第21話 さよならを言う時はいつか来るから 2
「悠介、秋の夜長だ。今夜はとことん、腹を割って話そうぜ」
太陽が、うちに泊まりに来た。
なぜこうなったかといえば、高瀬と話し合った結果、まずは同じ男の俺が一人で太陽と話をしてみることに決まり、彼に電話を掛けると「わかった、今夜そっちに行くわ。ってか、泊まるわ」と返ってきたのだ。
要するに俺の電話は、日比野さんによる勉強地獄から逃れる理由を探していた太陽にとって、渡りに船だったというわけだ。
近くのコンビニまで太陽を迎えに行って、ついでにジュースやつまみを買い、今しがた帰ってきたところだった。
長く降り続いていた雨は上がり、しばらくの間どこかへ家出していた月が少し恥ずかしそうに空に浮かんでいる、秋の夜である。
「悠介、この布団、カビ臭ぇよ」太陽は顔をしかめる。
「我慢しろよ。うちには客なんか来ないんだから」
“修学旅行的雰囲気”を醸し出すため、という太陽の提案を受けて、わざわざ六畳の俺の部屋に布団を敷いて、話し合うことになった。
客間の押し入れから何年かぶりに引っ張り出してきた布団だから、状態が良好なわけがなかった。俺はベッドの上であぐらをかいている。
「なぁ太陽」といよいよ本題に入る。「おまえ、また星菜と会っているんだって?」
彼はバツが悪そうに鼻をかいた。「さては、まひるから聞いたな?」
隠す必要もないので、俺は「そうだ」と認めた。「何を考えてるんだ。星菜がどういう女なのか、おまえが一番よくわかっているはずだろうが」
太陽はコンビニで買った梨のジュースをぐびぐび飲んで、俺の問い掛けを嘲笑うようにげっぷをした。そして袋菓子を開封した。
「おい、答えろよ。腹を割って話そうと言ったのは、おまえだよな」
「星菜はな、もう以前の星菜じゃないんだよ」
太陽は、膝をぱん、と叩いた。
「夏フェスの演奏を、星菜の友達が見に来ていたらしくてな。『すごかったらしいじゃん』ってスマホに連絡をくれたんだ」
そこから何度かメッセージのやり取りをするうちに、「久しぶりに会わない?」となったという。もちろん、誘ったのは星菜だ。
「会ってすぐにオレははっきり伝えたぞ。もう親から高額な小遣いはもらってないし、期待には応えられないって。すると星菜は謝ってきた。あの一年のことは本当に後悔していると。信じられんかった。元カノにこう言うのはどうかと思うが、オレの知るあいつは、人に頭を下げるような女じゃねぇからな」
変わったんだよ星菜は、と太陽は瞳を輝かせて言い添えた。自分の心に浸透させているように見えなくもない。
「で、どうするの?」
それを聞くと、太陽はにやっと破顔した。
「とりあえず、星菜は中学時代に本命だった高校生とは別れたらしい。だから今は、フリーらしい。そして、なんと、彼氏が欲しいらしい!」
うきうきした気分を隠せない、隠すつもりもない目の前の男を「勝手にしろ」と突き放すのは簡単だけど、そうもいかないので、話を要約することにした。
「つまり、おまえは星菜とやり直したい。そしてどうやら、星菜にもその気はありそうだ。総合すると、そういうことか?」
「イエース」太陽は親指を上に向けた。「オレさ、星菜のこと好きなんだよ、今でも」
「星菜の笑顔を信じられないんじゃなかったのかよ」
「会って、思ったよ。高校に入ってからオレに足りなかったものは、この娘の存在と笑顔なんだって。あのな、星菜、めっちゃくちゃ可愛くなってたぞ」
「男殺し」
意地悪と知りつつ、念を押す意味で星菜のあだ名を口にしていた。
「だ、か、ら、星菜は、生まれ変わったの。わかんない子だねえ、悠介君も」
なっはっは、と高らかに笑う太陽から視線を外し、コーヒーを飲みながら、さてどうしようかと考えていた。
カレンダーを見れば、「恋なんてするもんじゃない」と太陽が臆病さを見せてから、まだ一週間しか経過していなかった。
まさかここまで早く、そして深く、再び星菜に入れ込んでしまうとは、さすがに予測できなかった。
もちろん俺は、星菜が改心したという彼の所見を鵜呑みにできないでいる。
どうせ盲目故の主観だろ、と頭にはある。しかし、また騙されているぞ、やめておけ。そう忠告したところで、周りが反対すればするほど炎が燃えさかってしまうロミオとジュリエット的作用をもたらしてしまうのは確実だった。
小さくため息をつきながらも、うつむく眼鏡美人と、彼女を応援する高瀬の顔が思い浮かんだので、もう少しがんばってみようと考え直した。
「なぁ、日比野さんのことを、どう思ってる?」
「どう、とは?」
