第29話 愛をさえずる、つがいの文鳥 2
「ちょっとブカブカだけど、なかなか似合ってるよ、神沢君」
鳴桜高校の制服から漆黒のスーツに着替えた俺を、高瀬が小さく手を叩いて迎えてくれた。なんだか今の彼女は、七五三の記念撮影で息子の紋付き袴姿に目を細める母親みたいだ。
昨日に引き続き今日の放課後も、俺と高瀬はバスで街へと来ていた。
理由は他でもない。タカセヤ西町店に改革という名の――俺たちの未来のための――メスを入れるためだ。
その準備として、店舗近くにあったホームセンターの試着室を借り、着替えを行っていた。
タカセヤとトカイの早期合併を阻止すべく、高瀬が夜を徹して立てた作戦の主役は俺だった。
彼女はバスの中で言った。「よくよく考えれば、神沢君ほど今回の作戦に適している人もいないんだよね」
俺が首をひねって彼女に説明を求めると「私『ついてるな』って思ったもの」と返ってきた。「だってね、高校生の男の子で、神沢君ほどスーパーマーケットのことを肌で知っている人もそうそういないでしょ。これまでの経験で得たノウハウを、思う存分発揮してください」
両親が家から消えて以来、できるだけ自炊を心掛けてきた俺は、年に200日はスーパーに通って買い物をしていた。言われてみればたしかに、一般高校生らしからぬ経験値がこの心身には蓄積しているかもしれなかった。
慣れないスーツに戸惑いながら俺は言った。
「で、俺が扮することになる役職は何だっけ? たしか横文字だったよな」
「スーパーバイザー」高瀬は指を立てた。「スーパーマーケット経営の達人として、神沢君には今日から、その辣腕をふるってもらいます」
「達人!?」俺はつい吹き出してしまった。「いくらなんでも買いかぶりすぎだって。普段からスーパーをよく利用しているとはいえ、ただの一般客に過ぎないんだから」
「大丈夫よ。そういう一般のお客さんの声が、実は核心を突いていたりするんだから。はい、自分に言い聞かせて。『俺はスーパーの達人だ』って」
言い聞かせるよりも先に、鏡が目に入り他の不安が思い当たった。
「外見だって、どう見たって十代の少年だし。いつまでごまかしが利くかな」
「それもなんとかなるって。「このスーツ、お父さんに『一番偉そうなやつ貸して』って言って借りてきたんだけど、この時点で3歳は年上に見えるもん」
「それじゃまだ19歳じゃないか」
「じゃ、こうしよう」
高瀬はバッグの中から何かを取り出した。整髪料だ。彼女は要領よくジェル状のそれを手の平に広げ、俺の髪を後方へ流し始めた。
「ほら、これでまた3歳上がった」
鏡を見れば、任侠映画に出てくるような男と目が合った。大卒でインテリ風を吹かし、周囲との軋轢に苦悩する若頭だ。
「なんか、俺、怖くない?」
「むしろ怖い方が良いって」と高瀬は言った。「お父さんが言うには、西町店の店長さんって弱そうな人には居丈高な態度をとる割には、強そうな人には媚びへつらうタイプの人なんだって。ただでさえ神沢君は目つきが冷たいから、この風貌だと、きっと言うことを聞いてくれるよ」
目つきが冷たいから。好きな娘にそう言われて、あまり良い心地はしない。
ややあって、高瀬が右手を伸ばしてきた。俺の喉元に手は向かう。どうやらネクタイのずれを直してくれるようだ。
「うん。これで完璧。そろそろ行こうか」
歩きながら「俺はスーパーの達人だ」と数度口に出し、自分に浸透させる。
「その調子」と高瀬は言った。「タカセヤの命運は、神沢君の腕に懸かっているからね」
“私の未来”ではなく、“タカセヤの命運”と言うあたりが、なんとも彼女らしい。
もし今回の作戦を成功で終えることができたなら、親に捨てられるのも悪いことばかりではないと思えるかもな。そんなことを俺は考えていた。
いや、どうだろう。それはいくらなんでも、楽天的過ぎるかもしれない。
♯ ♯ ♯
「そ、それで、お嬢様直々に、このたびはいかなるご用でしょうか」
社長令嬢という肩書きの威光たるや、タカセヤという組織にあっては江戸時代の葵の紋所に匹敵するものであるということを、俺は今身をもって学んでいる。
さすがに変わり身の早い悪代官よろしく地に額を擦りつけるようなことはなかったが、それでも西町店店長は直立不動の姿勢で、娘ほどの歳の少女と対面していた。場所は売り場奥の、殺風景な店長室だ。
「さっそくですが」お嬢様は堂々と言う。「この店の売上を20%向上させるために、私たちはやってきました」
店長は後退し始めている髪の生え際をぽりぽり掻いて「20%ですか」と応じた。言外に、何を馬鹿なことを、と現場を知らない資本家側に対する愚痴が見え隠れする。
