第23話 これが運命の悪戯というものなのか? 1
観覧車のゴンドラに乗り込み席に座るやいなや、高瀬が「ああっ、頭に来る!」と吠えたので俺は面食らった。「なにもあんな言い方しなくたっていいじゃない! 『ねえ優里。これはあり得ないって! いったいなにをどうしたらこうなるの!?』なんてさ! それに笑いすぎだからあの娘!」
俺は向かいの席から「まぁまぁ」と彼女をなだめた。俺の位置からは、一つ前のゴンドラに乗った太陽と星菜の姿が確認できる。二人は笑みを浮かべて呑気にピースサインを寄越してくるけれど、こっちはそれどころではない。
「たしかに意地悪だよな。星菜は」
高瀬の腹の虫が治まればと期待して俺は言った。しかし共感したことで引き出せたのは彼女持ち前の落ち着きではなく「私のサンドイッチ、そこまでひどい味じゃなかったよね?」というまさかの発言だった。
「えっ!?」
「ちょっと失敗しちゃったのはまぁ認めるけど、あれはあれで、好きだって言う人もいると思うんだよな。神沢君みたいに」
ちょっとなんてもんじゃないと俺は思った。どうやら料理下手を自認するつもりはないようなので、もし彼女と将来一緒に生きていくことになったら、料理は俺が担当することにしようと心に決めた。
目の前でひとつの決定が下されたことなど知らずに高瀬は口を開いた。
「だいたい、今だから言っちゃうけど、星菜さんのサンドイッチって『麦伯爵』っていうパン屋さんのやつだよ」
「どういうこと?」
そのパン屋の名には聞き覚えがあった。母親が昔ひいきにしていたからだ。街の隅にひっそり佇む、知る人ぞ知る隠れた名店のはずだ。
「私ね、あそこのサンドイッチが好きでよく食べるから、間違えるわけがないよ。今回自分で作ることになって、具材の種類とか、パンの切り方とか、お手本にさせてもらったくらいだもの」
どうりで見た目はそっくりだったわけだ、と腑に落ちた。あくまでも、見た目だけは。
「つまり星菜は、名店で買ったサンドイッチをバスケットに詰めて、あたかも自分の手作りであるかのように振る舞っていたということ?」
高瀬は唇を尖らせてうなずいた。
「美味しいに決まってるよ。お店のだもん」
「やるなぁ、あの娘」
前方のゴンドラでこちらに背を向けて座る星菜に対し、俺は恐れるのを通り越して、感心すらしていた。
彼女のサンドイッチを「店で売ってるレベルだ」と喜んで食べていた太陽は、まんまと星菜の術中にはまっていたというわけだ。抜け目のない女だ。
「それで高瀬は星菜のサンドイッチを試食した時に、なにか言いたそうな顔をしてたのか」
「麦伯爵のだって指摘しちゃったら星菜さんに恥をかかせちゃうし、空気も悪くなるし、それに大人げないから我慢したんだ。でも今になって思えば『きゃははは』と『いったいなにをどうしたらこうなるの!?』の仕返しに言ってやればよかった。『嘘つき女!』って。ねぇ神沢君、大人の対応をした私を褒めてよ」
「高瀬さん、えらいえらい」
サンドイッチ事件を経てあらためて気づかされたのは、俺はやっぱり星菜のような悪魔じゃなく、悪魔のような高瀬が好きだということだ。
♯ ♯ ♯
徐々に地表が遠く感じられるようになってきた。
俺たちを乗せたゴンドラは順調に浮上を続けている。時折、ごっ、という鈍い音がどこからか発生して、俺を慌てさせる。
「葉山君はもう少し人を見る目があると思ってたのに」高瀬は言う。「私はやっぱり日比野さんが良いと思うな。神沢君もそう思うでしょ?」
「もちろん」と俺は賛同した。「今日、星菜本人と会ってみて、より強く感じたよ。太陽にふさわしいのは日比野さんだって」
「葉山君、星菜さんとやり直す気なのかな?」
「観覧車に乗っている間に、告白するらしい」
太陽と星菜がいるゴンドラが先に上昇していくから、目をやっても、こちらからはもう二人の頭部しか見えなくなってしまった。太陽はいつになく神妙な面持ちだ。
「果たしてどうなるだろうな」
高瀬が後ろを振り返って太陽たちのゴンドラを見る。
その際、履いていたミニスカートが大きくはだけ、俺の視線は彼女の神聖な領域へ釘付けとなった。白く、スリムな太ももだ。
膝下までを覆う大人っぽいロングブーツは、半年前までなら「背伸びしすぎ」という印象を与えただろうけど、今は彼女の魅力を高めるのに一役買っている。
高瀬がこちらへ向き直ったので、俺は不届きな視線と思考をリセットした。