「一人の女の子として、おまえの中でどういう位置づけなのかと思って」
「まひるはまひるだ。口うるさい幼馴染みでしかないよ」
「太陽は、まひるにこそ、輝くんだろうが」
彼の声を真似るのは、意外と難しかった。
「なんで悠介がその台詞を……」太陽は手で額をぴしゃりと叩く。そして「まひるかー!」と叫んで、布団に背中から倒れ込んだ。
「日比野さん、今でもおまえの言葉を信じてるんだぞ。言ったんだろ? お嫁さんにするって」
彼は大の字になったまましばらく黙っていたが、やがて「あいつ、忘れてないんだ」と懐かしむようにつぶやいた。「まひるはな、小さい時にお母さんを事故で亡くしてるんだよ」
「そうなのか」
「ああ。毎日泣いてばかりで見ていられなかったから、元気づけてやろうと思って、な」
「『まひるは絶対オレのお嫁さんになるんだからな』心優しき太陽少年は言った」
彼は両手を枕にしてから、うなずいた。
「まひるのお母さん、飲酒運転の車に轢かれて、うちの病院に運ばれてきたんだ。救命にあたったのは、オレの親父だった。この街じゃ高名な外科医だけど、だめだった。ガキながらに責任みたいなもんを感じたんだろうな、オレは」
日比野さんも苦労したんだな、と思わずにはいられなかった。話の腰を折ってしまうから口には出さないけれども。
「抜けているところも多いけど、歳の割にしっかりしてるだろ、あいつ。父子家庭になっちまって、家では母親の役割も担ってきたから、自然と大人っぽさが身についたんだろう」
「太陽、俺は、日比野さんと付き合うべきだと思う」
ついでに、高瀬も同意見であることも伝える。
「は? 何でここで高瀬さんが出てくるんだ」
「もうみんな知ってるよ、何もかも」
日比野さんが秘密基地に来たことを、隠すこともない。
「なんだよ」
太陽は起き上がって照れ臭そうにジュースを飲んだ。
「まひるを女として見ていないわけじゃないけどよ。なんつーか、存在が近すぎて、いまいちピンと来ないんだわ。だってあいつ、オレのことに関しては風呂で体を洗う順番から眠りやすい体勢に至るまで、バッチリ把握してるからな。なんならオレ以上にオレのこと詳しいかもしれんぞ」
「パートナーとしては、うってつけじゃないか」
「気持ち悪いっつの! だいたいな――」
なかばお惚気のようなエピソードを太陽がいくつか語っていると、途中で彼のスマホが鳴った。
「おおっ! 星菜からだ! 悠介、見ろよ、これ」
液晶には、ずいぶんとスタイリッシュな麦わら帽子の画像があった。その下には、星菜からのメッセージがある。
「季節ハズレ感わあるけど、これ、太陽にぜっったい似合うと思って、買っちゃった」
助詞は間違っているし(わかっていてやっているんだろうが)、買っちゃったの後にはハートマークが5つもあるから、乾いた笑みを浮かべるしかない。
「やっぱオレは星菜だ」と太陽は舞い上がって言った。「まぁ、なんだ、その。まひるも、まさかあのプロポーズを本気にはしてないだろ。若気の至りってやつで許してくれるはずだ。オレの“未来の君”は、星菜なんだ!」
「容易く使わないでくれよ、それ」
日比野さんは結構本気なんだぞ、と強く言い聞かせてもよかったが、締まりのない顔つきで星菜にメッセージを返信するこの男に何を言ったところで、効果があるとは思えなかった。
高瀬と日比野さんには申し訳ないけれども、俺一人で太陽を説得するのは無理のようだ。
こうなったら星菜には比類無き悪女っぷりを遺憾なく発揮してもらって、「やっぱり俺が馬鹿だった」と太陽に悟らせるのが、一番手っ取り早いようにも思えた。
「ちなみにな、ひとつ良いことを教えてやるよ」
太陽は人差し指を立てた。
さて、どんな情報が飛び出るかと身構えたが、聞けたのは「まひるは眼鏡を取るとなかなか美人なんだぜ」という台詞だった。
そんなの、とっくに知っていた。
♯ ♯ ♯
「“未来の君”といえば」トイレから戻ると太陽がその言葉で俺を迎えた。「一体全体どうなってんだ。ていうかな、オレのことはいいんだよ。問題はお前だ、悠介。月島嬢が加わって、候補は三人だぞ、三人。さぁ、じっくり聞かせてもらおうじゃないか。攻守交代だ!」
「どうなってんだ、と言われても」
逆にこっちが、運命の神様に金一封を添えた質問状を送りたいくらいだった。
「候補がどれだけ増えようが、俺には高瀬しか見えないよ」
「でもさ、占い師が言うには、相手を間違ったら悠介に幸せな未来は訪れないんだろ?」
その通りだった。「何が言いたい?」と返した俺の顔は、きっと引きつっている。
