ディラクス
唐突に視界が揺れたような気がした。直後に襲ってくる強烈な違和感。今動かしている身体が自分のものではないような感覚のずれ。自分の背中を見ているような気持ち悪さ。
そしてなぜか俺は剣を握っていて、目の前の悪魔とも怪物とも言える人型の何かは俺に向けて激しい敵意を剥き出しにしている。
理解できない。怖い。剣なんて持って歩いていたら警察に捕まる。目の前の怪物なんて現実にありえない。こんな生き物はファンタジーにしかいない。殺される。存在するはずのない生き物なんだから殺されるはずがない。金属でできた剣は意外に重くない。人間は自分で生んだ幻覚にも殺される。錯乱し、何を考えているのか自分でもわからない。いや、それが理解できているのだから自分は冷静なのか。空が青い。怪物の肌は緑だ。傷口からはどす黒い液体が出ている。血は緑じゃない。
何かわからない液体にまみれ動かない怪物を見下ろしていた。
鉄臭いにおいが満ちている。色は違うのににおいは同じなのか。あの液体は何かじゃない。血液だ。
理解した途端に猛烈な吐き気に襲われたがなんとか押さえ込んだ。
手が動き、怪物の耳を切り落とす。
溶けていくような頭で愚痴をこぼす。
意味がわからない。なんて悪夢だ。
水の中でたゆたうような感覚。目覚める直前のような、寝入る直前のようなゆるんだ感覚。
肉体を脱ぎ捨て、重力から開放されたらこんな感じなのかもしれない。
次第に意識がはっきりし始め、それに合わせてゆっくり、ゆっくりと理解していく。
俺は敦だ。私はクレア。自分はイアン。俺はダグレイ。僕はルーファスだ。私はセレナ。
俺は俺であり、私だ。
完全に意識が明確になってすぐ自分のことを理解したがそれも当然だ。俺たちは衝突して一つになってから今目覚めるまでに、かなりの時間を費やしている。
理解はしたが、受け入れられるかは別だ。今の自分を受け入れる為にも少しずつ順を追って再確認していこう。
俺……俺たちが混ざったのは世界の衝突にまきこまれた結果。細かく言えば、その衝突するタイミングを感知した私、セレナが才能に比して少ない魔力を補おうと世界が衝突する際にこぼれる力を取り込もうとした。
世界は無数にあるが基本的には互いに干渉していない。しかし世界の境界を越えて干渉できるような生き物がいたりもするし、そうじゃなくても稀に何もなくとも世界がぶつかるときもある。
世界がぶつかった時は片方又は両方ともが崩壊するか、一つに混ざり合うか、何も起きないことだってある。
セレナが莫大な魔力を得ようと用意していた術自体は成功したものの、衝突した世界は二つだけではなく、いくつもの世界が一度に衝突したというのは問題だった。あふれ出る大きすぎる力はセレナの術によって拡散することが出来ず、いくつかの世界の境界が緩み、世界の欠片が一番弱くなったところへ流れ込んだ。様々なものがぶつかり、壊れ、混ざり合い、生まれ、また壊れた。巻き込まれたヒトも同じだ。かろうじて存在としてのカタチをとどめていたモノは近しい存在であるお互いを引き寄せ合い、ひとつに混ざった。
それが今の俺だ。
実は今回のコレ、衝突した世界はすべて崩壊するはずだったのではないかと、かろうじて残っているセレナの知識から予想する。
拡散するはずだった大きすぎる力が一箇所に留められたせいで被害が大きくなったように見えるが、実際には術で集中した力によって世界の境界が緩んだため一部が崩壊する程度で済み、最終的な被害を抑えられた……はずだ。
自信はない。自信はないが、真相など誰も知らないし、そもそも衝突したことによる影響は世界の内側にいるモノには知覚できない。世界の自己保存能力とでもいえる力ががんばってる。すべてがそうで在ったとして書き換えられるのだ。
ではなぜ俺が俺に起こったことを理解できているか。世界が衝突した時にできた世界の欠片のようなものが俺を核として混ざり合って小さな小さなひとつの世界となっているからだ。俺が作ったわけではないが、俺に依存して存在しているという意味ではこの小さな世界の神は俺だ。俺が作ったわけではないから好きにいじれるというわけでもない。そもそもこの小さな世界が俺を核として存在しているのは分かるが、あるのが分かるだけでどうすれば何が出来るのかもまるでわからない。今は放置しておくしかない。
うん。俺は俺を理解して、受け入れることも出来ているようだ。
次は俺は誰なのかが問題だ。いや、そこから目をそらしたくて「どうしてこうなったのか」なんてコトを考えていたのかもしれない。
多分でしかないが、俺は敦だ。どの自分も、混ざり合う時には大分壊れていたのか記憶なんてボロボロだし知識も虫食い状態になっている。そんな中でも敦の記憶と知識が一番多いし、なにより簡単に手が届く。頭の中をあさって最初に出てくるのは敦の記憶や知識が多い。
混ざり合ってひとつになってから生きていた身体はダグレイなのだが、中でぐちゃぐちゃと不安定だったせいなのかダグレイの人格はひどく希薄だ。それこそ単体では不完全な敦に飲み込まれてしまうほど。
俺は敦だと結論を出そうとしてふと思ったが、今の俺が混ざり合ったうちの誰かなんて考えてもしかたのないことじゃないだろうか。確かに一番元のカタチが残っているのは敦だが他の自分、クレア、イアン、ダグレイ、ルーファス、セレナだってちゃんと残っている。それに混ざってしまった時点で俺は今までの誰でもなくなってしまっている。
ああ、俺は意識がはっきりした時に自分は目覚めたのだと思ったが、混ざり合ったうちの誰でもない存在なのだと考えた今、俺はやっと生まれたのかもしれない。誰でもない、俺自身として。
なにかとてもしっくりとくる。
間違えていた左右の靴を履きなおしたような、久し振りに故郷の料理を食べたような、水面から顔を出してすぐに空気が胸へ飛び込むような、これはこういうものなんだという上手くはまった感覚。
自分の元居た場所へ帰りたいとか、衝突に巻き込まれた家族を取り戻したいとか、混ざってしまう前の自分に戻りたいとか、そういったそれまでの自分に対する執着がないのも、もしかしたら俺がさっき生まれたからなのかも知れない。
それならば、俺が生まれたばかりなのだとしたら、俺は俺に名前をつけよう。そこから俺として生きていこう。
俺の名前はディラクスだ。
それぞれの頭文字ををアナグラムにしただけだけど混ざり合ってる俺にはふさわしい。名前の表記なんかは敦の知識を使ったが、まあ大丈夫なはずだ。ダグレイの世界なんだからダグレイの知識を使うべきかも知れないが、あいにくそういった知識がなかった。そもそもダグレイはほとんど文字や文法の知識がない。文字については当面の課題にもなるな。
よし。さぁ、目覚めよう。生まれよう。
瞼を薄く開く。両の目で光を感じる。ベッドに寝ている身体の感覚がある。
今、生まれて初めての朝を迎えている。俺は他の誰でもない、俺として生きていく。人格として強く残ってる敦でも、器となった肉体のダグレイでもなく俺として。
とはいっても当分はダグレイとして生きていくしかない。いくら感情が希薄だったせいで知人が少ないといっても、顔や言動は知られている。唐突に別人のようになったら痛くもない腹を探られるかも知れない。いや、探られると困るのか。俺はダグレイでもあるが、ダグレイそのものではないのだから。ふとした拍子にディラクスが表に出てしまっては困る。
俺が俺であると自覚してディラクスという名前も付けて早々だが、当面はダグレイとして過ごしつつこの世界で生きる知識を身につけよう。ダグレイとしてある程度は知っているが、それでも完全ではないのだから。
まずは文字。文字の読み書きができればかなり生きやすくなる。今居る国のものだけじゃなくてできれば公用語も身につけたいが、焦っても仕方ない。一つずつ順番にやろう。
そしてこの世界の魔法。魔法があることは知っているが、詳しいわけじゃない。セレナは魔法が得意だった。元の世界じゃそこそこ名が知られていたほどだ。セレナの魔法に関する知識はごっそりとなくなっているが皆無というわけではないし、セレナが混ざっているおかげで俺の魂は魔法に馴染んでいると感じる。この世界の魔法も学んでいけばある程度の使い手にはなれるだろう。
これからの予定を立てるに当たって都合がいいことに、ダグレイは狩人だ。人の生活圏にいる魔獣を含めた害獣を駆除する職に就いている。
狩人は仕事をする為の許可をとるのは簡単だが魔獣や害獣を相手に戦えなくてはやっていけない。危険は多いが、それでも完全に駆逐することの出来ない魔獣の被害はどこに行ってもあるため、伝手がなく手に職もない者が手っ取り早く稼げる職といえる。
狩人は魔獣を相手にする関係上、求められる役割が大きくふたつある。
まず国の中を動き続けること。頻繁ではなくともある程度の期間で動き回ってもらわなくては特定地域に魔獣が多く住み着いたり、同業者間で獲物の取り合いが起こったりしてしまう。
二つ目は商人や旅人の護衛。魔獣の相手を専門としている上、町から町への移動を求められる為にいつからか護衛の依頼が舞い込むようになり、今では狩人や他の戦闘を主とする者達を統括する戦業省が率先して護衛依頼を斡旋している。
