16.丹内さんが心配なら
(染まらない人・稲盛太一)
そのカウンセラーのおじさんが僕のところに現れたのは、ナノマシン研究所の人達が訪ねて来てからしばらく経った後の事だった。
その人達は僕が育てているナノネットの元の人格が誰なのかを知りたいとそう訴えて来て、悪い事をしているという後ろめたさもあったし、この街の“険悪なムード”を解決する為だと言われた事もあって、僕はそれを教えてしまったのだ。僕の育てているナノネットの元の人格は、丹内穂香さんだという事を。
後で冷静になって、もう少しくらい警戒するべきだったと僕は後悔した。だから、そのカウンセラーのおじさんが僕に接触してきた時にもそれを思い浮かべていたし、それで用心深くいこうとも思っていたんだ。ただ、それでも僕は、いや、だからこそと言うべきかもしれないけど、簡単にそのおじさんに懐柔されてしまったのだった。
――放課後。
僕は学校の外で丹内さんと漫画の貸し借り交換をやっていた。休み時間にやると万が一にも先生に見つかってしまう危険性があるから、放課後に交換しようと丹内さんの方から提案があったんだ。
丹内さんの言う理屈は筋が通っている。ただ、本当にそれだけが理由だろうかと僕は疑ってもいた。これは僕の気の所為なのかもしれないけど、なんとなく、ここ最近彼女の様子がおかしいような気がしていたから……
もっとも、僕はそうやって彼女と放課後に二人切りで会えることが嬉しかったのだけど。なんか、まるで、恋人同士みたいだ。
僕らは毎日一冊ずつ漫画を互いに交換し合った。僕の方は昨日彼女から借りた分と僕が彼女に貸す分、彼女の方は昨日僕が彼女に貸した分と僕に貸す分をそれぞれ持ち寄って交換をする。もしも、家の漫画が尽きてしまったら、もうこれはできなくなる。だから、少しずつ交換し合っているんだ。
あ、一応書いておくと、並木さんにも僕らは漫画を貸している。並木さんは何も貸してはくれていないけども。
漫画を交換するだけのほんの短い逢引き(なんて書いちゃった)が終わると、僕は名残惜しい気持ちを押し殺して丹内さんと別れた。そして、帰宅する為に道を歩き始めた。
『順調に、彼女と交流できているけど、もう一歩踏み込まないと何も進展しないよ』
しばらく歩くと、スマフォのイズが、ポケットの中からそんな事を言ってその僕の良い気分に水を差す。
ラクガキみたいなあの手をポケットの中ら出して、振ったりなんかしている。
「分かっているよ、うるさいな」
と、そう僕は言う。そして、そのタイミングだった。いきなりこんな声が聞こえて来たのだ。
「誰と話しているのですか?」
人気のない道だと思って油断していたので、声が大きくなってしまっていたんだ。見ると、そこには見知らぬおじさんがいて、僕をじっと見つめている。自分が文句を言われたのかと勘違いをして、気を悪くさせてしまったのかもしれない。
「あ、いえ、ちょっとスマートフォンで話していたんです。手放しでも話せるタイプのやつで……」
正確には“スマートフォンで”じゃなくて“スマートフォンと”だけど、大きく間違ってはいないだろう。多分。
僕はそう慌てて弁明をしたのだけど、そのおじさんにはまったく怒った気配なんてなかった。それどころか、穏やかに笑っている。ただし、その笑顔は精巧に作られた偽物のような雰囲気がない事もなかったのだけど。その笑顔のままでおじさんは応える。
「ははは。いやいや、気にしないでください。ちょっと不思議に思っただけですから。もしかしたら、最近この辺りで流行っている付喪神と話しているのではないかと興味を惹かれたのです」
僕はそれを聞いて思わず笑って誤魔化した。“ビンゴ”と心の中で呟きながら。その僕の笑顔を見て取ると、一呼吸の間の後でおじさんはこう続けた。
「君ならそれも有り得るかと思ったのですがね、稲盛太一君」
へ?
