「ミュルクヴィズの館」
男は暗闇の中で目を覚ました。彼の耳に聞こえるのは、時計の針が動く規則的な音だけだ。目を動かしてみると、天井に揺らぐ弱々しい光を捉えることができる。
男は身を起こした。彼が眠っていたのは、薄く埃の積もった絨毯が敷かれた廊下のようだ。彼は絨毯に手をつきながら立ち上がった。
廊下の燭台には何十本もの蝋燭が灯り、揺らめいた炎が天井や壁に映っている。光と影が不思議な形を作っており、妙に気味が悪い。廊下の先は長い。男は振り返った。前も後ろも、突き当たりが見えない。蝋燭の並んだ壁をながめても、扉の一つも見当たらない。
不意に、静寂を切り裂いて狼が吠えた。男は驚いて肩を揺らし、辺りを見回す。その時彼は、窓がないことに気付いた。どこから聞こえるのか。また狼が吠える。男はやけにざわつく胸を押さえた。なぜだか体中の毛が逆立つような気持ちになる。男の内側から、何かが彼の体を破って現れてくるような錯覚に陥る。
顔を上げると、目の前の壁に扉があった。男は突然現れた扉に驚いたが、狼の遠吠えから逃れようと真鍮のノブに手をかけた。その先にあるのは洗面所だった。鏡の横には、やはり細い蝋燭に火が灯っている。
大きなひびの入っている鏡がある。男は鏡に近付こうとして、液体を踏んだことに気付く。靴底が立てる水音に目を落とすが、蝋燭の灯りは足元まで届かない。天井から、一滴の雫が男の頬に落ちてきた。彼は何気なく濡れた頬を手で拭い、その手を見て驚愕した。赤い。ただの水ではない。そのことに気が付いた時、むせ返るような血の匂いが洗面所に立ち込めた。思わずその場から飛びのいた彼は、妙に喉が渇きを訴えていることに気付く。底知れぬ恐怖に駆られて廊下へ飛び出そうとした男が視界の端で捉えた鏡には、大きく開け放たれた扉が映っていた。しかし、彼の姿は映っていなかった。
廊下にしゃがみこんだ男の後ろで閉まる扉の音が、やけに大きく響く。狼の遠吠えはもう聞こえない。喉の渇きも収まっている。男の体は震え、指先は真っ白くなっている。その時、窓もないのに、風が吹き抜けて蝋燭の火をかき消した。辺りが闇に呑まれる。生き物の気配はない。
鐘が鳴った。時計の針は十二の上で重なっている。十二回目の鐘が鳴り終わると、余韻の中で蝋燭に一斉に火が灯った。弱々しい炎が揺らめいている。廊下に一人の男が眠っている。すぐそばの壁には一枚の絵が掛かっていた。一人の男が薄暗い廊下を歩いている様が描かれている。絵画の中の男は死人のように真っ白い顔をしていた。絵に描かれている窓の外には狼の影があり、廊下の闇には蝙蝠の影がある。蝋燭に照らされた額に書かれているタイトルは「ミュルクヴィズの館」。
……男が、目を覚ました。
ゼミの課題で書いた「てのひら怪談」を手直ししました。
「てのひら怪談」は本来800字です。