護衛の仕事を斡旋しているため、国にとって狩人は扱いやすい馬鹿で居て欲しいが馬鹿すぎると困る。下手なことをされると戦業省がケチをつけられるのだ。そのため戦業省からの評価が一定以上になると、狩人を含めた戦業者はそこそこの教育を無料で受けられる。
そこそこであろうと無料で学べるのは嬉しい。戦業省が開く無料講義で最低限の識字能力を身に着けることを直近の目標にしよう。魔法は確実に習得したいが、文字を読めれば魔法の習得には役立つはず。
焦らず、慎重に、ダグレイとして戦業省からの評価を積み上げていくのだ。
半年。俺は半年をただダグレイとして生活した。
目覚めてから二ヶ月ほどかけて戦業省からの評価を上げ続けて講義を受ける許可を得た。二ヶ月で許可をもらえたのは予想していたよりも大分早かったのだが、無理をしないでこなせる安全圏といえる仕事を優先し、休息を削り過ぎない程度に出来るだけ多く依頼をこなしていいたのが良かったとか言われた。狩人として生きていく覚悟と堅実性を買われたらしい。堅実性はともかく覚悟うんぬんは期待に応えられないかもしれないとは思ったが、狩人をやめると決めているわけでもなし。問題はない。
無料講習を受講する許可を得てから満足いく程度に知識を蓄えるまで更に四ヶ月かかった。近場に大規模な獣害なんかの問題があるわけでもなかったため、狩人がひとつの町にとどまっていい逗留期限に関して悩んだが、無料講習に顔を出してる間は滞在期間の制限が一時的に緩和されると知って安心した。一時的にでも腰を据えたいと思っていたのでとても助かった。ダグレイとして生活をし、あまり人と関わらないようにしていると言っても、講師と顔見知りになっている方が講義の際は気軽に質問したり出来る。俺が講義に参加し始めた時の講師が好印象だったのでなおさらだ。
半年かけて俺は当初の目標とした母語の識字能力を身につけることが出来た。初期に立てた目標の一つを達成しただけともいえるが、さすがに半年という短期間では母語の識字に、公用語のちゃんとした口頭言語能力、一から学ぶ事になる公用語の書記言語に加えて魔法についても学ぶなんて欲張りすぎている。知識面での初期目標としていた母語の識字能力を身につけられただけでも満足できる成果だ。なにより苦労せず文章を読めるようになったとは言っても、生活に根ざした魔法でなければ魔法に関する知識は本一冊とってもかなりの高級品になる。今の稼ぎで生活は安定していると言えなくもないが、大きな出費をできるほど余裕はない。せいぜいが食事に一品追加する贅沢を出来る程度でしかない。
知識面での目標では一区切りついたし、次は戦闘能力の強化に重点を置こう。ダグレイとしての在り方を大きく変えることができなかった為、俺はいまだ自分を掌握しきれていない。俺の中の自分は完全にひとつとなったわけではなく、ふとした弾みに別の自分が強く表に出てきてしまう状態だ。街角で良い男を無意識に目で追っていたときは自分で驚いた。そのときは女であるクレアが顔を覗かせただけだったが、何とも言えない気分になったものだ。それに関連して俺は男女のどちらを異性として見るべきかという新しい悩みも生まれたが、生きるという大前提に比べれば些事といって良いから当面は考える必要がないと自分をごまかしている。これに関しても余裕ができたら折を見てしっかりと見つめなおそう。
講義も一区切りつけたから移動しなければならず、目的地の支部へ渡す紹介状も用意してもらっている。拠点を移せば「今までのダグレイから逸脱しない」という行動に関する制限を緩めても大丈夫になるだろう。念のため次の拠点は離れた位置を予定しているし、そうなれば今まで手を付けることができていなかった、騎士として評価を得ていたイアンの戦闘技術を今の俺になじませる作業を始められる。今でもイアンの魂というか人格を表面に押し出せばイアンの動きを再現することは可能だが、肉体と中身がなじんでいないせいでイアンの肉体だった頃の感覚で動いてしまう。動かそうと想像してる肉体と実際の肉体が別物なのだからまともに動けるはずもない。せいぜいが立つ、歩くといった日常の動きが出来る程度なのだ。意識の主体となった敦の身体が、器になったダグレイの身体と大きく違っていなかったのはただただ有り難い奇跡といえる。
肉体と中身の話はさておいて、今までいた地を離れる以上これからはダグレイらしく緊張し続ける必要はない。今の俺、ディラクスという自分を模索していける。第一歩としてイアンの残滓をモノにできれば俺の戦闘技術はかなり向上するはずだ。少しばかり心が浮き立つのを自覚する。
拠点を移してから二ヶ月。戦闘技能に磨きをかける日々をすごし、最近では努力が芽を出し始めたと感じられるため充実している。
ダグレイとして耐え忍び、今イアンの残滓を飲み込こもうとしている。小さく見れば自分のなかの自分に振り回されているようにも見えるが、大きく見ればすべては俺が決めた通りに俺は俺として、ディラクスとして生きることが出来ている。俺はディラクスとして歩めているといっていい。
俺の自己認識が間違っていないことを示しているのか、俺を核とした小さな世界へと干渉できるようになった。干渉というのは大げさか。正確には世界の中へ入り普通に生活できるだけで、仕組みに介入したりすることは出来ないのだから。問題点はいくつかあるが、それでもほぼ絶対的に安全な俺だけの居場所を手に入れられたことは大きい。この点でも順調といえる。小世界の扱いに慣れれば、馬車に荷物を積んでおくように小世界を荷物置き場として使うことも出来そうだ。大きさも重さも皆無の、なんでも詰め込める馬車だなんて便利という言葉でも足らない。小世界は常に俺の傍らにあるのだから、小世界を馬車だというのなら俺は馬であり御者か。くだらない想像に笑みがこぼれる。とはいえ、そんな便利なものがあっても今は迂闊に使えない。何が出来るのかを検証することも極力控えなければいけない。俺はまだ狩人としては半人前程度なのだから。社会的な地位もなく、自分自身の武力においても不安を抱えている現状では上位者に目を付けられれば抵抗することも出来ない。
今日は戦闘技術の出来をみるためにも、今まで俺が受けていた仕事と比べれば少々厳しい依頼を受注している。厳しいといっても今まで俺が受けていた任務と比べてだ。絶対的な評価を見るなら、成長途上の俺でも難なくこなすことの出来る依頼である。安全に関しての余裕はしっかりとっているが気を緩めず適度に警戒していく。
結果を言ってしまえば、当然のように危険といえる危険などなかった。俺は自分自身の力量を把握できているようだ。それも俺が考えている程度の戦闘技術を身につけていると判断していい。この調子ならば稼ぎもよくなりそうだし、魔法についても近いうちに調べ始めることが出来るだろう。そのためにも油断せず、確実に能力を磨いていくとしよう。
そんな満足感とこれからへの希望を胸に町への帰り道を歩く。
少し上手くいっていたからって、俺は忘れていた。
現実は俺の、俺たちの予想や想定なんて軽く飛び越えて、悪意なんて欠片も持たず、俺たちのことを意識すらせずにその指先ですべてを蹂躙していくことを、俺は身をもって知っていたはずだったのに。
帰り道の途中、視界にソイツを捉えたまま俺は動けなくなった。
ソイツの視線が俺を絡めとる。縦に割れた瞳孔が俺の意識を塗りつぶす。
死が形を持ってそこに居る恐怖。死から逃げ出したい強烈な衝動。逃げ切ることなどできないという諦観。
そして何より強い生への渇望が自分自身を生かすために暴れだす。俺の中で徐々に自我を溶かしてディラクスという一つにまとまりつつあった六人のうち、命を危険に晒すことに慣れていたイアンとセレナを本能が蹴り起こし、無理矢理に身を守らせようと動かした。
イアンは騎士で、セレナは魔術師だった。どちらも命を懸けた戦闘を人生の一部にしていた。俺というディラクスにとって目の前に居たソイツは死そのものだったが、イアンとセレナにとってみれば少し手こずる程度でしかない、危険のうちにも入らない存在だった。
イアンがイアンとして生きていて、セレナがセレナとして生きていたら。イアンとセレナが俺の一部にしか過ぎない存在ではなかったら何も問題はなかった。
俺はイアンの戦い方と技術に耐えられる身体も装備も持っておらず、セレナの知識は虫食いだらけでこの世界の魔法についてまだ学べていないのだ。
気付けば俺は町が見えていた。
どうやって戦い、どうやってここまで来たのかなんてわからなかった。アイツが生きているのかもわからなかった。
俺に理解できたのは、俺が生きていることと、俺の左腕は二の腕半ばから先がなくなっているということだけだった。
町に入り戦業省の支部に行った俺は依頼の完了報告と俺を襲ったヤツの報告をし、狩人の廃業手続きをした。
依頼の報酬を受け取る際に、俺が出会ったヤツの情報が正しければ情報料を払うから何日か待機していろと言われ宿に戻った。
片腕になって狩人を続けられなくなりこれからの予定がすべて狂った。また組みなおしだ。
