1.工場への投資
(町工場社長・元島栄)
妙な男に行き逢ってしまった。
否、本当を言えば別に行き逢った訳ではないのだが、何故かその表現が妙にしっくりくるように私には思えたのだ。
その男の名は神原徹といった。職業はカウンセラーだそうだ。工場の応接室で、私はその男と話をしていた。どうしてそのような事になってしまったのか。確かに私はカウンセラーと話をするに相応しい精神状態と言っても良いかもしれない。追い詰められている。だが、私の抱えている問題はカウンセラーでは決して解決できないだろう。
「なるほど。それで、そのコンサルタントの先生は、絶対にIoTを導入した方が良いと仰っていると。しかし、あなたはいまいち踏み切れないでいるのですね?」
「はい。その通りです」
カウンセラーと話しをするのに否定的であったにもかかわらず、話し終えて少しばかり気が楽になっていると私は感じていた。もっとも、それに何か意味があるようには私には思えなかったのだが。
気が楽になって、投資に踏み切れたとしても、それで失敗してしまったのなら、むしろ有害だ。
……それにしても、この神原という男は話がし易い。つい色々な事を喋り過ぎてしまう。いや、カウンセラーとはそういうものなのかもしれないが。
「そろそろ工場の設備を新しくしなくてはいけないのですよ。もし、IoTを導入するのであればこのタイミングしかチャンスはない。しかし、IoTに世間で言われている程の効果があるかどうかは分からない訳で……」
そう思いながらも、私はまたそう神原に言わなくていい事まで語っていた。神原は笑顔を浮かべながら「分かります、分かります」と繰り返している。何が分かったのかはさっぱり分からなかったが。
意外に思えるかもしれないが、恐らく、日本社会の中で最も旧式の設備を使い続けているのは工場だろう。未だに20年前のパソコンが現役で稼働している所も珍しくはない。設備投資には莫大なコストがかかる上、時間が経てば経つほど、新型の設備への移行は難しくなっていく。自然、それでは駄目だと知りながら、つい旧システムを使い続けてしまう。そのような現状があるのだ。
だが、いつかは限界を迎えるのもまた分かり切った話なのだ。だからそのタイミングを見極め、設備を新しくする決断をしなくてはならない。そして、その時に問題になって来るのがどれだけのコストをかけ、どんな設備を整えるのかといった点だ。
ハードは、当然最新型を入れるとして、問題はソフトだった。新しいソフトを導入する予算もかけたくはないし、使い慣れたソフトは、できればそのまま使い続けたい。その点はパソコンのアプリはエミュレーターを使う事でなんとかクリアできそうだった。だが、それでは現状維持だけで終わってしまう。将来を見据えるのならば、更に質を向上をさせる為の設備投資をプラスアルファしなくてはいけない。
しかも、ここ最近、わが社の製品は新興国の製品に押され気味なのだ。徐々にではあるが、シェアを奪われつつある。取引先は、わが社の製品の質の高さを認めてくれているが、それでも新興国製品の価格の安さは魅力的であるらしく、取引規模は年々縮小している。人手不足の現状では労働賃金を下げる事も難しく、その価格の安さに対抗するコストダウンの手段は簡単には見つけられそうにもない。有体に言ってしまえばジリ貧状態だ。
だから、現状維持ではいけないのだ。それでは、うちの工場はいずれは倒産してしまう。先にも述べたが、このタイミングの投資で何かを刷新し、プラスアルファを得なくてはならない。そしてそのプラスアルファこそが、IoTという訳だ。
相談を受けてくれているコンサルタントは、熱心にIoTを薦めて来る。だが私は、どうしてIoTにそれほどの効果が期待できるのかがよく分からないでいた。いや、コンサルタントの言葉を疑わっている訳ではない。恐らく本当に凄いものなのだろう。……ただし、使いこなせさえすれば、だが。
私は根っからの物作りの人間だ。パソコンだってそれに関連する事なら必死に勉強してなんとか覚えた。だが、日常生活においてはほとんど情報機器の類を使ってはいない。携帯電話だってメールと通話機能しか使っていない程だ。普段仕事で使っているソフト以外を見せられたなら、途端に拒絶反応が起こる。
こんな私に、果たしてそのIoTとやらを使いこなせるのだろうか? 正直に言ってしまえば自信がない。
例えば、国がもっと補助金や活用方法の教示等で支援してくれるというのであれば、まだ前向きにもなれるのだが、説明を聞いた限りではその支援は充分とは私にはとてもじゃないが思えなかった(そう言ったら、コンサルタントの先生に国に甘え過ぎだと怒られてしまったが)。
もしも、勇気を出してIoTを導入し、大失敗をしてしまったなら、工場は一気に危機に陥る。反対にIoTを導入しない場合は、仮にジリ貧で追い込まれていくのだとしても、何とか粘れば、少なくともその間の生活は保障されるのだ。そう考えるのなら、IoT導入のリスクを意識せざるを得ない。
せめて、もっと低コストでIoTが導入できたなら……
「ところで、電子機器の類に敏感に反応するナノマシン・ネットワークが存在している事を知っていますか?」
不意に神原からそう尋ねられた。
否、そこに至るまでに何らかの文脈はあったのかもしれないが、その時私は彼の話をよく聞いていなかったので、どうしてそんな質問を彼がしたのかが分からなかっただけなのかもしれない。
「え? あ、いえ、知りません……」
私が慌ててそう応えると、神原は何故か嬉しそうににやりと笑ったように思えた。私の気の所為かもしれないが。
ナノマシン・ネットワークというのは、文字通りナノマシンがネットワークを形成しているもので、人間の精神をコピーしたり、干渉したりできるといった性質を持ってもいるらしい。しかも、今やそれが自然界に広く繁殖し、独自に進化をしてさえいるのだという。もっとも、半ば都市伝説のような眉唾の話として捉える人も少なくはない。
私が戸惑っていると、
「これが、なかなか面白いのですよ。少し体験してみますか?」
と、そう言って神原はプラスチック製の小さなビンのようなものを取り出した。中には透明な液体が入っている。それから彼は自分のスマートフォンを取り出し、そのビンを開けて中の水をハンカチに染み込ませてから、それでスマートフォンを吹いた。いや、ナノマシンを付着させているのか。
その妙に手慣れた彼の動作に私はやや不安を覚えた。まるで前もって練習しておいた行動を見せられているようだったからだ。詐欺師。そんな単語が頭の中に浮かぶ。この男は実はビジネスマンで、私を罠に嵌めようとしているのではないか?