高瀬もきっとそれを察知していたが、表情を変えずに「そうです」とこともなげに言った。「そのためにこの方を連れてきたんです。あ、言っておきますが、私は本気ですよ」
店長はやや動揺しながら、俺の全身を確認する。果たして上手に出るべきか下手に出るべきか、迷っているようにも見える。
ここでもし彼に舐められてしまってはうまくいくものもいかなくなるので、俺は良心を押し殺して中年男を睨みつけ、すごみを利かせることにした。
店長はしばらく言葉を探した後で「ずいぶんお若いんですね」と高瀬の出方を窺うように言った。身の丈に合わない高級スーツを着た若者の素性を不審がるのは、当然だった。
「若いのに、すごい方なんですよ」高瀬は語尾を伸ばす。「こう見えてもこれまでに再建させてきたスーパーは数知れず。その手腕に惚れ込んだ日本中のスーパーから引く手あまたで、本来なら3年先までスケジュールがびっしり埋まっているところを、無理を言ってこうして特別に来ていただいたんです!」
そろそろ俺も第一声を発すべきだった。
「スーパーマーケットをはじめとする、小売店業界のスーパーバイザーをさせていただいております、神沢と申します。よろしくお願いいたします」
言い終えて、あれ? と俺は思った。こういう状況で名刺が無いのは不自然じゃないか? と。
案の定店長が訝しそうな目つきでこちらを見たその時、誰かのスマホが鳴った。店長のだった。端末を手にした彼はあからさまに動揺すると、おそるおそる電話に出た。
「しゃ、社長!」
「お父さんだ」
高瀬がささやく。その顔には、補給部隊の到着を知り、勝利を確信したかのような安堵の笑みが浮かぶ。
「突然だが、西町店の売上不振がタカセヤ全体の足を引っ張っているという自覚は、君にあるか?」
耳を澄まさずとも聞こえる、大きく、高圧的な社長の声だ。
「はっ、不徳の致すところでございます!」
店長のこめかみには、冬なのに汗が浮かぶ。
「今そっちに、青年を連れた私の娘が行っているはずだ」
「お、仰るとおりであります!」
「いいか、これが最後のチャンスだ。例月比売上20%上昇が見られなければ、こちらとしても君の処遇も考えなければいかん。その青年の言うことをよく聞いて、店舗改革に着手せよ」
「はっ。かしこまりました!」店長はスマホをしまうと、低姿勢でこちらに近づいてきた。「神沢さん、でしたか。寒い中よくいらっしゃいました。さ、まずはお茶でもいかがですか?」
ゴマをすられることに慣れていない俺は「けっこうです」と照れつつ返した。「それより今は一分一秒でも時間が惜しい。こうしてはいられません。さっそく売り場を見て回りましょう」
♯ ♯ ♯
入り口そばの青果売り場から順に、チェックしていくことになった。
夕方時のスーパーが最も繁盛する時間帯であるにも関わらず、お世辞にも客の出足は良いとは言えない。従業員の動きひとつ取ってみても精彩がないし、掃除も隅まで行き届いていない。正さなければいけない点は、いくつもありそうだ。
「神沢さん、どうぞ遠慮せずに、問題点をご指摘ください!」
社長殿の鶴の一声が効いたのか、はたまた自身の立場の危うさに危機感を募らせたのか、店長はすっかり腰が低くなってしまった。
経緯はどうあれ、これで俺が動きやすくなったのは事実だ。
「わかりました。それでは見ていきましょう」
青果売り場全体を視界に収めるため、少し離れたところに移動する。高瀬もついてくる。高校のブレザーでは場にそぐわないので、彼女は女性従業員用の制服に衣替えしていた。深紅のエプロンが色白の肌によく映える。
「気になるところ、ある?」
高瀬が小声で尋ねてきた。
「明らかにダメな青果売り場の典型なんだけど、具体的にどこがダメかとなると……」
慣れないスーツと髪型による緊張もあり、頭がうまく働かなかった。けれど、ふいに、夏に高瀬たちと見た夜空を照らす色とりどりの花火を思い出した。
「ああ」閃きが宿る。「欠けているのは色彩だ」
「色彩?」
俺はうなずいて店長に尋ねた。
「どうして最前列にカボチャを陳列しているんですか?」
「今日のセール品でして。カボチャは冬の味覚でもありますし」
彼の自慢気な視線の先には、捕虜収容所の点呼みたいに一糸乱れぬ整列を見せる、暗い緑色をした大量のカボチャがある。
「カボチャを悪く言うつもりは毛頭ありませんが、スーパーマーケットの最前列にふさわしい商品とはとても思えません。青果売り場はお客様を迎える、いわば『店の顔』です。もっと明るく、そしてカラフルにしましょう」
