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【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第一学年・秋〈失恋〉と〈探偵〉の物語
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第21話 さよならを言う時はいつか来るから 3


「悠介って、童貞?」と太陽が尋ねてきたのは、風呂の洗い場で俺が体を洗っている時だった。


「まひるとの勉強でくたくたなんだ、風呂入ろうぜ」と彼がせがむので、湯を張り、なぜか男同士のバスタイムを過ごしている。


「童貞の中の童貞だ」

 湯船につかる彼に真実を答えた。気のせいか、彼の視線は俺の下半身に向いている。


 タイムリーなことに現代文で高村光太郎の『道程』を扱っているというのもあって、「僕の前に道はない」と付け加えた。深い意味も、ない。


「チューも、まだか?」

 

「あのな」と俺は背中をタオルでこすりながら言った。「俺はつい半年前まで暗黒の毎日を生きていた人間だぞ。そういうのとは、無縁だって」


「高校に入ってから、実はやることやってるのかと思ってよ」

 イヒヒ、と彼はいやらしく笑う。

 

 そういうおまえはどうなんだ、と俺が問うと太陽は「僕の後ろに道はできる」と『道程』の続きをそらんじた。すなわち、童貞、ということらしかった。


「それどころか、キスもまだなんだよなぁ。オレたちは、まだまだガキってことだな」


「中学時代の星菜とは、何もなかったんだ?」


「手すら握らせてくれなかった時点で、遊ばれていたと気付くべきだった」

 太陽は自嘲ぎみに笑う。

「ただ今度は違うぞ。星菜は遊びでオレに近付いているんじゃない。ということは、ということは、だ」

 

 何を想像したのか、太陽はウヒョーと奇声を上げ、浴槽から俺に湯を浴びせ掛けた。

「よし悠介! どっちが早く童貞を卒業できるか、勝負するぞ!」


「くだらないなぁ。そんなこと競ってどうするんだよ」

 

 こういうたぐいの話をすると、どういうわけか、胸から太ももの付け根辺りにかけて皮膚の内側からくすぐられているかのようなゾワゾワした気持ちになってしまう。


「この遠い道程のため」

 二度、そう繰り返し、内にてざわめく衝動を懐柔(かいじゅう)する。


 ♯ ♯ ♯


 風呂から上がると、スマホに高瀬からメッセージが届いていた。

「葉山君の説得は、うまくいきそう?」

 

 お手上げだ、というのが本音だったが、彼女には後ろ向きな言葉を使いたくなかった。

「今まさに奮闘中なんだ。太陽、うちに泊まりに来ていて」


「そうなんだってね」と返ってきた。「ついさっきまで、日比野さんと電話でお喋りしていたの。良い経験だった! 互いの恋愛観や理想の男性像について話して、すっかり彼女と意気投合しちゃった。日比野さんのためにも、がんばってね、神沢君」


「誰からだ?」太陽が目ざとくスマホをいじる俺を見つける。


「高瀬からだ。高瀬と日比野さん、打ち解けているらしい」

「マジかよ!? そこがつながっちゃうと、オレとしては厄介だな」


「反星菜連合」俺もその一員だとばかりに、自分に親指を向けた。そして「恋愛観や理想の男性像」という文言が頭から離れていかないことに気がついた。なんだそれは。是非拝聴したい。少し恐くもあるけれど。日比野さんなら聞けば教えてくれるだろうか。


「それにしても、悠介は本当に高瀬さんが好きなのな。気づいてないかもしらんが、ひどくニヤニヤしてるぞ」


 俺ははっとして表情を引き締めた。

「そ、そうさ。俺は高瀬が好きさ。ニヤニヤくらいする」

 

 太陽は茶化すように笑った。そして言った。

「高瀬さんとデートとかしないのか?」


「デート」

 すぐに夏の苦い思い出が脳裏をよぎった。

「花火大会あっただろ。実は高瀬から誘ってくれたんだよ。二人で行きませんか、って」


「はぁ!? それ、本当か?」

 