ベッドに倒れこむと、悪態をつきながら眠りに落ちる直前ふと思った。体の一部を失ったにしては自分が冷静すぎて気持ち悪いと。
数日、町の中で安全な場所をふらつきながらどうするかを考え続けた。今のところは無理をして貯めていた金で食う事はできているが、できるだけ早く次の稼ぎ口を見つけなければならないのだ。
片腕がなくなったのだから、狩人として生計を立てていくことを前提とした計画は根本からの修正を余儀なくされた。そもそも狩人として生きるのは無理だと思って許可証を返却し登録の抹消をしてしまっている。町へ帰ったばかりで半ば意識に霞がかかっていたとはいえ、まともに思考できても同じ結論を出しただろう。
魔法主体の戦闘スタイルだったらまだ違ったかもしれないが、俺は短弓と片手剣と盾を使っていた。両腕があってもまだ一人前と言えるかどうかだったのだ。片腕がなくなれば戦闘能力は子どもと同じかそれ以下になっている。
まずとにかく急いで確保しなければならないのは自衛手段と生きる糧。この二つについて考えていると、なぜか俺を核とした小世界のことが頭の隅にちらつき始める。始めのうちは意味が分からず集中を邪魔されるため機嫌が悪くなるだけだったが、これは俺の掌握できていない俺の一部に道を示されているのではないかと閃いた。今は打開策も見つけられていないし、理解できない感覚にしたがってみるのもいいと思えた。
人目につかない場所を探し誰にも見られていないことを確認した後、さっそく小世界へと踏み入る。
水の膜を通り抜けるようなぬるりとした感覚を味わい、閉じていた目を開くとそこは森にある広場で、そばを流れる川の音も聞こえてくる。
閃きに従って小世界へとやってきたはいいが、具体的な指標があるわけでもない。あてもなく森の中をさまようことに決めた。
数時間歩き続けた。森の中には特にこれといったものはなく、森を抜けた先の草原にも何もなかった。
そう。何もないのだ。何も居ないと言い換えるのが正確か。おそらくこの小世界に動物は存在しない。空気があり、光があり、地面があり、空があり、森があり、川があり、何かわからない力が満ちているのも感じられるが動物は見つからない。
植物はあるから生物が皆無というわけではない。食べ物となる食料さえ用意できれば小世界の中で生きていけるのではないか。
ふむ。この小世界に引きこもって身を守る術を模索するのもいいかもしれない。少なくともここにいる間は安全なのだ。この場合の問題は自分自身で作物と家畜の世話をしなければならないということ。解決する手段はとても簡単なものだ。自分自身以外の労働力を得ればいい。しかし、雇うなり攫うなりしたところで話が最初に戻ってしまう。今の俺には身を守るすべがない。反乱を起こされれば死ぬしかない。
そこまで考え、また何かが俺のなかで道を示すように、一つの疑問を呈する。
俺を核としたこの世界は、自身の内において俺という存在の消滅を許容するのか。
それは自身の消滅を許容するのと同じことではないのか。
つまり、この世界が自身の消滅に対して抗うのならば、この世界の内側にいる限りこの世界の核たる俺はかなり死ににくいのではないか。
そんな根拠のない、願いにも似た発想は他の何者でもない俺が否定する。この世界にも、外の別の世界にも、自身を自身として保つ性質があると俺は知っている。核たる俺が消滅した場合、この小世界は俺が居ないことを前提としたカタチで安定を保てるように変質するのではないだろうかと俺が俺に反論する。
試すのは簡単だ。危険なモノをこの世界に招きいれて俺に危害を加えさせればいい。
安全性を取って別の手段を探すか。
自分の勘に命を賭けるか。
悩んだ時間は長かったのだろうか。短かったのだろうか。
俺は今この時が俺の人生の岐路であり、この世界の作りに関する推測は命を賭けて確かめるべきだと判断した。
決断してすぐに手段を模索する。手頃なのは町にいる普段の生活では係わり合いになりたくない連中だ。もし勘が外れて俺が命の危機に陥ったらこの世界に置き去りにしてしばらく監禁しておけばいい。訓練も受けていない人間を相手にして自然の中で逃げるくらい、片腕がなくても出来る自信がある。腕を失ってすぐは歩くことも難しかったが、数日で走れる程度にはなっているのだ。ここに残された奴は川があるから水には困らないが、食べる物なんて草か木だ。不思議なことに木の実なんて見当たらなかったし、俺の知識の範囲じゃまともな食料なんて現状だと手に入りそうになかった。しばらく放置して置けば勝手に死んで、ここは再び俺だけの安全な場所になる。それまでの間に労働力について解決する手段を考えることも出来るし、全く別の生きるすべが閃く可能性も皆無じゃない。
検証の相手には人間が手頃だ。手頃なのだが、人間を使うのは別の面で問題がある。人間は群れる生き物だ。人間が一人消えればそいつの所属していた集団が原因を探るかもしれない。そして俺が関わっていると突き止めるかもしれない。
検証だけを考えるなら人間を使うのが良いのだが、その後も含めて考えると大人しく野生の獣を使うほうが良さそうだ。獣を相手にするなら自然は俺の味方ではない。先に場所を検討した上でいざという時の罠を仕込んだりする必要がある。
人間を使って後で大きな負担を抱えるよりは、今罠を仕込んだりする程度の手間で獣を使うほうがいい。
すべきことが決まったので行動を開始する。獣を呼び込む場所を決め、逃げる道を決め、罠を仕掛け、見落としはないか確認を繰り返す。満足できる程度に仕込みの確認をしたので外へ出る。
外へ出てみると日が沈み始めている。中に居た時間を考えると時間の流れに中と外での違いはなさそうだ。
今のところ俺しか俺の小世界を知っている者は居ないため中と外と呼んでいるが、そのうち名前をつけるのもいいかもしれない。名前をつければ愛着が湧くというのもあるし、小世界の中と外を区別するために呼び分けるにしても外の方はいつまでも外としか呼べないだろう。この世界に住んでいるものが世界に名前をつけているとは思えない。唯一無二のモノには名前をつける必要などないし、一つのモノとして認識していなければそれ以前の話だ。世界がいくつもあることを認識していでなければ、自分たちの居る世界に命名などしない。
小世界の名前を考えながら、実験用の獣を捕らえるために町の外へ出ようと門へ向かっていたが、日が沈んでから門をくぐる者は珍しいと気付く。門を通ることは無理じゃないが手間がかかるし、なにより門衛の印象に残ってしまう。今日、日が暮れてから町から出たことを覚えられても問題はないが、下手なことはすべきではない。ここは時間ができたと思って小世界を調べる事にしようと振り返ろうとてまたも足が止まる。宿の部屋は数日分をまとめて料金を支払ってある。一日分の宿代が無駄になるというよりも、金を払ってあるのに宿に戻らないのは不自然だ。そこらで酔いつぶれていたことにしてもいいが、宿の食堂では酒を飲んでいない。宿に戻らなかった理由などいくらでも用意できるが、不用意なことはすべきではないと今決めたばかりだ。なにより、ここまで思考をめぐらせたことで自覚したが俺は焦っているようだ。焦っていることがわかったのだからわざと足を止めて呼吸を整えるべきだ。今日は宿へ戻りここ数日と同じように食事をして部屋で休もう。焦る必要はない。
翌朝。目が覚めて予定を確認していたが、昨日の俺はかなり焦っていた。すぐに実験をしようとしていたために木の枝や草を編んだ縄で間に合わせた罠を実験の予定地点に仕掛けただけだったのだ。今回の実験は危険のある賭けとはいえるが、軽減できるリスクを放置するのは自殺志願者と同じだということで、まともな罠をしかけるために手持ちに残っていたものと今日購入した罠を仕掛けに来た。
罠をしかけ終わった後はまた何度も繰り返し確認した。予想通り、自分の手順のあちこちに不備を見つけた。
今回は自分の勇み足に気づくことが出来たが、次もそうだとは限らない。自分の中の客観性というのは所詮は内側からの視点だ。今回のような危険を排除するには信頼できる相棒を見つけるしかない。そんな相手を探すことも視野に入れたほうがいいかもしれない。が、今はこれからの実験に集中しよう。誰かと行動をともにすることのメリットデメリットは時間をつくってじっくり考えよう。
満足いくまで下準備をした俺は今度こそ外敵を招き入れる為に外の世界へ戻る。
今度は途中なにかを思い出すことも問題に気付くこともなく門を抜け町の外へ出た。
実験に使えそうな獣を探し、警戒しながら森を歩いて1時間ほど。痩せこけた狼を見つけた。かなり弱っているようだから森の奥での生存競争に負け、餌を求めてこんな人の領域近くまで出てきたのか。
ちょうどいい。いや、完璧といえる。手負いではなく衰弱しているのが素晴らしい。
俺は狼に気付かれないよう周囲を観察し、小世界へ誘い込む為の方法を決めた。
水筒に入れてある草食獣の血を自分の足にかけ、狼の風上へと少しずつ移動する。狼から離れる方向へある程度進むと少し戻り、小世界への入り口を設置する。下手なモノが事故で入り込まないように入り口の高さを俺の腰程度に制限しておく。入り口よりも大きいモノは小世界へは入れず入り口を素通りすることは確かめてあるのでこれでいいだろう。何か入り込んでも外へ出さなければ多分問題もない。身体を曲げて窮屈な体制で小世界へと入り、中にも臭いをつけておく。