……大体、どうしてカウンセラーがナノマシン・ネットワークに詳しいのだ?
続けて、神原はカバンからノートパソコンを取り出すとそれを開けた。ノートパソコンは既に起動させてあって、画面には何らかの画像が表示されている。
それから彼はスマートフォンを操作した。何か文字を打ち込んでいるようだ。すると、それに連動してノートパソコンの画像も変化をし、その文字を映し出す。
『どうです? 元島さん』
そこにはそう書かれていた。
私は思わず目を見開いてしまった。
それを見て取ったのか、そのタイミングで神原は口を開いた。
「凄いでしょう? このノートパソコンはナノネットの情報を受信していまして、特殊なソフトによって、それをデータとして処理できるのですよ。この場合、スマートフォンの動きをナノネットが監視していて、それを表示させているのですがね」
それから神原は別の機械を取り出した。どうも音楽を聴く機器のようだ。そして、その電源を入れる。
すると……、
『バッテリーに問題があります』
と、今度はそんな警告がノートパソコンに表示された。
私は更に驚いてしまう。
「あの、これは……?」
罠であると疑っていたことも忘れて、思わず私はそう尋ねていた。
神原は淡々と説明をした。
「この音楽プレイヤーの問題点を、ナノネットが教えてくれたのです。ナノネットを訓練すると、このような事も可能になるのですよ。人工知能を使っている訳ではありません」
「ナノネットを訓練?」
「はい。ナノネット…… ナノマシン・ネットワークには人格をコピーする性質があるのはご存知でしょう? それを応用すれば、訓練が可能なのです。そうして訓練していけばこれよりももっと高度な事が可能になりますよ。まぁ、IoTと同じ事が…… と言うよりも、ナノネットによってIoTを行えるようになるのです」
私はその話に大きく心を動かされていた。だが不安もある。どうして、この男は私にこのような話をするのだ? それに、やはりナノネットに詳しい理由が分からない。まさか私にこのナノネットとソフトを売りつけようしているのではないだろうか?
すると、私の疑念を察したのか、神原は口を開いた。
「私はカウンセラーとして、集団心理を重要だと考えているのですよ。人は集団で行動する動物です。だから、集団全体の関係性や心理を意識しなくてはならない。そしてその結果、ナノネットに注目するようになったのです。ナノネットは人間心理に影響を与えますから。それで、ナノネットにも詳しくなりました。専門家とも知り合えたり………
まぁ、カウンセラーの本分ではありませんが、それでもあなたの悩みがこれで解決するのなら、と思ってこのナノネットを紹介させていただきました。あ、一応、断っておきますが、カウンセリング料金も要りませんよ。今回は、私が勝手に押しかけて来た訳ですし。カウンセリングの押し売りなんて聞いた事もない」
この神原という男は、何人かを隔てた知り合いらしいのだ。私が悩んでいるという話を誰かから聞いてやって来たのだとか。奇特な人間もいるものだ。
「しかし、このソフトは有料ではないのですか? それに、そのナノネットも……」
私がそう尋ねると、神原は
「いえいえいえいえいえ、ソフトは無料でダウンロードできますし、ナノネットは簡単に繁殖します。わざわざお金を取るようなものではありませんよ」
と、そのような事を言った。
「すると、これは、このIoTは完全に無料?」
その発言に対し注意をするように神原は言った。
「ナノネットを訓練するコストはかかります。あと、従業員も訓練しなくてはならないですしね」
しかし、その程度のコストは、本格的にIoTの設備を整えるのに比べれば大したものではないだろう。
「神原さん! このナノネットを是非ともうちの工場で活用したい! やり方をもっと詳しく教えてください! 少しくらいならお金も払います!」
それに神原は飄々とこう応えた。
「良いでしょう。教えましょう。ただ、先ほども言いましたが、お金はいただきません。それともう一点。この技術は、社会で認められたものではありません。もっとも、禁止されている訳でもありませんが。いわばグレーゾーンの技術です。
――それでも、構いませんね?」
私はそれに即答していた。
「構いません! 私には、いえ、私の工場には、最早この技術に頼るしか道はないのです!」
その時、この神原という男は、微かに嬉しそうににやりと笑ったような気がした。が、その時の私にはそれはどうでもいい事だった。