「占い師が悠介の隣に見た“未来の君”が、柏木や月島嬢である可能性ももちろんあるわけでな。そうなると、高瀬さんは幸せの使者なんかではなく――」
俺への思いやりなのか、彼はそこで言葉を切って咳払いした。
「不幸の使者、ってことか」やむを得ず、俺が継ぐ。
「占いを信じるなら、そういうことも頭に入れておく必要があるよな。いや、もちろん、高瀬さんが“未来の君”ならば、問題はナッシングなわけだが」
「ここまで来て、今更『占いなんか知るか』とは言えないだろう」
「あのな、悠介。オレは決して意地悪で言っているんじゃないからな。高瀬さんを好きっていう気持ちはよくわかるし、友人としてそれを応援したいとも思う。ただ、心のどこかには、もう一人の自分も住まわせておかなきゃいけないぞ。『誰が俺の“未来の君”なんだ?』と、冷静な目を持って見ることができる自分をな」
改めて考えてみると、高瀬、柏木、月島のうち、二人と歩む未来は、俺に幸せをもたらさないなんて、にわかには信じられないことだった。
誰と共に生きたってそれなりの幸福は(もちろん努力次第ということになるだろうが)掴めるように思えるし、柏木と月島に至っては自分の提示した未来が俺を幸せに導くと信じて疑わないでいる。
思わず窓の外を見ていた。あの老占い師にもう一度会えないかな。無理だと知りつつも、そう内心でつぶやいてしまう。
「今夜は特別ってことで、我が輩の意見を述べましょう」
太陽は出し抜けにそう言うと、布団の上で姿勢を正した。
「何かの縁でオレは、この春から始まった悠介が主演するドラマの視聴者になっちまった」ほぼ毎回友情出演もするがな、と彼は肩を揺らして笑う。「特等席からそのドラマを見てきたオレが思う、悠介の“未来の君”は――ズバリ、柏木だ」
「柏木、か」
「運命とか、絆とか、そういうのは正直よくわかんねえよ。でもオレの目には、悠介と柏木は最高の相性に見える。ふたりは互いの弱点をよく補っているぞ」
ほら見なさい悠介、と得意になった柏木の甘い声が秋の風に乗って飛んで来そうだ。太陽には賛辞だろう。バカ葉山もたまには良いこと言うじゃない、と。
「夏の海でおまえさんと柏木、夜に浜辺に出て行ったまま、結局朝まで帰って来なかったよな? あんな長い時間、ふたりで何やってたんだよ」
「やましいことは何もしてないよ」
「悠介、今宵は腹を割って話そうと」
「嘘じゃない。柏木に聞いてもらってもかまわない」
「ほう? 浜辺の砂でお城でも作ってたのかね、明るくなるまで」
高校時代に交際していた俺の母と柏木の父が数年前になんらかのかたちで再会し、全てを捨ててどこかへ旅立った。
その話を柏木から聞き、彼女の憤慨を受け止め、ささくれだった心を鎮めるようにふたりで海を眺めていたのが、あの夜の出来事だ。
いくら太陽が信頼できる友だとはいえ、俺と柏木の間にある見えざる結びつきを彼女の許可なく白状するわけにはいかない。
実はあの晩夏の夜の一件が――柏木の狙い通り、と言えば言葉は悪いが――「何があろうとも高瀬だ」という俺のスタンスを足元からぐらつかせていた。
もちろん高瀬に対する想いの強さに、変わりはない。ただ、太陽が言ったような「誰が俺の“未来の君”なんだ?」と冷静な目で主観を抜いて三人を見たときに、柏木が他の二人より瞼に強く焼きついてしまうのは否定できなかった。
「柏木の望む未来は、世界で一番幸せな家族を作る、だっけか」
太陽は腕を組む。
「悪くないと思うけどな。元気いっぱいのあいつと生きる毎日は」
「そうだな。ぜんぜん悪くないな」
「そしてその夢を叶えてやれるのは、この世で悠介ただひとり」
「らしい」と俺は照れて言った。
「それで言うと、月島嬢にとっても悠介はスペシャルな一人だ。あの娘の未来も、悠介ありきなんだろ?」
「らしい」と俺は繰り返した。
「夏のはじめに現れたときはとんでもない爆弾娘だと思ったが、なんだか最近は邪気が抜けて良い感じだよな、月島嬢。オレの周囲でも『あの冷めた感じがたまらん』っていうマゾ男子が急増中だ。彼女の涼しい瞳に見下されて、罵られたいんだってよ」
「馬鹿じゃないの」
「大変だな、悠介君。こうなったらいっそ、三人まとめて面倒見ちまうか。な?」
「な、じゃないよ。そんなことできるわけないだろ」
「月火は高瀬さんと大学に行って、水木は柏木の亭主をやり、金土は東京でせんべいを焼く。おお、なんとかなるぞ。頑張れ、悠介!」
景気よく手を叩いて適当なことを放言する太陽に顔をしかめつつも、少し気になったので「日曜はどうするんだ」と試しに聞いてみた。すると「そこはオレと遊ぼうぜ」と返ってきたので、呆れて夜空を見上げた。




