず何か聞いてみないと。

 ……そういえばさっき、なにか妙なこと言っていたような。

「ねぇ、ちょっと聞いていい?」

「はい……」

「さっき、『またマンガ読んでるんですか』って言っていたけど、俺と君ってここで会ったことあるっけ?」

「ないです」

「まぁ、そうだよな」

 俺の記憶になければ、彼女の記憶にあるはずもない。

 でもそうだとしたら、どうして会ったこともない彼女が、俺がマンガを読んでいることを知っている?

 その疑問を彼女は想定していたのだろうか。おもむろに腕を上げ、人差し指を伸ばしてピッとある場所を指した。

 そこは屋上の端、この建物の給水塔の陰。

「もしかして、ずっとあそこにいた……とか?」

「そうです」

「そこから俺の様子を見ていたと?」

「そうです」  

「なにもあんな所に隠れないで、普通に出て来ればいいじゃん」

「……いやです」

 応えた彼女は、うつむいて黙ってしまう。

 その表情を見ることはできないけれど、何か彼女なりの理由があったのかもしれない。

 しばし沈黙。 

 やがて、気を取り直したのか、彼女はまた少しずつ語りだした。

「今日出てきたのは、言いたいことがあったからなんです」

「言いたいこと?」

「はい」

 すると彼女はすぅ、と息を吸った。

 両手はぎゅっと握り、肩には力が入っているのが見ているだけでわかる。

 何か大事なことを言おうとしているようだ。

 そうして、彼女は口を開き……、

「たんドホッグフッゲフッゴホッ」

 思い切りむせた。きっと息を吸いすぎたんだ。

 ここは何も見なかったふりをするのが紳士的というものだ。

 見た感じ、すごく勇気を出して言おうとしていたようだし……。

 ようやく落ち着いてきた彼女の顔は、それでも赤みを帯びていた。

 果たして息が苦しいからか、恥ずかしいからか。

「た、単刀直入にいいます!」

 彼女は言い直した。

 さっきまでとは違って俯くこともせず、まっすぐとこちらを見つめている。

 しかし、わずかばかりに震えていた。

 握る両手も、踏ん張る足も、その眼も。

 彼女がどうしてこんなに緊張する必要があるのかはわからない。

 でもきっと、これを言うために本当に勇気が必要だったんだろう。

 だから今まで、見ず知らずの俺の前にはなかなか出てこれなかったのかもしれない。

 勇気をためる時間が必要だったから。

 そんな考えがふとよぎった。

 しかし彼女が口にした言葉で、そんな予想など吹き飛んだ。


「ここから出ていってください!」


 少女の声が屋上に響く。

 俺に告げられたのは、ふりだしと同じ拒絶反応だった。

 しばらくの間、呆然とすることしかできなかった。

 彼女はといえば、さっきのでエネルギーを使い果たしたのか、今はもう居心地悪そうに下を向いていた。

「一つ、聞いていいか?」

「なんです……」

「なんで俺が出ていかなきゃいけないんだ?」

「……が…の…………ら…す」

 彼女の声はさっきより小さくなっていて、よく聞こえなかった。

「え?」

「こ…が……しの……しょ…からです」

「ごめん、もう一回言ってくれ」

「……ここが私の居場所だからです」

 そう言う彼女は不満そうな面持ちだった。俺が早く出ていかないからか。

「あ、ああ、そういうことな」

 とりあえず返事をしておく。

が、そう言われてはいはいと引き下がるわけにもいかない。

 なぜなら、ここは俺の「第二の自室」だからだ。そこは俺にも譲れないものがある。

 今度は俺が反撃する番だ。まぁ、とはいえいきなり出て行けとは言わない。

 まず聞かなくてはいけないことがある。

「そういえば君さ、そもそもこの学校の生徒なのか?」

 彼女のいでたちを見ながら聞いた。

 さっきからずっと気になっていたことだ。

 彼女の黒いセーラー服はこの学校の制服ではないのだ。つまりそれは、彼女がこの学校の生徒ではないことの証。