実験する場所まで臭いをつけたあとは血液の凝固剤、剥離剤、消臭剤を順に使う。便利だからこそ需要に供給が追いついていないために少々値が張る代物だが、今回の好条件を逃したくない。
血を落とし終わった俺は気付かれないよう注意を配りながら狼を監視しやすい位置へ急いで移動した。
ちょうど狼が起き上がり、血の臭いが漂ってくる元へ興味を示している狼を視界に捉えることができた。
狼は風に乗って漂ってきた血の匂いに反応したようだ。地面に横になっていたが、首をもたげて匂いの元を探っている。
俺は出来る限り気配を消し、狼の様子を無心に見守る。集中しすぎないよう、注意が散漫にならないよう。狼の微細な変化を見落とさず、かつ周囲の変化も見落とさない。完全にできているわけでもないし、いつかできるようになるとも思えない技術だが、心がけるだけでも十分に役立つ。
そうやって狼を監視していると、弱った身体を起こして匂いの元へと歩き出した。俺も離され過ぎないように後をつける。
衰弱の度合いから見て狼の判断力は鈍っているはずだという予想は当たり、血の匂いをたどるままに狼は小世界へと踏み込んだ。
俺も狼の後から小世界へと飛び込み、すぐさま入り口を閉じる。外の世界側の入り口があった辺りはマーキングしてあるため、そのマーキングを目指してこちらから出入り口を開くことができる。一時的に遮断してしまっても問題はない。以前、同時に二箇所の入り口を開き試したことがあるのだから心配する必要はない。とっさに湧き上がってきた戻れないかもしれないという恐怖、切り離されたという孤独感を押さえ付けるため自分に言い聞かせる。
入り口を閉じたあとに身体が固まったのは一瞬にも満たない時間だ。
脅威を前にして短いとは言えない時間だった。
そう。俺のすぐ目の前には、唐突に周囲が変わり警戒心を掻き立てられた狼がいたのだ。それも餓え、血の匂いを嗅ぎ、狩りの最中だった狼が。
突如背後に現れた俺を獲物と認識したのか、自分を脅かす敵だと認識したのかは分からないが、狼は俺に襲い掛かった。
敵意に対して身体が反応し臨戦態勢をとるのを感じながら、俺は詰めが甘いのだと実感し、相棒にするなら普段はどうであれそこを補ってくれるようなやつを選びたいと間が抜けたことを考えていた。
狼は狙い通り俺の右足にかじりつき、俺はこれから頭に突き抜ける痛みを覚悟した。
痛みを覚悟したが、予想外に俺の脚は何も感じていない。いや、噛み付かれている圧迫感はある。足をそっと引いてみると簡単に抜けた。服にも穴は開いていない。それどころか唾液すら付いていない。不思議に思い地面を見れば、しっかりと涎が垂れている。不思議だ。
最初の衝撃から回復すると、狼が噛み付いた格好のまま固まっていることに気が付いた。身体を低くし、首をひねって口を半開きにしているという不自然な体勢だ。望んでそうなっているとは思えない。
しばらく観察してみたが、狼は強制されて苦しい体勢でいるように見える。俺の油断を誘っているわけではないらしい。
少し悩む。足は噛み付かれても大丈夫だったが、他の部分はどうだろうか。全身守られてるとして、どの程度の危険で傷つくのか。子どもに叩かれたら、竜の息吹なら。加害者と被害者の双方が意図しない事故の場合はどうなのか。
俺が自分から怪我をしようとした場合はどうなるのか。その発想が生まれると同時、全身から冷や汗が噴出した。予定では自ら狼の攻撃を受け入れるつもりだったのだ。もしそれが自傷行為となり、脅威による危害ではないとみなされていたら。取り返しが付かなかった可能性が高い。
今日の朝、昨日の俺は焦っていたことを理解したつもりでいたが、今日の俺も大差がなかったようだ。
狼は放置し、自傷行為は出来るのか、出来るとしたらどの程度まで出来るのかを確かめる。
引っ掻く。抓る。叩く。跳んで膝から落ちる。転ぶ。木に手を擦り付ける。木にぶつかる。枝で腕を突く。木の上から飛び降りる。短剣で切りつけ、刺す。息を止める。川に入る。
どれも傷がつかないどころか痛みすらなく、着ている物が傷つくこともなかった。髪や爪はどうなるのかと思ったが、ディラクスとして生まれてからはそこらの手入れをした覚えがない。しかし、ダグレイの体は成長していたし、筋肉の増減もあった。どういうことなのかと考えかけて当座の問題から脱線していることに気付いた。髪や爪は別の機会を設けよう。
とにかく、俺が自傷行為になると思ってとった行動すべてにおいて俺は無傷だった。息を止めていても苦しくなることはなく、水に入っても呼吸が出来なくて苦しくなることはなかった。俺の身長の3倍ほどの高さがある崖から顔面を下に向けて飛び降りるのはかなりの覚悟を必要とした。ほかには持っていた短剣を勢い良く腹に突き刺そうとした時もかなり怖かったが、それらの覚悟と恐怖に見合うだけの情報を手に入れたと信じたい。
何を基準にすればいいかなど分からないが、日常生活でこれらを超える脅威と偶発的な接触をすることはまずないんじゃないか。すぐには思いつかないから今は満足するしかいない。毒を盛られる可能性は考えたが、生憎と今使っても大丈夫そうな毒は手持ちになかった。持っていたのは殺す為の毒か人に使えば後遺症が残る類の麻痺毒だったのだ。すぐには無理だが、人を招き入れる前に確認しておかなければいけない。
自傷行為について稚拙な検証を終え、これでやっと予定していた実験に戻れる。自傷行為は問題なかった。ならば俺の意思に沿わない脅威は俺を傷付けられるのだろうか。
今のところ使えるのはずっと不自然な体勢を強いられている衰弱した狼一匹。
どこまで実験に協力してくれるかも衰弱した状態でどの程度耐えられるのかもわからないが、この狼に協力してもらおう。
それにはまず狼が動けなければならない。狼はこの小世界の防衛反応的ななにかによって拘束されている。どうしたものかと考えながら触れてみれば、ぐしゃりと狼がうつぶせに倒れた。
驚いたが、俺が触れたことで拘束は解けたものの、衰弱していたせいで姿勢を保てなくなったようだ。何か分からない力が狼を押しつぶそうとしたわけではない。
狼も動けるようになったし、実験を再開しよう。
実験はあまり気分の良いものではなかった。動きが鈍いので突いたり入れ物の血をぶちまけて興奮させたりして無理に動かし、満足とは言わないもののある程度実験を繰り返したところで狼は息絶えた。衰弱していたのだから今回の成果は満足するべきだろう。
実験が終わった段階で俺の身体も身につけていたものも全く傷ついていなかった。
俺の意図したものも、狼の意図したしたものも、間接的なものも俺に傷をつけることはなかった。
予定とはまるで違ったし、自分の不出来さも痛感したが今回の事はその分俺の糧となる。
達成感と充実感に包まれ、俺は外の世界の宿へと戻った。小世界は俺の拠点として充分使える。問題点の洗い出しと対策は明日考えるとして今日はもう休もう。
実験を終えて翌日。
小世界内における身の安全をある程度確信できたので小世界で過ごすためのことを考えていた。完全に自給自足を目指すならば何人必要か。作物や家畜は何を育てるべきか。そもそも何を育てられるのか。
土地というか、環境に合った作物が分からない。思いついたものはすべて試す位がいい。家畜はすぐには無理だ。穀物類を作れるかもわからない。家畜の飼料をすべて外世界で賄うのは収入がないから不可能だ。そもそも初期投資のための費用をどうすればいいというのか。先払いで確保してあった宿も今日までだ。明日から宿を取るべきかも考えなければ。いや、何を先に考えればいいのかもわからない。
目が覚めてすぐから身支度を整えつつ予定を立てようとするが、まるでまとまらない。
何をすればいいかは分からないが、とりあえずは宿を引き払わなければならない。ここ数日宿に置いていた荷物を持ち宿を出ようとすると、戦業省からの使いが来ていて支部へ顔を出すように言われた。廃業手続きをした際に言われた情報料に関して話があるらしい。収入に繋がる話ならありがたいことだ。今は少しでも資金が欲しいのだから。
使いの人に昼を過ぎてから行くと言伝を頼む。俺としてはすぐでもいいくらいだが、わざわざ人を寄越してくれたのだから余裕を持った訪問も悪くない。その辺りの礼儀は何となくでしかないが、問題があったらそのときはそのときで仕方ない。
さて、朝食を食べたら小世界へ行って探索をしてみよう。昨日と今日では心の持ちようがかなり違う。何が不安なのか、心の何処に余裕があるのかで見えるものはかなり違う。これからはこまめに小世界を探索しよう。現状だと抱えてる不安を和らげる方法がそれ以外にない。問題が解決するわけでもないから誤魔化せるのも短い間だけだと思うが、それでも不安にゆれ続けるよりは大分ましだ。
