掌編小説『思考させる。故に哲学の実』
取り敢えずオッパイを触ってみた。いや、ちょっとだけ、軽く。ふよっとした。彼女が怒ったような顔をしたような気がうっすらとしたが、それは僕の中に芽生えた罪悪感がそう思わせただけなのかも知れない。例えばだ、僕が買ってきたイチゴの苗にイチゴの実が生ったとして僕がそのイチゴに触ったら僕は罪悪感を感じるだろうか。いや、感じないだろう。だとすれば僕は彼女のことを単なる実だと感じてはいないのだということになる。そのような場合、何をもってして僕は彼女を単なる実だと思わないのか。或いは彼女が単なる実では無い要素とは何だろう? イチゴを触っても罪悪感を感じないのは何故だ。…それは…そう、イチゴの許可なくイチゴを触ってもイチゴは僕を拒絶しないからだと思われる。イチゴは僕に分かるように意思を伝える術が無いので、僕はイチゴには意思が無いとの前提でイチゴを扱ってしまうのだ。つまり、僕は無意識に、彼女に意識や自我があるのだと、彼女はその意思を示すことが出来るのだと判断していたのだということになる。そして無意識に彼女の意識や自我を尊重しなければならないと僕は感じているのだ。ならば、何故、彼女のオッパイを触ってしまったのか。彼女が「ちょっとだけなら触ってもいいよ」と言ったという記憶はない。僕が「触ってもいいですか」と聞いたという記憶もないし、彼女から了解を示すサインなども出てはいなかったと思う。ただ、良い具合に柔らかそうに膨らんでいたので触ったとも思える。この状態が好奇心から起こったことなのか、性欲からなのかは、現時点では問題にしない。と、いうのも彼女は服を着ている。しかも僕の通っている高校の女子の制服だ。日によってネクタイとリボンを自由に選べるのだが、彼女はネクタイを締め、リボンはスカートに安全ピンで止めてある。これは、休み時間に物凄くリアルな男性器をノートに描いているような絵の上手い女子達の間で流行っているスタイルだ。このような謎解きは相当な字数でもって上記の事柄と共に後に述べる。まずは、彼女の意識や自我について確かめるのが先だ。
「…こ、こんにちは……だいぶ…涼しくなったよね……」
僕は彼女に話し掛けてみた。無難に気候についての話題を選んだ。彼女が植物だと仮定して、最も反応がありそうな話題だが、彼女は喋らなかった。僕に応えようとする気配すら無かった。常に無表情であることも変わらない。何を考えているのか分からない。化成肥料の話の方が良かったのだろうか。何故か僕は落胆した(この落胆の理由については、後に起こるある種の高揚が明確に浮き彫りにすることになる)。
そもそも彼女には僕の声が聞こえているのか?
「…ちょ…ちょっと…ごめん…ちょっと…」
僕は、せめてもの良心でもって形式的に彼女からの罷免を乞い、彼女の右側頭部の髪を指先で分け、耳があることを目視で確認したが、聞こえているのかは分からなかった。彼女の髪はしっとりしていた。そしてサラサラしていた。僕が指を離した時、彼女の髪から光の粒のようなものが零れた。彼女がボタニカルアート(植物画)になるなら露置く派の画家に描いて貰いたい。
ふと、彼女が何なのかネットで調べてみようと思い立った。つい最近、ボタニカルアートについて調べたことがあり、そこからの刺激で発想したのだと言える。それでパソコンの前に座ってみたが、そもそも何というキーワードで検索すりゃいいのか分からない。何というキーワードで検索すりゃいいのかを検索したい。答えは見付からないと知りながらも「実が女の子」で検索してみる……風水的に女の子が授かりやすい植物はあったが、女の子が生る植物は無かった。一応、叔父にも聞いてみよう。電話を掛けると、叔父は忙しいようだった。資料だろうか、紙がパラパラと捲れる音が聞こえてくる。僕は手短かに、女が生る植物はあるかと質問してみた。叔父はぶっきらぼうに「あ~、わくわく」と答え、電話を切った。
一人の人が持っている知識の量には、あまり差がないと思われる。例えば、アメリカ大統領の歴代の名前を全部言えるとすると凄いみたいに言われる。ところが、カードゲームの何百枚とあるキャラの名前を全部言える子供は沢山いるのだ。彼らは賞賛されない。どちらも実生活には役に立たない。何が違う? アメリカを知らない人はいない。アメリカには大統領がいることも多くの人が知っている。カードゲームには種類が沢山あり、皆がどれもを知っている訳ではなく、ひとつも知らない人が多くいる。つまり、自分も多少は知っているが、それよりも多く知っていることを優れていると感じているのだ。突き詰めれば、自分が全く知らないことに関する知識に、人は価値を見出ださない。他者の知識の保持に見出だす価値は自分の保持しているその知識の量に比例する。以前、テレビで鉄道マニアの人達がクイズで競っていた。彼らは複雑なダイヤを把握していた。走る音から車両記号だかナンバーだかを当てたりしていた。僕は電車という乗り物を知っている。見たこともあるし、乗ったことすらある。その回数は数えきれないほどだ。なのに、彼らに対して僕は、へえ~、としか思わなかった。僕は電車について知識が乏しいのだ。僕は電車について考えたことがなかったのだ。電車について考えるにはどうすればいい。この世界に電車を知る人がいないとして電車を知るにはどうすれば……そうだ、、まずは電車を観察することだ。
僕は気付いた。彼女のことを最もよく知ることが出来るのは自分だと。最後に頼りになるのは、やはり己れのみだ。彼女をよく観察してみろ。その特徴を取り上げ、整理し体系化する。それは彼女を考える材料になる。
まず、分かっていることは、彼女が何かの植物の実である可能性が高いらしい…ということ。僕が買ってきた名前の分からない鉢植えの植物、それには直径20cmはあろうかという赤い実が生っていた。値段は100円。かなり重かった。僕が寝て、起きたら彼女がいた。全ての窓、扉(2ヶ所しかないが)は鍵をしっかり掛けていたし、目覚めた時もしっかり掛かっていた。外からこのアパートの部屋には入れない。鉢植えの実が割れていた。中は空だった。そして僕が彼女を彼女と呼称しているように、彼女は人間の女性のような容姿をしている。
目測だが、身長は僕よりも10cm程度低いと思われる。赤い実の中から出てきたとしては大きすぎる。出てきてから急激に成長したのだろうか。分かっているのはそれくらいだ。(正確にはあと二つあるのだが、非常に主観的かつ曖昧、多大に感情的な要素であるため都合上取り上げないこととする)。彼女は何類で何科だ? 生物である可能性は高い。自立して動いて呼吸をしているのだから。やはり、植物だとすると彼女の呼気は酸素だろうか。これについては後に石灰水を用意し、確かめる必要があるだろう。あ、彼女が身を縮めて瞬きをしている。今、外の通りで犬が吠えたからか? 聞こえてはいるのか? 植物なのか? 人間みたいな気もするが。もしかすると人間に見える形態をしているだけなのか。……これは擬態みたいなものなのか? 人間の姿をした実を落とすことで何らかのメリットがあるのか? そのメリットとは何だ? 人間の形をしたものに最も引き寄せられるのは人間だろう。では、彼女は人間を引き寄せることを目的として擬態していることになる。そしていま、僕は彼女に引き寄せられている。だが、彼女は食虫植物のように人間を食べる…という訳ではなさそうだ。僕を捕まえようとする素振りも見せない。ただ、部屋の中をちょこちょこと歩き、小首を傾げたり、体をくねらせたり、肘を曲げたり伸ばしたりしている。
『了』