 ここの生徒でもない人に「出ていけ」と言われても、それはお門違いというものだ。だからまず、ここをはっきりさせておきたかった。

 しかし彼女は、俺のこの問いには別に悩むそぶりもなく、こくりとうなずいた。

 なるほどな。なら、聞くことは別にある。

「じゃあ、その服装は?」

 黒いセーラー服。

「これは……」

 まさか学校にコスプレで来るわけじゃあるまいし。何か特別な事情があるんだろう。

「………………コスプレです」

「コスプレなのか!?」

「………………はい」

 なんだ今の微妙な間は……。

 俺は彼女の顔を見た。

 目が一瞬合う。

 す、すすすす。

 そらされた。

「嘘、だよな」

「じつは……演劇部の衣装、です」

「吐いちゃうのか」

 まぁでも、コスプレよりは信憑性はある。これも嘘かもしれないが、乗っておいてあげることにした。

「じゃあその演劇部さんが、どうしてこんなところで練習しているんだ?」

「そ、それは……」

「たしか、演劇部の練習場所って、視聴覚室だったきがするんだよな」

「それは……」

「それは?」

「………………自主練です」

「今考えただろ」

「ち、ちがいますっ。本当の真実です!」

 嘘つくのに必死すぎるだろ……。

 相変わらず間は開くし、フォローも全然なっていない。

 『本当の真実』って。

 彼女の下手すぎるフォローがもはや涙ぐましい。

 あまりに涙ぐましいので続きを促すことにした。

「で?」

「わ……わたしは…………今度の発表会でメインヒロインを演じるんです」

「わかったもういい。これ以上無理をするな」

「ほ、本当です……!」

 俺は肩に手を置いてやろうと腕を伸ばした。

 そして、そこで気がついた。

 彼女の黒い制服、その肩口から裾にかけて、何かで染まっている。よく見ると、スカートまで。

 黒が下地になっていたからわからなかったが、これは……まるで血がついているみたいだ。

 もしかしてこれ……。

「血糊か?」

 確認しようと彼女を見ると、逆に不安そうな表情で見つめ返してきた。

 そういえば、また俺がぶしつけにもじろじろ見てしまっていたのかもしれない。

「あぁごめん。これ、舞台とかに使うやつだろ」

「…………?」

 なぜか、彼女はボーっとしている。

「いや、だからこれ。血糊だろ?」

 ちゃんと伝わるように指で示す。

「……あ、そうです。血糊、です」

 再び聞いて、ようやく反応してくれた。

 多分、自分で着ているものだから、俺が何を指して言っているのかわかりにくかったんだろう。

「へぇ、だいぶ手が込んでいるんだな」

 まさか本当にこの黒セーラーが衣装だったとは。 

 ということは、彼女が演劇部に所属しているってこともあながち冗談じゃないということか。

「マジだったとは……」

 思わず俺はうなってしまう。

 すると不意に、前からクスクスと笑う小さな声が聞こえてきた。

 見ると、彼女は抑え気味に、こらえるように笑っていた。

 最初は小さかったその声は次第に大きくなり、彼女はとうとう口を開けて笑い出した。

 今日初めて見せた笑顔だった。

 さっきまでの彼女の様子からはとても想像できない姿だった。

 しかし、俺には何が何だかさっぱり分からない。

 俺はただ血糊かどうかを聞いただけなのに。

「ど、どうしたんだ急に?」

 聞いてもなお、彼女は笑っている。笑いすぎて目の端に涙が浮かんでいるほどだった。

「いえ。ただ、信じてくれたようなので。……よかったです」

 しばらくして少し落ち着いた彼女は、指で涙をぬぐいながらそう言った。

 彼女の言う通り、たしかに証明された。

 彼女は演劇部員で、この学校の生徒だろう。

 他校の生徒か不審者だとあたりをつけて話を進めたが、失敗に終わった。

 つまり、ここで俺の反撃する余地はなくなったわけだ。

 ということは、俺はこのまま、のこのこと屋上を後にしなくちゃいけないのか……?