数時間ほど小世界を歩き回った。今までも中を見て回ったことはあるので結構な広さがあることは分かっていたが、予想よりもかなり広いかもしれない。ひょっとすると、一つの国を入れても余裕があるほどではないか。はっきりとした広さは分からないが、自然環境は多様で変化に富んでいる。労働力さえそろえればかなりの多種類の作物に対応できるだろう。小世界で生活することを目指すなら、一つの村や町を作ろうと考えるのではなく、貴族が領地を治めるようなものと考えたほうがいいかもしれない。
ふと気付けば太陽……のような何かがかなり高い位置まで移動している。空で輝くあれを太陽と言い切れないのは、この小世界の大きさが分からないからだ。そもそも今立っているこれが星としての形をしているか分からない。大地と空はあるが、地下がどうなってるかはわからないし、同じように空の視認できないところがどうなってるかわからない。空の向こうは宇宙なのか、この大地が丸いのかもわからない。もしかすれば宇宙はなく太陽のような何かはあくまで太陽のような何かであり、地の果てに行けば見えない壁に遮られるのかも知れない。地面を掘って行けば底が抜けて奈落に落ちていく可能性もある。そのうちそのあたりも調べてみたいとは思っているがそんな機会があるかは分からない。
小世界のことはまるで理解出来ていないと再確認しつつ外世界へと出た。やはりこちらも太陽がかなり高い位置にある。今のところは小世界と外世界での時間の流れに体感できるような違いはないようだ。小世界から外世界へ出てくるときはいつも不安が心の大部分を占める。今時間の流れが同じだとしても、あるとき唐突に法則が変わる可能性は常にありうるのだから。これもそのうちにある程度小世界と外世界の繋がりを弱めるなどして確かめよう。
この町にある戦業省の支部へ向かっていると、良い匂いが漂ってきた。昼時だし何か食べようかと思ったが、空腹は感じていない。小世界の中を歩き回っていたのだから小腹が空いていてもおかしくないのだが、ひょっとすると小世界の中における俺は食物を必要としないのかもしれない。今後の方針に関わる重大な疑問ではないだろうか。
歩みを緩め思考をめぐらせながら出した結論は現状維持。小世界において俺が食物を必要としない可能性はあるが、それがずっとそうであるという保証はない。物資を小世界の中で確保する道は捨ててしまわなくてもいい。もし今は食物を必要としないのであれば考える為の時間を稼ぐことが出来た程度に受け止めておこう。
自分のうちにおける自分との議論に一応の決着を付けた頃には目的地のすぐ側まで近付いていた。
支部に入り受付に用件を伝えると奥へ通される。情報料を渡されるだけじゃないのか。確かに俺にとってはまともに戦う事も逃げる事もできないような相手だったし、この都市周辺ではありえないような強さを持った魔獣だったが、三十人くらいのベテラン戦業者集団を一つ雇えば余裕を持って討伐できる程度の魔獣だったはずだ。十分に安全を確保した上であれを狩れる戦団はこの都市にいくつも滞在している。厄介事の気配がする。気付くのが遅れたせいですでに刃先を喉元へつきつけられてしまっている状態だ。逃げられそうにない。
部屋に入って軽い挨拶を交わした後、俺から情報提供を受けたものと思われる魔獣の死体を発見したことを告げられた。それとともに、再度俺が件の魔獣と出くわした位置や経緯について確認される。俺が話す内容をいくつかの資料を見比べながら聞いていた役人は、俺の話が終わると暫く間をおいてこの都市の少し特殊な事情についての説明を始めた。
この都市が接している未開地から二十年に一度程の頻度で群れていない地竜がやってくること。信用のできる古い資料には成竜になった個体の巣立ちだろうとの調査結果があること。あらゆる面で価値の高い竜でありながら若く群れに属していないがゆえに仕留め易いその地竜を狩る事で、この都市は目ぼしい産物がなくとも潤っているということ。
そんな前提を踏まえて報酬に関しての交渉が始まるのかと思いきや、話はもう少し続く。
はぐれの若い地竜の狩り方は確立されていて、事前準備さえできればほとんど被害を出さずに済ませることができる。そのため、地竜の各部位の競りをはじめとした一種の興行が催される。人が集まれば芸人や商人が集まるのは道理で、都市としてもそれを後押ししている。
つまり、目立つ。特に地竜を討伐した者達はちょっとした英雄ともいえる。
話の流れからすぐに見当がついた。そして、俺が理解した事を察した役人が婉曲的に肯定し茶に口をつけると、関連があるから口にしたという体で世間話のようにつけたした。
『偶然この都市に訓練のため遠征してきていた騎士団の指揮官が、領地へ地竜が進入した事が確認されたために張り切っていたものの討伐の報告を受けて残念がっていた』と。
ここまで言われればさすがに俺でもしっかりと理解できる。いや、俺に理解させて念を押すためにこんな分かりやすく言っているのだ。
俺が事情を把握したと示すためにゆっくりと頷けば、交渉のできる相手だと判断したのかいくつかの資料を渡された。
よその領地のものも含めた過去の地竜の売却額や、それを仲介した際の戦業省のおざっぱな経費。競りの概略やら商人が競り落とした際のその後の収益予想。この領地で地竜が仕留めた討伐隊の指揮官を勤めた人物の出自やその後の足跡。
役人が遠まわしに言っているのは、俺の左腕を奪い俺に殺された魔獣は地竜だということだ。この世界の竜種についての知識がない上に遭遇直後から錯乱していたせいで言われるまで気づかなかったが、確かに地竜と言われれば腑に落ちる。
そして、地竜を討伐したという誉れを得る事が決まっていた人物とその段取りを整えていた人物たちが少々困っており、そんな人たちに俺が知った地竜に関する情報を融通すれば謝礼金を得られるし、戦業省はその橋渡しをしてくれる。
こんなところか。問題は金額くらいか。損はしたくないが、実際に地竜の死体を確保しているのはこの都市か戦業省で、俺が所有権を主張しても握りつぶせる相手だ。ごねて大金を手にしてもその後に死ねば意味はない。
資料をテーブルに置いて相手に視線を向ける。これだけで交渉する意思を汲み取れるこの役人は相応の場数を踏んでいると思われる。もともと今回の件で大した額を得られるとは期待していなかったが、予想よりも少なくなりそうだ。
資料の数字を見直して最低限引き出せる金額を見積もると、底辺に近い生活をしている俺一人の支出で換算した場合の十年分はなんとかなる。過去の経費が嵩んでる年の余剰分からの当てずっぽうだが、地竜の売却益の四割程度ならば過去に地竜討伐に寄付している貴族の爵位や役職から予想する利益に比べれば大した金額じゃないだろう。同じ戦業者の収支で比べても、本来地竜討伐に必要なベテラン戦団における一仕事の成果としてみれば、少し割りの良い仕事だったで終わるくらいでしかない。
片腕一本で十年分の収入だなんてとてもじゃないが耐えられない。それでも金に固執して命まで支払うよりましだ。俺の小世界を開拓するための資金に十分とは思えないとはいえ、人を使うにしても二、三年はなんとかなる。その間に多少なりとも成果を得られるのならばそれを足場にまたその時悩もう。俺自身も、俺を構成するうちの六人にしても開拓や領地経営において知識も経験もないのだから手探りで進むしかない。小世界においては直接的に害される心配がないという一点だけでも十分な幸運なのだ。
結局、役人との交渉は俺が予想していた三倍ほどの金額を受け取る事で何の問題もなく合意した。
俺は全く意識もしてなかったのだが、彼らにとっての俺は『地竜と一対一で戦っても腕一本の犠牲で済む力がある』人物なのだ。単体でそれほどの武力を持つ俺と諍いを起こして人的、物的に少しなりとも消耗するより金銭で解決するのが無駄のない結果なのだと途中で気づいた。俺にとって損のない終わり方ではあったが、やはり視野が狭くなると思わぬ躓き方をする可能性が高い。より注意を払おう。
建前として地竜発見の情報料として地竜を売るよりも多いっ金額を受け取り戦業省支部を出た。
これからの予定はどうしようか。町中で戦業省や貴族の私兵の襲撃を受けるとは思わないが、念を入れて今日以降は小世界で寝起きしよう。ああ、小世界の中で俺が空腹を感じるかどうかも試さなくてはいけないのだったか。都合がいいから数日分の食料と今持っているよりもまともな野営具を買い揃えよう。今までは街道を行きかう人目もあって野営の際に小世界へ入る事はできなかったが、今は町中の入り組んだ路地で入り口を開けば見られることによる危険や面倒ごとを避けられるだろう。
小世界を積極的に活用していく事にするなら、今まで定住でき内政で所持できなかった物も買っていい。そうだ。魔法関連の書籍も今なら手に入れられる。基礎だけでも学べればセレナの知識や感性、経験でそれなりに使えるようになるかもしれない。
予定を組みながら寂れた人気の少ない路地を歩いていた。しばらく小世界への出入りに使うための人目の少ない場所を物色している。いいところを見つけたらそのまま大量の金銭を小世界に投げ入れる必要もある。大金を持ち歩くのは危険性でも重量でも避けたいのだ。
