第27話 野良犬には野良犬の矜持がある 2
高瀬父の視線が鋭さを帯びたのは、「君も付き合いなさい」と猪口をもう一杯用意され、俺が愛想笑いを浮かべた直後だった。
「君、今の顔――しばらくそうしていろ」
「はい?」指示の意図するところがわからず、きょとんとする。
「こら、動かすな」
「す、すみません」
「もう一度さっきのニヒルな愛想笑いをしろ。もっと目元を緩めて、頬は少しだけ膨らませる!」
わけはわからないが俺は言われた通りにした。「こうですか?」
彼の動きがぴたりと止まった。呼吸することすら忘れているかもしれない。数秒後、呪いが解かれたようにゆっくりと口が動いた。
「君のプライバシーに立ち入った質問をすることを、どうか許して欲しい」
「なんでしょう?」
「君の母親の名は、ひょっとすると『ゆきこさん』というのではないか?」
動きが止まったのは、今度は俺の方だった。
――なぜ高瀬の父親が、俺の母親の名を知っているのだ?
「はい」と俺は認めた。
「旧姓は戸川じゃないか? 戸川有希子」
鳥肌が立っていた。「そうです」
「なんてことだ」彼は指先を眉間に押し当て、指と指の間から俺の顔をまじまじと見た。そしてこう言った。「ということはつまり、君のお父さんは、あまり大きな声では言えないが、その……」
「父のことまでご存じなんですか!?」目を瞠らずにはいられなかった。
「知っている。神沢亨だ。罪を犯し、今は塀の中で罰を受けている」
一切の遠慮がないその物言いは、むしろ気が楽だ。
「おい真鍋!」と彼はマスターの名を大声で呼ぶ。「お前が雇っているこの若者は、有希子の息子だぞ!」
「なんだって!?」
腹についた脂肪をゆさゆさ揺らしながら、マスターが厨房から駆けつけてきた。
「有希子って、あの戸川さんか!?」
「そうだ。まったく、お前の目は本当に節穴だな。なぜこれまで気付かなかった。よく見ればそっくりじゃないか。目元なんか特に有希子そのものだ」
マスターは、菜箸を手にしたまま口をあんぐり開けて立ち尽くしている。「そうだったのかい」と言葉を捻り出すのがやっとだ。
「あの、もしかしてお二人は、母の同級生ですか?」
可能性は、それくらいしか考えられなかった。
高瀬父はうなずく。
「俺たちは高校三年間、ずっと同じクラスだった」
「こんな風貌でもな、一応鳴桜高校出身なんだぞ」
マスターは嬉しそうに笑ったが、すぐに「いっけね」と額を叩き、厨房へ戻っていった。どうやら鍋を火にかけっぱなしだったらしい。
「どうだ、有希子は元気にしているか?」
高瀬父は、母が家を出たことまでは知らないようだ。
「実は――」俺がその旨を話すと、彼は「なるほど」と言って眉間を掻いた。
「遊ぶ金が欲しくて働いているわけではないみたいだな」
「あの、今僕は、母についての情報を集めているんです。恥ずかしながら、あの人のことはほとんど何も知らなくて。もしよろしければ、母の昔の話を聞かせていただけませんか?」
高瀬父は、昔の記憶を思い返すように染みが広がる天井を見上げた。
「いいだろう。今夜は、特別な酒になりそうだ」
♯ ♯ ♯
「どこまで知っている?」と尋ねられたので、俺は頭を整理して、母が高校時代に柏木恭一という男と恋仲にあったこと、卒業と同時に二人は別れたことを順に挙げた。
とりあえず高瀬の実の父が俺の母にぞっこんだったという事実を耳にして、俺は、運命という言葉を改めて強く認識している。
「決して叶わぬ片想いだったけどな」と彼は照れて言った。「知っての通り、有希子は恭一にべた惚れだった。落ちこぼれの恭一とは違い、私は常に成績上位で、そのうえ野球部のエースピッチャーだったが、そういったことは彼女にとって男を審査する上では取るに足らない要素だったらしい。耳垢はドライかウェットか、みたいなもんじゃないか」
そうは言っても、この人だって若い時は相当女の子に人気があったんだろうな、と野心的な顔つきを見て推し量った。