 いや、違う。

 まだ聞いておかなくてはならないことがある。

 でもこれは、俺の中でこの屋上という場所が少し変わってしまうこと同じだ。

 それでもいいのだろうか。

「じつは」

 そんな俺の思考は、彼女の細々とした声で打ち切られた。

 彼女は少し申し訳なさそうな、後ろめたいような、しかし最初に出会った瞬間よりかは幾分和らいだ表情で、俺を見た。

「まだ……ついている嘘があるんです」

「まだあるのか?」

 つまり、俺が見落としているような嘘がさっきの会話の中に残されていたということか。

 でもそれなら、彼女がわざわざ俺に伝えるメリットはないはずだけど。

 それを承知の上で言っているのだとしたら……。

「……本当なら、こんなことは誰にも言わないんです」

 彼女は下を向いてそういった。

 その声は少し震えていた。

 いや、声だけじゃない。全身がこわばって緊張している。

 また彼女は何かを伝えようとしているのか。

 俺はただ、それを見守ることしかできない。

「でも、あなたなら大丈夫だと思って……」

 期待と不安が混ざり合う瞳が俺に向けられる。

 聞くだけの俺もまた、体がこわばる。

 一体、彼女はどんな嘘をついていて、どんな真実を明かすのか。

 しかし、そこでなぜか彼女は後ろに振り向いて、俺とは反対の方向、屋上の中央へと歩き出した。

「あ、おい」

 俺は慌てて後ろをついていく。一体何をするつもりなんだ?

 やがて中央も通り抜けて、屋上の先端、柵の手前までたどり着いた。

 ドアのところにいた時よりも、青空と街を広く遠く見渡せる。

 眼下にはグラウンド。野球部やサッカー部の練習風景が見える。

「……見てもらったほうが、わかると思います」

 振り返ってそう言った彼女の顔を見て、俺は言葉を失った。

 彼女の顔は青ざめていた。

「な、なぁ無理していないか」

 聞くと彼女はふるふると首を振った。

「つい最近までよくやっていたので……大丈夫です」

 そういって、彼女は目をつむり、深呼吸を何回かする。大丈夫だ、と自分に言い聞かせるように。

 そして突如、彼女は柵に足をかけた。俺に止められることを見越していたかのように、本当に急に動き出した。

 何か危ないことをしようとしているのは間違いなかった。

 俺は一瞬出遅れたが、すぐに足に力を入れようとした。

「止まってください!」

 が、彼女の鋭い制止で踏みとどまった。

 でも……。

 俺が立ち止まっている間にも、彼女は柵を乗り越えて着地し、またこちらに振り返った。

 その背後にあるのは、一メートルにも満たないわずかな床面。そしてそれより先には何もない。

「……まさか、落ちるつもりじゃないよな?」

 俺のその問いに彼女は答えなかった。

 かわりに、彼女は別のことを語りだした。

「……私のことを知らない人だなんて、予想もできませんでした」

「俺のこと?」

「はい」

 どういうことだろう。俺の記憶に彼女にまつわる記憶はない。でも、彼女のその言い草だと、まるで知らないことがおかしいみたいだ。しかし、そんな俺の当惑はよそに、彼女は少し嬉しそうにしていた。