ふと、道端にうずくまっている小汚い襤褸を纏った小柄な人影に目を留める。人は群れる生き物だが、様々な理由で群れからはぐれる者が居るのも必然だ。ああいったはぐれ者を餌付けして小世界開拓の労働力に使うのもいいかもしれない。信頼関係を構築するために多少飯を食わせるくらいなら大した出費ではないのだし、とりあえずあの子供から試してみよう。
ここ数日、予定していた検証の消化は順調だ。
まず毒物。弱い物から劇毒まで種類ごとに何段階かで分けて試した。長期保存用の瓶まで含めた各種解毒剤は高くついたが、使わずに済みこのまま保管して備えに回せるから予定よりも安く上がったことにしよう。
次に髪の毛や爪。これは手軽に終わった。最初に伸びないものかと意識すれば伸びたのだ。縮むことはなかったから手間はかかったが、もう気にする事でもない。
次に外の世界の魔法に関して。これは予想とは比べ物にならないほど好調で、同時に予想していた通りに難航している。元の人生、世界において高名といっても差し支えないほど魔術に精通していたセレナが俺の一部となっているために、理論の面では砂地にしみ込む水のように理解する事ができた。しかし、今使っているか体はダグレイのものなのだ。この体は魔術、魔法といったものに馴染んでいない。実践の面では派手に躓いている。とはいえ、光明は見えている。焦らず地道に研鑽を積めばダグレイの体でもそれなりには魔術を使えるようになると思われる。いや、外の世界のそれは魔法というのだったか。
最後にまとめて睡眠、食事、排泄。魔法書を読んだり実践したりの間にもう何度か夜をすごしている。その間に眠くなる事も空腹感を覚える事も排泄欲求に苛まれる事もなかった。多分、俺はこの小世界の中に居る限り、そういった人間的な欲求などを抱えることはないのだろう。性欲も自分を省みる限り人よりも弱いくらいだからただ便利なだけだ。
さて、食事の必要がないと分かった以上、食糧の確保は数日前ほど切羽詰った問題ではなくなった。先々にどうなるかわからないのだから開拓するという方針を変えるつもりはないが、余裕が生まれたのはありがたい。数日前の浮浪児を手懐けて労働力を確保する長期的な計画を進めていこう。失敗したらその経験を生かして次の手段を模索すれば良いのだ。
前と同じところに転がっていた前と同じ浮浪児に食べ物を与え、外へでたついでにこれから先小世界で人を使うにあたって必要と思われる物を買い込み、小世界へ戻れば魔法の研鑽に努める日々が続いている。
いつも顔を隠すようにフードを目深にかぶっていてもあの子をなんとなく見分けられるし、相手の方も俺になれたのかぶっきらぼうなお礼や一言二言の話するようになった。信頼関係の構築はたぶん順調だと思う。
今日は最近の調子の良さに押され、一つ、大きな実験をする。地竜の件で役人に資料を見せられた際に気になる記述を見つけたのだ。地竜は自身が食べた物の中から特定の金属だけを抽出し体内に蓄える性質があり、その金属は人間にとってもかなり有用で良い値がつくという。
俺の頭がどういった思考をしたのか自分でも理解ができない、何の根拠もない発想を得たのだ。ひょっとしたら、小世界に溶け込んでいる様々な物質、物体を再構成できるのではないか。
根拠はない。だが、同時に成功する確信がある。多分、以前にも感じた小世界からの自己主張なのだろう。もっと役立てろ。そして、有用な自分を守れと。小世界が有する自己保存の意思のような何かが俺に訴えかけているのだ。たぶん。
やりかたはなんとなくわかる。やってみれば実際にできるかどうかはすぐ明らかになるのだ。さっさとやってしまおう。
小世界と俺の繋がりを意識して、小世界の輪郭を把握し、内包されるものの中から望む物を引き出そうとして困った。何を再構成しようか。ああ。家がほしい。しっかりとした手ごたえを感じて成功を確信した瞬間、俺の意識は闇に飲まれた。
とても、とても簡単な話だ。慣れない作業をやるのだからもっと小さい物から試すべきだった。要するに成功はしたものの負荷が大きすぎたのだ。目を覚まして棒で打ちのめされたような鈍痛に全身を包まれながらこうなった原因と現状を認識する。体の痛みはそれほどでもない。頭の中をかき回されるような不快感とそれにともない猛烈な吐き気が、体を動かす事もまともな思考をする事も許さない。しばらくは倒れたままやり過ごすしかなさそうだ。
何度か会ううちに少女だと判明した浮浪児に食べ物を届けると、俺が前に来てから十日ほど経っていると知る事ができた。前にこの子と会った日に実験をはじめ、倒れたまま吐き気のせいで眠る事もできず三度ほど夜をすごしたから、気絶していたのは七日か。
少女に打算だけではない、純粋な気遣いも含まれる声でどうしたのかと聞かれ、素直に寝込んでいたと言う。俺の答えに何か問いたげな視線を向けてきていたが言葉を飲み込んで少女はパンを食べ始めた。
少女の食事をぼんやりと眺めながら考える。確かに家は再構成できた。それも、俺の中のセレスとルーファスのそれぞれが使っていた家が混ざって一つになった家と、どこからきたのか分からない長屋が一棟。初めて試した成果としては十分だ。どれも先々必要になると考えていたから良い。でも、もしかしたら、そんな漠然とした欲求に反応して過負荷というにも生ぬるい代償を支払う事になったのかもしれない。次に小世界の含有物を再構成するときは確固とした目的を持って臨む事を決めた。あんな苦痛は極力避けたい。
俺が決意を固めていると少女はゆっくりとパンを一つ食べ終え、残りは抱えたまま去ろうとしている。いつもと同じだ。ただ、目の前で食べる量がいつもより少ない。
少女にその事を聞くと、やはり、仲間の元へ持って帰るのだという。これまでも俺が居る前で食べて安全を確かめ、残りは仲間が食べていたそうだ。
これは都合がいい。さっきの気遣いのこもった視線と、内情を教えてくれたという信頼に応えよう。午後にも来ることを伝え、少女にももう一度来て欲しいと頼んでおく。話の流れから期待したのだろう。フードの奥の目をいつもより輝かせると、しっかりと頷いて去っていった。
少女と別れ、いつもとは違い調理されていない食料も調達する。今までは屋台で調理済みのものばかり渡していたが、材料のまま渡すほうが同じ金額でも量が多くなる。調理に燃料も必要になるから、一応それ用の魔具も一緒に渡そう。家が手に入ったから野営具は当面必要ないのだ。ナイフなどもまとめて貸してしまおう。貸した物が返ってくるかは俺次第だ。
あまり踏み込み過ぎないように少女の群れの規模は聞いていないが、とりあえずいつもの三倍ほどを追加で届ける。これからは元の倍くらいを届けることにしよう。少女の群れが大量の食料を手に入れているのがあの辺りの浮浪者やごろつきに見つかれば無駄な危険も増える。自衛できるから生きていられるのだろうが、危険はより少ないほうがいい。
いつもの場所に戻り少女に食料や野営具を渡す。さすがに俺の気前が良くて訝しんでいたが、おざなりにあしらって帰らせた。ちょっとやりすぎた。何か適当な理由を考えておこう。
浮浪児の少女と信頼関係を築き、魔法の研鑽を積み、小世界の含有物の再構成を繰り返し、再構成のたびに数日寝込む。そんな日々を過ごして早半年。
少女の健康状態は良好。枯れ枝のようだった手足も多少は改善されている。信頼関係も、待ち合わせに他の子を伴うくらいには進展している。俺が彼女たちに入れ込むのは、俺もスラムで幼少を過ごしたからと言ってある。俺の一部である魔具士だったルーファスは実際にスラムで育って後の師匠に拾われたから完全に嘘ってわけではない。彼らは俺の一部なのだから。
魔法の研鑽もゆっくりと進んでいる。睡眠や食事の必要はないため、合間に気分転換を挟みつつ理論の研究と実践の訓練を続け、ごく初歩的な魔法をダグレイの体で使えるようになっている。この調子ならそれなりには魔法を使えるようになるはずだ。
小世界の含有物を再構成する作業は芳しくない。狙った物は再構成できるが、そのたびに余計な物も構成してしまい、寝込む。余計なものとは言うものの、本心では望んでいるからこそついでに構成してしまうのだから邪魔なわけではない。しかし、回数を重ねても思うようにできていないという点が大きな問題なのだ。最近はあの苦痛と不快感に慣れてきている気もするから多少はましなのが救いだ。
いつものように少女の下へ食料を届けに行くと、今まで多くて三人だったのだがその日は六人で待っていた。
明らかに何かあるが、行動を起こしたのは相手側だ。俺は受身で居るほうがいい。今更身の危険を考えなければいけないような仲でもない。仮に何かあっても、初歩のものとはいえ魔法で自衛くらいできるし、少しの時間を稼げれば小世界に逃げ込める。
信頼関係はあると思いながら逃げる算段を整える自分にちょっと笑ってしまった。
いつものように食料を渡すと、半年の付き合いで初めて少女の所属する群れの拠点に来て欲しいといわれた。声や纏う雰囲気から感じられるのは不安、恐怖、ちょっとの期待。不安も恐怖も、理解できる。少女自身も含め、体系の分かりにくい外套を身に着けてフードを目深に下ろしているが、少女とともに俺の前に姿を見せたのは多分、みんな女の子だ。魔法の修練により魔力に親しんでいるため今では男女の判別をできるが、この五人は少なくとも男じゃない。少女の群れは全員が女なのだと思う。だからこそ、男である俺に一歩踏み込む事は怖いのだ。