「しましょう!」と高瀬が便乗してくる。
「しかし、いったいどうすれば」
「グラデーションを使うんです」
店長にそう返しながら歩みを進め、目に入ったみかんやリンゴを手に取った。
「たとえば、黄色のみかん、橙のオレンジ、赤のリンゴ。これらを順番に並べて徐々に色の変化をつけていくんですよ。空架ける虹みたいに。見た目にはとても鮮やかになるはずです。リンゴの次は、そうですね、デラウェアでも置いて紫にしましょうか。こうするだけで来店してくださったお客様の第一印象はだいぶ良くなるはずです」
試しに今挙げた四つの果物をカボチャを退かして並べてみると、店長とご令嬢の顔色が一変した。「おおっ」と二人の声が重なる。
すぐさま店長は、近くにいた若い男の従業員に指示を発した。
「色彩だ! 今からでも遅くない。前面に果物を陳列し直してくれ! “グラデュエーション”を意識してな!」
“卒業”を意識されても困るのだが、若い従業員は店長の言わんとすることを理解したらしく、きびきび仕事を開始した。
広い売り場にはたまねぎやにんじんといったお馴染みの面々に加え、北方のこの街ではなかなかお目にかかれない野菜も見ることができる。
「へぇ。ゴーヤなんかも置いているんですね」
「ええ。品揃えの豊富さでは地域一番と、自負しております」
店長は大振りのズッキーニを持って相好を崩す。
「店長、そうは言っても、こういう野菜はそれほど売れないんじゃないですか?」
「それが正直なところですね」
見れば、いずれの野菜も、機械的な字によってその名称と値段が紹介されているだけだ。
〈ズッキーニ 145円(税込み)〉。これでは売れないと思った。
「こういった野菜は、興味は持たれても、食べ方や調理法がわからなくてお客様に敬遠されることが多いです」
実際はどうかわからないが、言った。少なくとも俺はそうだった。
「ですから、美味しく食べられる調理法なんかを張り出しておけば、ちょっとは変わるかもしれません」
「ポップ広告ですか」
「料理本の一ページを丸々コピーなんていうのはダメですよ。親近感を出すために、手書きです。従業員の中でそういうのが得意そうな人はいませんか?」
店長は薄い頭を掻きながら考え、首を振った。
「ちょっと思いつきませんなぁ……」
そこで小さく挙手したのは高瀬だ。
「私、やろうか?」彼女ははっとして言い直す。「私がやりましょうか、神沢さん」
俺は笑うのを堪えつつ、「優里さん、お願いできますか」と返した。
考えてみれば、彼女ほどこういう仕事に向いている人物もいない。オールマイティな才能を持つご令嬢は、きっと期待以上のものを仕上げてくれるはずだ。
「ネットで調べた調理法でもいいんですよね?」
「かまいません」よそよそしいのはやむを得ない。「肝心なのは、お客様がこの場で食卓に乗る一皿をイメージできるかどうかです。紹介した調理法で他の食材が必要になるようなら、その食材もここに置くことにしましょう。ついでに売れるはずです」
高瀬は白い歯を見せ、野菜コーナー全体を見渡す。早くも構想を練っているらしい。その賢い頭で。
♯ ♯ ♯
新幹線のダイヤよりも時間に律儀なタイムサービスをチラシの予告より10分ほど幅を持たせるよう提案したり、客が途絶えたら条件反射のようにおしゃべりを始めるレジ打ちのパートさんに店長から注意を与えてもらったりしていると、ふいに高瀬が耳打ちしてきた。我慢できなくなった様子だった。
「ねぇ神沢君。ここまでは大忙しだけど、このお店……そんなにダメ?」
彼女は俺が挙げてきた改善すべき点をひとつ残らずメモ帳に記録していた。見ればすでに30項目はある。
「あまり大きな声では言えないけど、でも敢えてはっきり言わせてもらうけど、全然ダメだ。正直ここまでとは思わなかった。だいたい俺が提案した改善点って、そこまで特別なことじゃないぞ。他の店ならとっくにクリアしていることばかりだ」
タカセヤの娘としての誇りは隠せない。眉間が狭まる。
それでも俺は厳しい指摘を続けた。気休めを言っている場合でもない。
「今になれば、トカイの良さがとても際立ってくる。あそこはどの店舗に行っても、手抜かりが無いからな。……悔しいけど、業績が右肩上がりなのも納得だ」
「でもさ、前向きに考えれば、ダメなところが多いってことはそれだけ改善の余地もあるってことでもあるよね?」
「まぁ、そういうことになりますね」
スーパーバイザーの口調で答えた。
「じゃ、そんなに悲観することもないのかな。目指せ、売上20%アップ!」
かといって楽観はもっとできないぞ、と俺は気を引き締める。