 本当だ、と俺は顔をしかめて答えた。

「結果は知っての通り、柏木が店の手伝いを強制的に押しつけてきて、デートは消滅したわけだ」

 

 太陽は感心したように目を細める。

「なるほどな。柏木の公開告白や月島嬢の登場で、こりゃうかうかしてられないと高瀬さんもギアを入れ替えたわけだ。ほうほう、女のバトルも見てる分には面白いのぉ」

 

 渦中(かちゅう)にいる分には少しも笑えない、と俺は言った。


「で、花火デートがおじゃんになって、そのままにしておくつもりか?」


「いや……」俺は言い淀む。「だって、どうしようもないじゃないか」


「悠介。それじゃあだめだよ」太陽は人差し指を振る。「高瀬さんは相当勇気を出して悠介を誘ったんだ。それが流れてしまったからといって、『はい終わり』はNG。次は悠介から彼女を誘って、埋め合わせをするんだよ」


「でも、どうせ柏木や月島の妨害工作が入ると思うんだ」

 

 それを聞くと彼は待ってましたとばかりに手を叩いた。

「さてさて。今夜のメインイベントに移りますか」

 

「メインイベント?」


 太陽は自分のバッグをがさごそ漁り、何かを取りだした。それはなにかのチケットだった。二枚ある。


「今度の連休、夜間動物園だ」

 

 俺たちが住む街は人口20万人程度の地方都市なので、大都会では見過ごされるような些細な催しでも、娯楽に飢えた市民に温かく迎えられる。


 動物園の閉園時間が21時まで延長されるこのイベントも、その例に漏れなかった。


「オレは決める。この夜に星菜に告白して、よりを戻してみせる!」

 

 それでチケットが二枚なのか、と合点がいった。


「ただ」と太陽は言った。その声はくぐもっていた。「ただ、前の別れ方がひどいもんだからよ。ふたりきりのデートに誘うとなると、さすがのオレも腰が引けるんだ。そこでだ」

 

 まるで手慣れたマジシャンを見ているようだった。太陽の右手にあった二枚のチケットの裏からもう二枚、新たに同じ物が出現したのだ。


「ダブルデートを実施したい!」

 太陽は三枚目のチケットを指で弾いた。

「こいつは、悠介のもんだ」

 

「もう一枚は?」


「そこがミソさ。いいか、よく聞け悠介。オレと星菜の恋を応援してくれるのならば、最後の一枚を誰に渡すかおまえさんに選ばせてやる。だがそれを拒むのであれば」

 彼はスマホを耳に当て、目では邪悪な波動を送りつけてくる。

「柏木にでも、教えちゃおっかなぁ。ダブルデートの最後の一枠が空いてますよって」


「太陽おまえ、俺の気持ちをわかっていて」


「それはこっちの台詞だ。オレだって、誰が何と言おうと、星菜のことが好きなんだ。そこに論理も整合性もねぇよ。好きなもんは好きなんだ。しょうがねぇじゃないか。それが恋ってもんだろ。人を好きになるってことだろ」

 

 四枚目のチケットを見せびらかせて「高瀬さんなんだろ」と彼は言う。

「決まってるだろ」と俺は言う。


「大人になれよ、悠介。おまえさんがオレと星菜の恋を後押しすると誓うなら、オレはこのダブルデート計画が柏木と月島嬢の耳に入らないよう尽力してやる。高瀬さんは喜ぶと思うけどなぁ。オレと星菜という邪魔者はいるが、それでもデートはデートに変わりない。このイナカでは数少ない、心躍る夜のイベントだしな」

 

 俺はほとほと困ってしまった。さて、どうしようか。


 ついさっき、太陽と日比野さんの仲を取り持つように、高瀬からエールをもらったばかりだ。


 ここで星菜派に転向するとなると、俺の沽券にも関わってきてしまう。

 