少女たちの誘いを受け、貧民区の奥へと歩む。途中で初歩的な悪意を感知する魔法を使えば、鋭いものから粘り付くようなものまで数種類の悪意が向けられている。俺の魔法で感じられるほどなのだから彼女たちには敵が多いとわかる。人身売買が合法的に行える地域だから女の集団が狙われるのは当然か。
彼女たちの事情を思考を割いているうちに目的地に到着し、建物の中に招かれる。
廃墟と表現できる建物の中にはフードを被っていない少女が五人。建物の中に他に人間はいないようだから十一人の群れだろう。予想よりもずっと多い。俺が都合していた食料はせいぜいが五人の一食分、それも食べたりないような量だ。その食料を届けていたのが平均して三日に一度。そんな量の食べ物を得るだけで半年かけて徐々に体つきにわかるほどの変化が見られるとは、それまでどうやって生きていたのか想像できない。
少女に促されて敷物に座ると、躊躇いがちに言った。狩人としての技術を教えてくれないかと。
一度口を開けば止まることなく事情を喋り続ける。始めのうちはぽつりぽつりと、そのうち熱が篭り始め、語り終える頃には肩で息をしていた。
彼女たちの群れは、多少見目が良かったり、多少魔力が多かったりで、女ゆえに他者の食い物になりそうなって逃げ出した者が集まりできた戦団だった。それぞれの事情でもと居たところから逃げた女たちが自力で身につけた戦闘技能で身を立て、同じ境遇の者を保護し、自らの技能を教え、そうして代を重ねて仲間を増やし戦団を形成していた。そして一年前、主力の者達が仕事で失敗して全滅。残った者でまだ無力な者を抱えながらやりくりしていたが少しずつ数が減り、半年前にはまともな食料を得られるほどの稼ぎではなくなっていた。その頃にはかろうじて使える治癒魔法で空腹をごまかし、すずめの涙程度の収入で手に入れた食料を分け合っていた。半年前に俺と会い、食料を貰うようになってからかなりましになったという。俺と少女が会うときには交代で物陰から観察してそれぞれで判断し、俺と一歩近づく事をよしとしない子達はここを出て行き、意思の統一はできているそうだ。
どうするか。俺が女だったらここで狩人としてではなく、小世界の開拓者としての道を提示すればすべて片がつくんだが。そもそも俺の見につけている技術は狩人と戦士の見様見真似で、人に教えられるほど上等なもんじゃない。加えて、魔力を見た感じだと肉体的に鍛えるよりも魔法に馴染んだほうが使い物になるような子ばかりだ。俺は理論しか教えられないとはいえ、魔法の実践は自分の感覚に依る部分が大きいから問題ないといえば問題ない。しかし、戦う、糧を得る術を与えてどうするのか。信頼関係の構築には役立つかもしれないが、その先に俺とともに小世界の開拓をする未来があるとは思えない。たとえ繋がったとしても年単位で先の話だ。彼女たちを労働力とするために投資していた分を放棄するか、このままの付き合いを続けて信頼を積み上げる事で部下になってもらえるように目指すか。どちらがより俺の目的に副うか考える。
少女たちの不安げな視線の中黙考し、短いとはいえない時間をかけて心を決める。投資を続けよう。彼女たちが俺の部下とならず自立したならば、再び彼女たちの属していたような戦団を立ち上げてもらい、過剰なほどに人を集めてもらえばいい。そうして受け入れられない部分を俺の方で保護するのだ。その程度の信頼関係は構築できるはずだ。奴隷を仕入れることも考えたが、少女たちへの投資と奴隷の購入費用を比較して取りやめた。
方針を固めると、おおよその予定を立てる。まず俺のできる限りでここの防備を強化する。魔法の訓練を中心として短剣や弓くらいならなんとか教えられる。俺自身は片腕で弓を引けないが、指導はなんとかなる。あとは食料を今までよりも増やそう。食べて体を作らなければ訓練の成果よりも訓練の危険のほうが大きい。しばらくは魔法だけに専念して体作りを優先するのだ。彼女たちが一端の狩人になるまでは俺が全面的に食料を用意しよう。時間を効率的に使って訓練を積ませた方が最終的にはロスは少なかろう。
少女たちの頼みを聞き入れる旨と、これからどうしていくかを伝える。ただでさえ食べ物を貰っているのに、そのうえ技術指導を願うなど虫のいい話だと理解していたのだろう。俺の方の事情を把握していないのだから当然だ。その上さらに支援する食料を増やし魔法の指南をすると言えばさすがに話がうますぎると不審を露にする子も居たが、それを察した交渉役の子とやりとりを経てなんとかその場は切り抜けることができた。
やりすぎたとも思うが、必要な事だ。行動で誠意を示すしかない。そもそも彼女たちに対する害意も俺だけが得をしようという悪意もないのだ。人を手のひらで転がす手腕などないのだから下手な色気は出さない方がいい。
今日はこの拠点の周囲に簡易の結界を張って、明日から指導の合間を縫って守りを固めていこう。
目が覚め、頭を揺らすような鈍痛を自覚して不快感に包まれる。ひどく寝汗をかいたようで全身が濡れている。水を浴びるまで我慢ができず、タオルを取り出して首周り、胸の下、谷間、脇、股と特にべたつく場所をぬぐう。ディラクスの一部である敦のいた日本の物は魔力を前提とした生活の中で役に立たない物も多いが、タオル地の手ぬぐいは群を抜いて使い勝手がいい。あとはベッドと紙が良い。服は外で着るには心もとないが、家で落ち着くなら肌触りやデザイン性の面で優秀だ。
頭痛は消えていないしそのせいか視界も焦点がぼやけているものの、汗を拭くと気分が多少上向いた。水を浴びてもっと良くしよう。
少女たちに指導を始めてから三ヶ月が経っていた。
体調を整えさせる間に読み書きを覚えさせようとしたのだが年長の子らは戦団内の教育で身につけていたため、彼女たちを年少の子らの教師役として俺は拠点の守りを固める傍ら教えるのに自信がなかったりする部分の補助に回った。
拠点で気を抜ける程度に結界の敷設やらを終えると、外の世界で手に入れた魔導書を教本として理論を学ばせ、実践は少しずつ魔力の官能訓練から始めた。
外世界で日中を過ごし小世界で夜を過ごすようになると睡眠や食事をわずかではあるが必要とするようになったが、どちらも予定に修正を加えるほどの変化ではない。むしろどちらも丁度良い気分転換だ。
ふらふらとした歩みで風呂場まで移動し、一応羽織っていた寝巻きを放って水を出す。家を再構成して様変わりした生活だが、気軽に水浴びができるようになったのは大きい。小世界ならば川で無防備を晒しても問題はないと理解していても、身構えてしまうのだ。染み付いた習慣というものはいかんともしがたい。
適度にぬるい水で頭の鈍痛の一部を流し落とすと鎮痛剤と即効性の強壮魔法剤を呷り、倒れるように椅子に座って食卓に突っ伏せば肩が軽くなる。この大きな胸、普段は自分の武器の一つだと思っているが、気分が悪くなるとさらに悪い方へ気分を追いやる原因になるから困りものだ。そういうときだけ外せないかと本気で考えた事は一度や二度じゃない。
頭の悪いことを考えていると唐突に目の前の靄が晴れた。バスローブの前を開いて確認し、急いで鏡まで走って覗き込めば完全に女になっていた。これは、クレアの体か。愕然として思考が漂白される。
想定外の状況に陥り頭が空になると、ふと意識の隅に引っかかるものがある。魂覚か。つまり魔力の何かが気にかかっている。
集中し違和感の元を探れば、この拠点の中が女の魔力で満ちている。つい昨日まで俺は男だったのだから、男の魔力が満ちているはずだ。この、空間を埋める魔力の出所はどこだ。わずかな魔力の流れを追うと、いつも俺が身に着けている外套から女の魔力が滲んでいる。それですべてを理解した。
俺が普段使っていたダグレイの体は男だったが、俺のうちにはセレナとクレアという女の部分もあるのだ。少女たちとの接触が増える毎にその女の部分が刺激され、表に出るほど支配的になった。寝起きから気分が悪かったのも、バランスが逆転した事による一時的な不調だ。現状を理解し、受け止めた事でその不調も改善されている。
そう。俺は体が女になったことをすでに受け入れている。もとから内側に女の部分を抱えていたからとは思うが、自身のメンタリティの把握よりも優先されるのは、どうするのかだ。じっくりと考えたいのだが時間がない。そろそろ外世界へ出て今日の食料を仕入れなければならない。
魔法が使える事を確かめ、とりあえず認識阻害と変装の魔法でごまかす。その場しのぎだが、少女たちの指導役となってからは生活リズムを一定に保つようにしてきた。唐突にリズムを変えれば少女たちに要らぬ疑念を与えかねない。悩むのは夜になってからだ。
買出しは何事もなく済み、少女たちと合流。最近ではここでも気を抜いて過ごせるくらいには彼女たちとの良い関係を築けているし、拠点も防備も万全だ。そのせいで集中が途切れ、魔法の制御を手放してしまった。変装の魔法が途切れれば、いくら顔と体型を隠す外套を纏っていても体つきの変化はすぐにわかる。少女たちは境遇ゆえに気配に敏感だから余計にそうだ。