「私も血気盛んな頃でね。何度も有希子に『恭一と別れろ』と迫っては、素っ気なく跳ね返されたものさ。そのたび、あのげんこつ頭と高校近くのカレー屋で反省会だ。今思えば、配球を組み立てるよりも、有希子を口説き落とす文句を考える方に情熱を注いでいたな」
ふと、彼は柏木恭一とはどういう仲だったのか疑問に思い、それを口にしてみた。
「腐れ縁だ」と彼は答えた。「でかい図体して、おまけに性格も粗野なくせに、心臓が弱かったんだあいつは。登下校するためには必ず誰かの付き添いを必要としていて、中学時代は私がその役割を担っていたんだよ」
「それが高校に入って、僕の母の役割になったんですね?」
「面白くないがな、そういうことだ」彼は顔をしかめて、酒を口に運ぶ。「結局私は、高校三年間を通して、有希子にとって『友達』以上の男になることはできなかった。恭一の存在はあまりにも大きかったのだ。彼女を巡る私と恭一の争いに関しては、いかにも小便臭い馬鹿げたエピソードも数え切れないほどあるが、その全てを話していたらきりがない。省かせてもらう」
もちろん興味はそそられたが、やむなくうなずいた。それを聞くのが目的ではない。
「君、名前は?」と尋ねられたので、俺は自己紹介した。
「そうか、悠介か」彼は一旦大きく息を吐き出すと、さっそく俺の名を呼んだ。「悠介。ここから先の話は、いささか不快な思いをすることになるかもしれない。それでもかまわないか?」
「かまいません」と俺は答えた。「親のことで不快な思いをするのは慣れています」
同情するように眉をへの字に曲げてから、彼は語り始めた。
「悠介。君の母さんは、本当に素敵な人だった。『絶世の美女』と言うと、これはさすがに誇張になるかもしれないが、それでも、この街では三本の指に入るほどの別嬪ではあった。本当だぞ。いい女に目が無かった私が言うんだ。間違いない」
もちろん悪い気はしないけど、脇の下に汗が滲み出るのは感じる。
「有希子の神秘的で浮き世離れした美しさは、男の理性に狂いを生じさせるような性質のものだった。言葉はやや乱暴だが、『何が何でもモノにしたい』と思わせる魔力が彼女には備わっていた。かくいう私もその虜になって青春時代を棒に振った一人であるわけだが、今はそれはいい。話を戻せば、その魔力こそが、有希子が恭一でもましてや私でもなく、神沢亨と――つまりは悠介の父親と――結婚することになった元凶というわけだ」
「何があったんですか?」
数ある言葉の中から“元凶”という表現を選択するくらいだ。祝福と喝采の中の結婚、というわけではあるまい。
「高校三年に上がった春、有希子は市内の本屋でアルバイトを始めたんだ。そんな彼女に一目惚れをした客がいた。私たちより二歳年上で、働きもせず学校にも行かず、ふらふらしている若者だった。彼はかなりしつこく有希子に交際を迫った。私と同じようにきっと魔力に取り憑かれたんだろう。もちろん彼女は、そういった輩の扱いには慣れていた。男の自尊心を傷つけることだけはないよう細心の注意を払って、彼からのアプローチを断り続けた」
「その男こそが、僕の父親というわけですね?」
「そうだ。一度だけ君の父は有希子を求めて、鳴桜高校の校門にまで押し掛けてきたことがあった。その時たまたま私と恭一は彼の顔を見たのだが、軟弱な印象が強くてな。こう言っては息子の悠介には悪いが、『これは大したタマじゃないな』と二人とも高をくくっていたんだ。しかしそうは簡単にいかなかった。彼にはある秘策があったんだよ」
俺は父親の顔を思い出した。実直さや男らしさとは対極に位置する浮薄な笑顔が、印象にはある。その秘策というのだって、正々堂々とはまるで言い難い一手なのだろうな、と簡単に想像がついた。
「有希子の家はこの街で小さな葬儀屋を営んでいた。小規模の家族葬を請け負う、社員数名の零細企業だ。一方君の父親は――こればかりは奇妙な縁としか言いようがないが――札幌に本社を構える、大きな斎場をいくつも抱えた葬儀屋の三男坊だった」