と、僕はその言葉に驚く。
どうしてこのおじさんは、僕の名前を知っているんだ?
そして、その驚きを自分の中で上手く消化し切れないでいるうちに、そのおじさんは更に続けるのだった。
「失礼ですが、あなたの事を少し調べさせてもいました。一応断っておきますが、違法な事はしていませんよ。あなたの学校の生徒達がやっているSNSに入りまして、そこで少々話を聞かせてもらっただけです。いやぁ、非常に便利な世の中だ。あ、怖がらないでくださいね。別にあなたを罠に嵌めようだとか傷つけようだとか思っている訳じゃありませんから」
その段階で、僕は先日のナノネット研究所の人達の事を思い出していた。もしかしたらこの人はあの人達の関係者かもしれない。だから僕を知っているんだ。
……その時僕は、いまいち状況を整理できていなくて混乱していた。
「実を言うと、あなたに協力して欲しいことがあるのです。それで、前もってあなたの人となりを知っておきたかったのですよ。話を聞いた限りでは、あなたの人格は要件を満たしているようだと少なくとも私は判断しました。だからこそ、こうして話をしに来たのですがね」
どう受け応えをするのが正解なのかよく分からない狸に化かされたような気分のまま、僕はそれにこう返した。
「あの、すいませんが、あなたの言っている事の意味が僕には分かりません」
その僕の言葉にさも応えるような素振りを見せているのに、そのおじさんそれを無視してこう続けた。
「周囲に同調して自分の行動を決める、或いは誰か権威のある者の意見に従う。人が執る行動決定パータンの多くはこの二つのうちのどちらかでしょう。ところが、稀に自身で考えて結論出した内容に則って行動する人もいるのです。そして、恐らく、あなたはそういったタイプの人なのではないかと私は判断しました。反社会的ではありませんが、社会が決める行動を重視しない傾向がある。
言うなれば、“染まらない人”ですかね」
僕はそのおじさんの言葉に首を傾げた。これは褒められているのだろうか? そんな気もするけど違うような気もする。
「もちろん、人間全てが“染まらない人”になってしまっては、社会を形成する上で問題があるでしょう。しかし、“染まらない人”というのは社会の発展や安全弁の機能を考えるのならとても重要です。
科学技術等の多くは、それまでの多くの人が支持する考え方とは異なった考え方を“染まらない”誰かが示す事で進歩して来た。これは簡単に分かる事例でしょう」
僕はそれにこう返した。
「僕はそんなに頭が良くないですよ。科学者なんて無理です」
もちろん、警戒していたのでその言葉には反発の色が塗られていた。だけど、そんな僕の小さな反発なんて意に介さず、おじさんはこう返す。
「科学者自身ではなくても、それを評価するのにも“染まらない”という特性は重要です。それに、科学に限りませんよ、こういった話は。例えば、暴動や虐待やいじめや戦争。社会全体が間違った方向に突き進もうとしている時に、それに反対できるのは“染まらない人”だけです。
知っていますか? 貧困が戦争を引き起こす大きな要因の一つになりますが、実は戦争は貧困を酷くするのです。殺し合いの為に貴重な資源を用いてしまいますし、施設などの重要な社会的機能を破壊してしまうので自明なのですが、周囲の行動に染まってしまい集団心理に陥ってしまった人々はそれに気づかないのですよ。
ですが、あなたならそれに気付ける。そして、反対する事もできるでしょう」
僕はそれを受けて困惑した。なんで、この人がこんな事を言うのかまったく分からなかったから。
いや、正直に言うのなら、褒められているようなので、少しだけ気分が良くなってもいたのだけど。
「いえ、あの、僕はそんなに立派な人間じゃありませんよ。周囲の意見にも直ぐに流されますし」
それで、そう応えた。すると、おじさんはこんな事を言って来るのだった。