彼女は首を傾げて、うーん、と唸った。そして話し始めた。
「さっき、サンドイッチを食べ終わった後に休憩時間があったでしょ?」
俺と太陽がトイレで立ち話をしていた頃だ。うなずいて、続きを促す。
「その時ね、星菜さん、誰かとスマホで話していて。相手はきっと男の人だよ。声の調子でわかった。私も女だから」
「男の人?」
「そう。しかも、けっこう、星菜さんにとっては大事っぽい男の人。私がお手洗いから戻ったのを気付かないで、あの娘、楽しそうに話し込んでいたんだよね」
地上にいる人たちがゴマ粒大に見えるようになったから、いよいよ高所恐怖症が頭をもたげてきた。それでもなんとか情報を整理する。
「どうやら太陽はまた、手玉に取られているということになるな」
さほど驚くことではない。夏の後に秋が訪れ、税金は上がり続け、太陽は星菜に弄ばれる。自然の成り行きだ。
「葉山君、気付けばいいんだけど」
無理だろうな、と俺は浮かれる友を思い出してつぶやいた。
♯ ♯ ♯
異常が発生したのは、俺たちのゴンドラが最高地点に差し掛かった時だった。
それまでも例の「ごっ」という鉄塊同士を打ち合わせたような不吉極まりない音を聞くたび身の毛がよだっていたのだが、今回はそのはるか上を行く恐怖に見舞われることとなった。
観覧車の動きが、突然停止したのだ。
そしてゴンドラの外部に点いていた照明もはたと消えた。
そのようにして、俺と高瀬は地上40メートルの夜空に取り残されてしまった。それはもちろん太陽と星菜も同じで、見れば彼らは狭いゴンドラの中でせわしなく動き回っている。
ほどなくして大型スピーカーからチャイムが流れ、続いて園内放送が始まった。
「ご来園中のお客様にお知らせいたします。ただいま、園の電力システムに異変が確認されたため、一時的に観覧車を止めさせて頂いております。ご利用中のお客様には、大変ご迷惑をおかけしますが、復旧までしばしお待ちください。繰り返します――」
「困ったね」と高瀬は苦笑いして言った。「観覧車の中に閉じ込められるなんて、なんか映画かドラマのワンシーンみたい」
「そう、だな」とぎこちなく返すのがやっとだった。俺の胸には、中学時代に屋上の縁に立った際の心境がよみがえっていた。呼吸が乱れ、足が震える。
「神沢君?」高瀬が心配そうに顔を覗き込んでくる。「どうしたの? なんか変だよ?」
「ああ、ごめん。実は俺、けっこう深刻な高所恐怖症で」
「どうして観覧車に乗る前に言わなかったの」
「まさかてっぺんで止まるなんて思わないから」
「もしかして、昔のこと、思い出しちゃうの?」
情けないけど、恥ずかしいけど、俺は正直にうなずいた。
高瀬は黙ってなにやら考え込んだ。大一番で手元のカードからどれを切るべきか決めかねているように、二つの目は右へ左へ動く。
月光だけが頼りの中でもようやく目が慣れてきて、俺は彼女の頬がやや赤みを帯びていることに気づいた。いったい何を言い出すつもりだろう? と身構えたが、高瀬がまず選んだのは、きれいな手をこちらに差し出すことだった。
静かな時間が流れた後で、彼女は言った。
「神沢君、手を出して。私が握っていてあげるから。ちょっとは違うでしょ?」
高瀬は窓際に身を寄せて、隣に人ひとりが座れるくらいのスペースを作ると、ほら、とささやいてそこへ座るよう俺に命じた。
俺は立ち上がると、履いているチノパンツで右手をこするようにして拭き――そんなことで無菌になるわけがないけど――高瀬の左手を握って、そのまま彼女の隣に腰掛けた。
「大丈夫大丈夫。恐くないって」
高瀬は勇敢に言って、つないだ手に力を込めた。
それが特効薬となったのか、不思議なことに呼吸は整い、足の震えも収まっていった。
俺が安堵とも高揚ともつかない心地でいると、しばらくして高瀬は右隣で小さく咳払いした。
「あのね神沢君。ひとつ質問してもいいかな?」
いいよ、と俺は応じた。
「どうして私のことを選んでくれたの?」
「え?」
「いやほら、今日の夜間動物園ね、最後のチケットを渡す相手は晴香でも月島さんでもよかったわけじゃない? なんで私だったのかなって思って。電話だと『星菜の偵察だ』みたいなことを言ってたけど、実際に来てみたら、なんかダブルデートみたいだから」