「明日」

 ぽつりとまた、彼女は口を開く。

「明日もまた、学校に来てください」

「え?」

「わたしの嘘がわかりますから」

「……わかった」

 どうしてわかるのか、いまいち判然としないけど、今はうなずくことしかできない。

「それと……」

 もう一つ、彼女は思い出したかのように付け加えた。

「また、きてくださいね」

 そこで彼女は微笑んだ。

 そして同時に、体が揺らいだ。

 後方へと身を投げ出したようだった。

 黒い布地が風にふわりとはためく。

 彼女は目をつむり、ただ落下に身を任せていた。

 その黒い人影はすこしずつ後ろに遠ざかっていった。

 やがて今度は、海の中へと沈むように、下へ下へと落ちていき、消え去っていった。

 彼女が身を投げてから、その姿が見えなくなるまで。

 そのわずか一瞬は、俺の人生で最も長い瞬間だった。

 まるで大昔の映画のフィルムのように、一瞬が何百枚にも切り刻まれ俺の目に焼き付いた。

 ひときわ強い風が屋上に吹いた。

 ついさっきまでそこに立っていた少女はもういない。

「……っ!」

 俺は慌てて、柵の方へと向かう。そしてその下に見える地面を見ようとした。

 しかし、柵の向こう側に広がる塀が視界を遮っていて見えそうにない。

 俺は柵から身を離して、ドアに向かって走り出した。

 五十メートルにも満たないその距離がとてつもなく長く感じる。 

 ようやくたどり着いたドアをバン、と開いて、今度はせせこましい机といすの間を抜ける。時々、脚や角とぶつかって痛かった。

 そして、階段を一段飛ばしで降りていく。人のいない校舎内に床を踏む音が響き渡った。

 四階……三階……二階……そして、一階。

 階段が終わったところで、左右を見る。

 左側に出口が見えた。すでに息が絶え絶えになっていたが、それでも走った。

 特別棟の出口を出て、さっきの場所の真下を目指す。

 方向がわからなくなって、一度間違えた。

 方向転換して反対側に向けて走って、ようやく手前までたどり着いた。

 あとはもう、前方に見える角を右に曲がるだけだ。

 心臓の音がうるさいくらい体内で反響している。

 角に向かって歩を進める。十歩もしないうちにたどり着いた。

「……よし」

 ゆっくりと曲がり、前を向く。

「……」

 そこにある光景に、俺はただ呆然とするしかなかった。

 しかしこれは、彼女が飛び降りようとした時から、頭の隅で何となく予想していたことだった。

 彼女の嘘は普通とは違う、彼女の嘘は特別だ。

 そんな予感に似たものを、俺は無意識に感じ取っていたはずだった。

 それでもやはり、今目の前にしているこの光景は不可解だった。

 目測にして二十メートルほど先の地面。

 踏み固められたその地面の上、本来ならあるはずの死体はなかった。

 血痕一つ残さず、彼女は消えてしまっていた。


 翌日の学校の話題はある噂で持ちきりだった。

 『屋上から飛び降りる少女』。

 特別棟の屋上から、黒いセーラー服を着た少女が飛び降りる姿が見えるという、いわゆる学校の怪談のたぐいである。話によれば、その少女は数十年前にこの学校の屋上から飛び降り自殺をした女子生徒の幽霊だとか。当時のこの学校の制服は現在のそれとはデザインが異なっており、女子生徒の制服は黒いセーラー服が指定されていた。飛び降りる少女が黒いセーラー服を着ているのはその当時の名残だそうだ。

 どうやらここ最近、めっきり目撃情報は減ってしまい、最後に飛び降りる姿が目撃されたのは四年前。俺がこの学校に入学する前の話だった。

 今となっては昔の話だが、しかし当時はたいそう話題になったようである。

 というのも、四年前のそれは目撃情報にとどまらない事件だったからだ。

 四年前の夏、この学校の男女生徒数人が肝試しを兼ねて特別棟の屋上に侵入し花火をした。しかし、その翌日以降、当事者である生徒全員が原因不明の意識不明状態に陥り、しばらく目を覚まさなかったようである。のちに、生徒たちは回復したものの、意識は混濁し精神状態はかなり不安定だったそうだ。これもまた噂の域を出ないものの、一説によれば彼らは意識を失う直前に自分が屋上から飛び降りて地面にたたきつけられるまでの瞬間をリアルな体感として味わったそうだ。屋上から飛び降りたあとの浮遊感、落下していく速度感、地面にたたきつけられるぐしゃりという音、全身に走る痛みと、意識が薄れていくまでの過程を。

 こうした四年前の事件以前にも「呪い」と言われる現象はあったそうだが、この四年前のものが程度としてはもっとも重かったらしい。

 そして昨日、その『屋上から飛び降りる少女』が再び目撃されたというわけである。グラウンドを練習場所として使用する生徒が多数目撃したそうだ。

 俺はこんな噂知らなかった。もともと噂には縁遠い人間で、聞いたことがなかったからだろう。いや、この学校にいる以上、聞いたことはあるかもしれないが、それなら信じないまま忘れていたのだと思う。