潔く腹をくくり、その場で口からでまかせを並べる。最終的に女の一人旅を心配した両親が贈ってくれた変装の魔具が壊れたとか、ずっと身に着けていたために壊れるまで忘れていたとかそんな話になった。少女たちがそれで納得したせいで俺には詐欺師の才能があるのかと一瞬思ったが、目を見てすぐに思い直した。少女らの目の中には強い信頼の輝きがある。ああ。なるほど。俺が女だからか。今まで頼りにしつつも性別が理由で心理的に距離をとらざるをえなかったのが、その障害がなくなったのだ。これからは思う存分甘えられる。そんなところだろうか。
これは俺のほうでも有効利用できる変化だ。うまくすればこのまま小世界に招きいれ、外へでてくるのは食料の調達時だけにできる。
変装の魔具が壊れた事を口実に、俺は少女たちに提案した。俺の魔法を使って安全な場所へ引っ越そうと。
少女たちも突然の提案に戸惑っていたが、なんとか説得する事ができた。ここへ戻りたくなったらすぐに帰れるようにすると言ってしまったのは痛いが、なるべく早く契約の魔法を習得すればきっと問題ない。
引越しはすぐに終わった。拠点といっても荷物はほとんどないのだ。私物を持てるほどの生活でもない。
少女たちには長屋を宛がい、用意しておいた毛布などを配った。一人になるのが不安な子たちにはひとまず数人で一部屋を使わせ、一人部屋に移りたくなったらちゃんと主張するよう言い含めた。
必要な物は揃えてあるつもりだから当面は新居になれることを優先してもらって、足りないものがあったら都度手に入れればいい。
俺が使っている家には絶対に入ってはいけないと言い聞かせてある。魔術師だったセレナと、魔具士だったルーファスの家が混ざっているため、下手に触ると危険な物が犇めき合っているのだ。生活スペースからは撤去しているとはいえ、俺のためにも彼女たちのためにも作業場に迷い込む可能性は極力排除したい。セレナとルーファスの知識をある程度持っている俺だって、小世界に守られていなかったらどうなっていたか分からないのだ。
明日からの予定は大凡決まっている。少女たちにはいつもどおりの訓練で日常を維持してもらう。俺は狩人として滞在した事のある町のそばに設置してあるマーキングを使ってあちこちの町で食料を仕入れて貯蓄する。貯蔵庫はあるからもっと早く貯蓄を始めてよかったのだが、機会がなくて手をつけられなかったのだ。そのせいで慌てる羽目になっている。食料の不安が解消できたら次は開拓の準備を整えて、少女たちの意見を聞きながら拠点の居心地を良くしよう。
少女たちの体つきもかなり良くなってきており、あとは折を見て食料の自給について話を切り出そう。とはいえ、地竜の件での収入はまだ大半が残っている。せっかく良い関係を築けているのに、焦って下手を打ってすべてをなくしてしまえば目も当てられない。ディラクスとして目覚めてから予定を立てるごとに予期せぬ事態で建て直しを迫られてばかりだが、俺は生きていて、決定的な失敗には至っていない。多分。これまでの自分を信じて多少の失敗は受け入れるつもりでゆっくりやっていこう。大きく構えていれば小さな問題は軽くやり過ごせるだろう。
クレアの体に切り替わって以来、俺の立てた予定は順調に消化されている。
一度目の買出しから戻って著倉庫を開いたら中には食料がいっぱいで貯蓄はすぐに終わった。貯蔵庫の再構成をした際に中身も一緒に再構成されていたのだと思われる。一度も中を見ていなかったので気づかなかったのは仕方がないことだ。
開拓の準備を始めようと農業に関する書物を読み、試しに実験がてら家庭菜園を作った。少女たちには何も言っていなかったのだが、自主的に手伝ってくれてなし崩し的にどんどん畑を広げた。急いで作業場と繋がっている倉庫で植物用の栄養剤を掘り出したり、一緒にしまわれていた品種改良された植物を別枠で育て始めたりなど少し大変ではあったが、生育は安定している。
拠点の居心地も、少女たちの意見を聞きながら少しずつ改善している。短剣や弓の訓練、魔法の修練は全員でこなし、畑の世話や食事の用意は持ち回り行うことで自由時間を設けられるようになった。その自由時間でそれぞれが作った手芸品により長屋の個室も華やかになってきている。
小世界の住人も順調に増えている。俺が小世界に迎え入れた少女らが、一度は別れた娘たちを再び集めているのだ。俺という得体の知れない男と近づきすぎる事を忌避して一度は距離を置いたものの俺が女になったことで事情が変わり、少女たちが以前の仲間も一緒に保護して欲しいと控えめながら頼んできたのだ。貯蔵庫の中身が再構成されていたことで食料に余裕はあるためすぐに了承した。労働力云々というよりも、この子らに情がわいているから断れるはずもなかった。
順調である。予定とは違った経過であっても結果は予定していた通りである以上、順調である。
好調な今、この小世界の利便性を高めるために一つの挑戦をする。
俺はもともとダグレイの体を使っていたが、周囲の影響を受けてクレアの体を使うようになった。これはつまり、俺を構成する若枝敦、ダグレイ、イアン、ルーファス、クレア・シーウェル、セレナの六人の体を切り替えられる可能性を示すものではないだろうか。もし実際に体を切り替えられるなら、一度ルーファスの体に切り替えたい。ルーファスの使っていた家を再構成したものの、ほぼすべての器材や一部の資材が収められた倉庫には特殊な保安装置により使用制限がかかっているのだ。この装置の解除及び権限の書き換えには、ルーファスの体に埋め込まれている知識珠という魔具士の最高機密たる魔具が必要となる。ついでにこの知識珠を複製して装飾具に加工するつもりでもいる。保護した少女たちのことを考えれば女でいるほうが良く、クレアのままでも器材を使うために知識珠は身につけなければならない。
体の切り替えにはおそらくかなりの負荷がかかり、小世界の内包する物体を再構成するくらいの苦痛を伴うと予想している。少女たちには魔法の儀式のために数日間家に篭ると伝えてある。
ベッドで横になり、気を落ち着ける。あとは自分の内側のルーファスを自分の中心に持ってきて比重を高めるだけだ。
結局、数日では済まなかった。
クレアの体からルーファスの体に切り替えるだけで十日。そのうち七日をのた打ち回りながら苦しんだ。
新しく知識珠を作ってルーファスの体内にある知識珠を複製し、各種器材などにかかった保安装置の管理権限を書き換えてといった作業に一月。
最後にルーファスの体からクレアの体に切り替えるのにかかったのが五日。苦しみは少なく、数日間を眠るだけで済んだのは涙が出るほどうれしかった。寝起きにはまた鈍い頭痛に苛まれたがそれもたった数時間でしかなかった。
少女らには最初の数日が経った時点で魔法の儀式が長期のものになると伝え、その後は数日ごとに手紙でやりとりをした。正直、彼女たちの気遣いが籠められた手紙がなければ途中で心は折れていたと言い切れる。自分でもそれほど励まされるとは思いもしなかった。少女たちにはこの地で過ごしやすくするための魔法儀式だと伝えてあったので、俺を支えてくれた彼女たちには明日から施設の改良で御礼をしたい。
知識珠には、ルーファスと同門の過去の魔具士たちが収集し磨き上げたありとあらゆる知識が収められている。この知識があれば、魔具の専門的な手入れや改良にも着手できるのだ。 姉妹のようにも娘のようにも思える少女たちのために、農具や医薬品に美容品などキリキリと手を入れるつもりである。
達成感に包まれ足取りも軽く家をでてみれば、丁度昼時だったのか少女たちが長屋へ向かって歩いている近寄りながら魔法儀式は無事終わったと伝えると、久しぶりに一緒にご飯を食べたいと誘われた。
長屋の傍の食堂へ入り、集まっていた娘たちに声をかけて手近な空席に腰をおろす。わらわらと年少の子達が寄ってきておかえりとうれしそうな笑みで言ってくれる。距離としてはすぐそこに居たけど、一月半近くも顔を合わせなかったから出張に行っていたようなものだ。返す言葉はただいまが良い。
この子らを拾った時には小世界の中で食料を作ったり小世界の居住性を改善する作業を任せ、俺自身は外世界を旅しながら今の自分というものを掴もうと思っていた。しかし久しぶりに顔を合わせ少女たちに囲まれていると、このまま彼女たちとのんびりと過ごしていくのも悪くないと思える。この子らと似たような境遇の娘たちを小世界で保護して育てるのも良い。
気づけば当面生きていくにはなんの問題もない環境が整っているし、ディラクスとして自分を認識した日からずっと張り詰めていたから心が疲れている。何かきっかけがあるまでは穏やかに過ごそう。さしあたっては、今では四十人近く居る少女たちの名前を覚えなければならない。いつも俺から食べ物を受け取っていたこの名前すら覚えてないと気づいたのがついさっきなのだ。ついでに言えば名乗ってすら居ない。今夜の夕食の時にでも改めて自己紹介しようか。恥ずかしいなんてもんじゃないな。なんて難題だ。