「そうですか? しかしあなたは少なくとも丹内穂香さんがどれだけ皆から悪く言われようが、それを気にせず彼女を好きなままでいられるのではないですか?」
僕はそれに目を丸くした。
「どうして、彼女を知っているのですか?」
そして少し声を荒げてそう言った。その僕の様子を受けると、おじさんは「ふむ。これは正直に告げた方が良さそうですね」と、言ってから一呼吸の間の後でこう続けた。
「失礼。名乗り忘れましたが、私はカウンセラーを職業にしている者です。実は今回の件は、あなたの許を訪ねたナノネット研究所の人達からの依頼で動いていましてね」
僕はその言葉に怒りを覚える。
「あの人達は、彼女の事をあなたに話したのですか?」
プライバシーに関わる話なのに。
その怒りを受けても、カウンセラーを名乗るおじさんは動揺を見せなかった。
「はい。ただし、理由を聞けばあなたは納得をすると思いますよ。いえ、感謝すらするかもしれない」
「何故です?」
「これは、あなたの好きな彼女、丹内穂香さんを救って欲しいという依頼だからですよ。ナノマシン・ネットワークの事情はご存知ですよね? 彼女の人格が、この街のIoTナノネットによって発生している問題を解決するキーになる。
ところが、研究所のメンバーが彼女の家を訪ねると、彼女はどうやら大きな心の問題を抱えているらしいと分かってしまった。そんな状態では、彼女はその役割を果たせない。それで私が担ぎ出されたという訳です。彼女の状態を回復して欲しいと」
「丹内さんが問題を抱えている?」
「はい。なんとなく、あなたも察しているのではありませんか? 例えば、どうして彼女は放課後に隠れるようにしてあなたと漫画を交換し合っているのでしょう? 過去に男生徒のことでいじめられてしまったというトラウマの所為かもしれませんよ」
僕はそれを受けて何も返せなかった。確かにその通りかも、と思ったから。
カウンセラーのおじさんはまた口を開いた。
「丹内穂香さんに起こっている問題は、恐らくは最近のIoTナノネットによって誘発されたものでしょう。ですが、しかし、それは飽くまで“誘発”です。彼女の人格は潜在的な問題を今までだってずっと抱えていた。だから、丹内穂香さんが心配なら、あなたは私達に協力をするべきなのです。これはそれを解決するチャンスでもあるのですから」
――丹内さんが心配なら。
「分かりました。協力します」
その言葉を聞くなり、まるで条件反射のように、僕は直ぐにそう答えた。カウンセラーのおじさんはそれに満足そうに大きく頷く。
「素晴らしい。あなたなら、そう言ってくれると信じていました。あなたに何をやってもらうかは後で連絡をしますが、取り敢えずは承諾を得られて良かった」
……それが丹内さんの問題と言えるのかどうかは僕には分からない。だけど、僕は知ってしまっているんだ。普段の彼女とは違う、別の彼女を。彼女のナノマシン・ネットワークを通して。だから僕は……
カウンセラーのおじさんと別れてから、僕はイズにこう話しかけた。
「なぁ、イズ。あのおじさんをどう思う? あの話を受けちゃって良かったのかな? 利用されちゃうような気もする」
ポケットの中から手を出して、僕に合図を送りつつ、イズはそれにこう答える。
『うーん。あのおじさんは、それほど好ましい人じゃないかもしれない。ただ、君に語った件では少なくとも嘘は言っていないと思う。利用はされるかもしれないけど。それに……』
「それに?」
『どうであるにせよ、君はあの話を受けざるを得なかったのじゃないの?』
僕はそれを聞くと“まったくその通り”と心の中でそう呟いたのだった。
多分、僕が感じているこの不安の原因は、あのおじさんがどうこうじゃなくて、本当に僕に丹内さんを救えるのかという点にあるのだろう。
それからそう思って、なんだか何かの祈りたくなった。祈る対象なんてないけれど。