「まさか」ある可能性が頭に浮かび、二の句が継げない。
「そのまさかだ」と高瀬父は言った。「どんな脅し文句を実際に投げ掛けたかは、私のあずかり知るところではない。しかし君の父親は、有希子の家の家業を潰す可能性をちらつかせることで、彼女を恭一から横取りしようと考えたのだ」
「魔力、ですか」
「魔力だ」と彼は徳利を手に取りつぶやいた。「そこまでしても彼は有希子を手に入れたかったのだ。一方、有希子は大いに揺れた。彼女は冷淡な性格ではあるが、決してひとでなしではない。家族思いの優しい心を持っていた。次第に恭一とも明確に距離を取るようになっていった」
俺は耳を塞ぎたい気持ちをこらえて話を聞き続けた。
「結局有希子は恭一と別れ、君の父親と一緒になる道を選んだ。家族と、少ないとはいえ社員を守るために。高校卒業を前にした冬、彼女のお母様――つまり、悠介の祖母にあたる方だな――が手術を要する難病に倒れたのが、決め手となった。『手術費用は任せておけ』というようなことを君の父は言ったようだ」
俺は目の前が真っ白になりそうだった。
母は、いや、母も、大切な何かを守るため自分を犠牲にする結婚を求められていたのだ。本当に望む未来と、そうではない未来の狭間で苦悩する日々を過ごしていたのだ。
これではまるで、高瀬と同じじゃないか。
「結果から先に言えば、有希子のお母様は助からなかった」と高瀬父は言った。「手術が失敗したのではない。そもそも費用が調達できなかったのだ」
「約束と違うじゃないですか」常套句しか思い浮かばない。
「そうだ。手術の段取りをつける前に、君の父は神沢家から追放されてしまったのだよ。どうやら彼は、会社の金を私的に使い込んでいたようで、それが社長でもある父親の逆鱗に触れたらしい」
「どうしようもない……」
「ただ、それをきっかけにして君の父が心を入れ替えたのも、また事実だ」
「そう、なんですか」
「ああ。彼は有希子を養うため、小さな不動産会社に勤め始めた。立場は決して安泰ではなかったはずだが、それでも身を粉にして働き、生活自体はなんとかしていけるようになった」
実際父は、放火の罪で逮捕されるまで、その不動産会社に勤務し続けていた。
俺はふと疑問に思ったことがあり、脇道に逸れますがと前置きした上で、それを口にした。
「あの、母が高校を卒業した後の事情を、どうしてこんなに詳しくご存じなんですか?」
「ああ、その説明がまだだったか。高校を出て4年ほど経ったある日、私は街でばったり有希子と再会し、近くにあった喫茶店で話を聞いたのだよ。思えば、その日に会ったのが最後だったな。あの時の彼女はえらくしおれていた」
「母は別れようとは考えなかったんでしょうか?」と俺は言った。「僕の父が家を追い出されたならば、それと同時に母が感じたような脅威も消えたはずなのでは?」
「違いない」高瀬父はうなずいた。「『あの頃に帰りたい』。そう、有希子は痛々しく笑いながら言っていた。もちろん頭には、高校時代の日々があったのだろう。君の父と別れ、新たな人生を歩む考えは、常にあったはずだ。しかしそうこうしているうちに――」
彼はそこで言葉を切って、酒を一口飲み、こめかみを掻き、それからまた酒に口をつけた。
「ここからは私の憶測になるが、有希子は、別れようにも別れられなくなったのだ。そして考えられる理由は、あらゆる事情を勘案すれば、ひとつしかない」
「その理由とはなんでしょう?」
口にした後で答えがわかって、俺は自分を殴りたくなった。ある意味俺自身がその答えだった。すぐに取り繕いたかったが、先に高瀬父に言葉を継がせてしまった。
「悠介。……それを、私に言わせるか」
「すみません。たしかに、ひとつしかないですね」
「君ももう、誰かを愛せる歳だろうに」
神沢有希子は、子を身籠もったのだ。