 しかし、有名な話であるだけに、怪談としてこの話を知っている生徒は多かった。俺が話を聞いたのもそういう人からだった。

 そうして俺は、彼女の嘘と真実を知ったのだ。

 その日、俺はまた屋上に向かった。

 どうしても伝えたいことがあったから。

 ドアを開いて見ると、そこにいた。

 ドアの向こう側まっすぐにいった先、少女は柵に腕をもたらせて、遠くを眺めていた。

 ドアの閉まる音が背後から聞こえた。

 その音で気づいたのだろう、彼女はこちらに振り返った。

 意外そうにしていた。本当に来ると思っていなかったのかもしれない。

 俺は近づいていき横に並ぶように、柵に腕をもたらせる。

 怖くないはずがなかった。隣にいるのが幽霊だと知っていて、恐怖を感じないほうがおかしい。でも、それでも彼女とちゃんと話がしたかった。今度は嘘を挟まずに。

「本当に、来てくれたんですね」

「まぁな」

「呪うかもしれませんよ」

「それは勘弁して」

 お互いおかしくて笑ってしまう。

 昨日はじめて会ったときはあんなだったのに。

 少し緊張がほぐれた。

 俺の中で、心構えもできてきた。

 よし。

 俺は彼女に向き直り、頭を下げた。

「……急にどうしたんですか?」

「いや、謝っておきたくて」

 それから俺はつづけた。

「今朝、噂を聞いて知ったよ、呪いのこと」

 彼女の表情がこわばるのがわかった。

「……やめてください。あれは私にとっても嫌な思い出なんです」

「うん。でも、あの話を聞いていろいろ腑に落ちた気がしたんだ。君に『出ていけ』って言われたのも納得できるよ。……その、君がどういう事情を抱えているのかは俺にはよくわからないけど、君の魂がここに残っているっていうことは、ここは君にとって特別な場所だと思うから……だから、ごめん。勝手にここに入って、嫌な気持ちにさせていたかもしれないと思って」

「……いいんです。ここは学校の敷地ですし。それに言いましたよね? 『またきてください』って。あの時点で、わたしはもう気が済んでいたんです」

「え?」

「……この屋上にはよく人が訪れてきます。おおかた、肝試しとか、心霊現象とかそういうことをネタにして遊びに来る人が多いんです。みんな、わたしを化け物か何かのようにみるんです。…………わたしだって、同じ人間なのに」

 そこで彼女は胸に手を当てて、ふぅと息を吐いた。湧き上がる気持ちを抑えるかのように。

「もともと私は人間が嫌いでした。嫌いだから、自由になりたくて自殺したんです。……でも、いえ、だからこそかもしれません、死んだ後もここにとらわれてしまったんです。だから、消えたくて、何度も何度も飛び降りました。……でも、必ずここに戻ってきてしまうんです。今でもそうです。気付けば、私は怪談になっていました。すると、いろんな人がここに来るんです。死んだ後も私は人間に追いかけられるようになって。怖くて怖くてしょうがなくなって」

 彼女は泣いていた。

 きっと、これまでもずっとこうして泣いていたのだと思う。

 でも、となりに寄り添ってくれる人なんていなかった。

 それはひどく寂しい……。

 しかし、涙で頬を濡らしながらも、そこで彼女は思い出すように微笑んだ。

 昨日と同じ、あの笑顔。

「だから……うれしかったんです。あの時、たとえ正体を知らないだけだとしても、わたしと普通に話してくれたことがうれしくて……なんだかおかしくて。あれは血糊じゃなくて血痕なのに、信じてくれたことがうれしくて……」

「そうか……」

 なんだか、俺もまたうれしかった。

 俺の些細なきっかけが、今こうして目の前の人の喜びになった。

 いろいろなことがつながりつつあった。

 でもその中に、一つだけわからないことがあった。

「よく、話しかけてくれたな……」

 最初の最初、あの一言がなければ何も起きなかった。

 自然さを装って話しかけてくれたあの時、彼女はいったいどう感じていたんだろう。

 それを聞いてみたかった。

「ああ、それはですね……」

 あの時のことを回想しているのだろうか、目をつむり胸に手を当てて答えてくれた。

「あなたがこの場所を心から好きになっているのがわかったからです。ここに来る人はいても、何回も来る人はそういませんから。……だから出て行ってもらうにしても、せめて言葉で伝えようと思ったんです。そうでなければ、呪っていたかもしれませんね」

 最後はクスクス笑いながら物騒なことを言っていた。

 本当なら怖いはずのそんな言葉も彼女なりのジョークになっていた。

 なんだか楽しかった。

 また来たいと思える。

 だから、聞いてみる。

「また、きてもいいか?」

「はい、ぜひ」

 少女は笑顔で答えてくれた。                       

           

                                               完

 



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