俺は高瀬のことが好きだからだよ。そう言えたなら素敵だった。少なくとも言ってしまっても良い雰囲気ではあった。なにしろ狭い空間の中で二人の身体は密着し、手を握り合っているのだから。
もしかして、と俺は考えずにはいられなかった。
もしかして高瀬は俺に告白されるのを待っているのか? と。それは決してあり得ないことではなかった。日比野さんを応援する立場にあるとはいえ、そこは高瀬も一人の乙女だ。これから太陽の想いを受け止めることになる星菜に、いわゆる“恋に恋する”ような羨望を抱いたとしても、ちっともおかしいことはない。
「神沢君」と高瀬は隣から声をかけてきた。「また具合悪くなっちゃった?」
「いや、大丈夫」
よほど難しい顔をしていたのだろう。慌てて空いている方の手を振った。
「花火大会、せっかく誘ってくれたのに行けなかったから。ずっと悪いなと思っていて。その埋め合わせだよ」
嘘ではないけど、結局、当たり障りのない回答を口にしていた。
この胸にある想いを彼女に打ち明けるのは、やはりどう考えてもトカイとの政略結婚を消滅させてからだ。俺たちは普通の高校生とは事情が違う。その場限りのムードに流されてはいけない。
「そっか」と高瀬は言った。心なしか、少し残念そうな声色だった。
♯ ♯ ♯
観覧車が止まって15分が経過した。
俺たちのいるゴンドラがてっぺんにあるので、今度は高瀬の座るサイドに腰掛けたことで、おのずと太陽と星菜のいるゴンドラ内が丸見えになっている。
太陽は真剣な顔つきで身振り手振りを交えながら、星菜に何かを訴えていた。どうやら告白の最中にあるらしい。彼の目には「ここが勝負だ」とここまで聞こえてきそうな熱情が宿り、星菜の瞳には――本物かどうかはともかくとして――涙が浮かんでいる。
おそらく高瀬は気付いていないが、徐々に俺の手を握る力が強くなっている。約5メートル先の緊張が、彼女にも伝わっているらしい。
太陽が前のめりになって、ついに星菜の両手を取った。今まさに復縁を申し出ていると推測できる。
星菜が太陽に抱き付いてから、その瞬間が来るまで、そう時間はかからなかった。
まず星菜が太陽の胸に飛び込んだ時点で俺と高瀬は息を飲んだのだが、間を置かず彼らの顔が重なったことで、今度は唾を飲み込むことになった。
口をそんなに近づけてまさか一房のさくらんぼを分け合って食べているわけもなく、そこで何が起きているかは、明白だった。
「あ」と高瀬が先にこぼし、俺も「あ」と続いた。
高瀬も俺も一旦は目を伏したが、すぐに顔は上がった。結局、前のゴンドラの様子が気になって仕方ないのだ。
星菜は太陽の首にからみつくように両腕を回し、太陽は「二度と離すもんか」と言わんばかりに星菜の腰を強く抱いている。
当人たちはさぞかし甘美だろうけど、これを見せられている方はたまったもんじゃない。顔と顔が離れたと思ったら、何かを短く語り合い、また唇を重ねるのだからたまったもんじゃない。
「あんなに何回も……」と高瀬はささやいて、口に手を当てた。
俺はこのあいだ太陽がうちに泊まりに来て、一緒に風呂に入った時のことを思い出していた。
「キスもまだなんだ」と言って自分の幼稚さを無邪気に自嘲していた姿が、今はえらく懐かしい。
もうあいつのそんな無垢な笑顔は見ることができない。
太陽が、大人になっていく――!
俺は無意識のうちに奥歯を噛みしめていた。嫉妬を、どうやら、しているらしい。
「太陽の恋が実ってしまった……」
「日比野さんに悪いね」と高瀬は言った。「私たちじゃ、どうにもできなかった」
「勢いがあったよな」努めて冷静に太陽の勝因を分析してみる。「向かい風が吹こうが、銃弾が飛んでこようが、前進あるのみ。ここ何日かの太陽には、そういう気概があった。これは誰にも止められなかったよ」
「それにしても、さ」高瀬はため息をつく。「ひとつ後ろのゴンドラに私たちがいるってわかってるわけだから、もう少し、その、自重してほしいよね」
「まったくだ」と俺は呆れて同意した。「いつまでやってる気だ」
俺はふと高瀬の唇を横目で見た。ほのかな薄紅色をしたそれは活き活きとした潤いに満ち溢れていて、もし口づけすることができたなら、俺の中にある全ての渇きを癒してしまいそうだった。しかしもちろんそんなことはできない。今の俺たちは手をつなぐことで精一杯だ。
でもそれで充分だった。
彼女の手のたしかな温もりは、過去の苦い思い出から俺を守ってくれる。