 ただもちろん、高瀬と共に夜の動物園をめぐりたいというのが、偽らざる本心だった。

 

 俺と高瀬がキャッチボールをしていると例えるならば、太陽の言うように、今は俺の手元にボールがある状態だ。そろそろそれを彼女の元に投げ返さなくてはならない。


 そう考えると、この話は絶好球を投げ返す良い機会に違いなかった。


 ダブルデート、という軽薄極まりないその言葉は頭で繰り返すと史上最大級の鳥肌が立ちそうだし、何より日比野さんには申し訳ないけれども、やむを得ない。


 ここは、俺もちょっとずるく立ち回ろう。「わかった」

 

「交渉成立だ」と言って太陽は二枚のチケットを寄越してきた。


 ♯ ♯ ♯

 

 俺から高瀬に電話をかけ、夜間動物園に一緒に行く約束を取り付けた。


 太陽のパートナーが日比野さんではなく星菜であることに、当然彼女は声で難色を示したが「まずは敵を知らなきゃ。星菜がどんな女なのか」と太陽に聞こえないように言って、なんとか高瀬を説き伏せた。


 慣れない二正面作戦は神経を磨り減らしたけれど、

「動物園に行くの、久しぶりなんだ。楽しみだな」

 最後にそう言った彼女の声に潤いがあったのが救いだった。

 

 日付が変わり、太陽はいびきをかいて気持ちよさそうに眠っている。二枚のチケットを握りしめたままなのが、なんとも愛くるしい。

 

 いびきがうるさいのはもちろん、高瀬との初めてのデートに胸が高鳴っているというのもあるが、何より今夜太陽が放ったある言葉が意識にこびり付いて俺が眠りにつくことを妨げていた。


「心のどこかには、もう一人の自分も住まわせておかなきゃいけないぞ。『誰が俺の“未来の君”なんだ?』と冷静な目を持って見ることができる自分をな」

 

 彼はそう言った。助言としては、至って的確だった。

 

 もし高瀬が“未来の君”ではないとして、そして俺がそれを知る時が来たとして、果たして正気を保っていられるだろうか? 


 想像すると、食糧も飲み水も持ち合わせていない高瀬を小島の岸に一人残し、自分だけは船に乗せられ遠ざかっていく――そんなやるせなさで、胸がいっぱいになってしまった。

 

「高瀬と共に大学に行く未来が、どうして幸せではないんだ?」

 無意識のうちに、そう、窓の外の月に問いかけていた。

 

 占い師が俺の隣に見たのは、高瀬の姿ではなかった。オーケイオーケイ、それならばそれで結構だ。


 しかし俺は現実として高瀬に激しく恋をし、彼女と過ごす時間に極上の安らぎを感じている。彼女の中でも俺の存在は決して小さいものではないはずだ。

 

 誰もが納得するかたちで政略結婚を潰すことに成功し、大学に行く共通の夢を成就させてもなお、二人が幸せになれないというのは一体どういうことなのか。

 

 今だけはたとえ気休めでも良いから、誰かに前向きな答えを返して欲しかった。しかし耳に入るのはどこかの野良犬の遠吠えと、呑気な伊達男のいびきだけだった。

 

 いずれにしても、と俺は思う。


 高瀬、柏木、月島、この三人のうち、少なくとも俺は二人以上にはいずれ別れを告げなくてはいけない。どんなにそれが、つらく、心が引き裂かれることであったとしても。

 

 さよならを言う時はいつか来るから、俺はそのことをしっかりと心に留めて、彼女たちとの時間を過ごすべきなんだろう。


「幸せって、なんだろう?」

 気がつけば、そんなことをつぶやいていた。


 すごろくならば、振り出しに戻るような疑問だった。


 いっそ、はじめから考え直すのも、一つの手かもしれない。そう思えた。

 

 今夜はどうやら、簡単に眠れそうにない。

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