第19話 世界はとてもカラフルだ 3
フロアでは引き続き、鬼軍曹の柏木による厳しい指導が続いている。
もし竹刀でも持たせたなら、高瀬の身体に強烈な一撃をお見舞いしそうな勢いだ。時おり厨房とフロアの間にあるスペースから、余裕があるのだろう、太陽と月島がこちらに向けてピースサインを送ってくる。
「ところでさ、あんたたちのこのグループ、どういう集まりなの?」
五つ目のキャベツを手に取り、いずみさんが尋ねてきた。俺はようやくネギの処理が完了し、今度は紅生姜を切り刻んでいる。
「よくある仲良しグループですよ」
あの三人娘の未来は俺次第なんです、なんて口が裂けても言えない。
「ねぇ、悠介」
いずみさんの声には、姪のそれによく似た、戯れの響きが聞き取れる。
「どの娘を狙ってるのさ」
「何のことですか」
「やだねぇ、惚けるんじゃないわよ。あんたらの年頃なんて、異性のことしか考えてないでしょ」
「そんなことないですよ」
実はそんなことある。高瀬、柏木、月島のことを考えない日なんかあるわけがない。
「私があんたたちの歳の頃は、そりゃもうお盛んだったけどねぇ」
いずみさんは派手に笑い、俺は何も聞かなかったように包丁を強く握る。
「本命、育ちの良さそうなお嬢様。対抗、うちの晴香。大穴、ショートカットの垢抜けた娘ってところかしらね?」
俺は無言を貫く。黙っていればこの話題も自然と下火になるだろうと高をくくっていたが、いずみさんが「誰かもう食べちゃったの?」とささやいたから、危うく自分の指を切りそうになった。
「いい加減、そろそろ怒りますよ?」
「あらまぁ、赤くなっちゃってカワイイ」いずみさんは悪びれない。「でも父娘揃ってちゃんと同じような人を好きになるんだから、面白いもんだよねぇ。血は争えないってよく言ったもんだわ。あぁ、言っちゃっていいんだっけ? 晴香があんたに惚れてるの」
「大丈夫です。僕はもう知っていますから」
それを聞くと彼女は包丁を離し、俺の肩に手を乗せた。
「悠介さぁ、高校出たら、晴香をもらってあげてよ。いつまでもウチにいられても困るんだよ。あの子がいたらおちおちオトコ探しも出来やしないもの。私だってね、もういい歳なんだ。身内の私が言うのもアレだけど、晴香っていいオンナでしょ? 脱いだらね、裸だってね、すごいんだから。きっと毎日寝不足になるわよ?」
「そうですか」
俺は作り笑いを浮かべると、頭を空っぽにして紅生姜をひたすら刻む。
♯ ♯ ♯
これといったセールスポイントのない俺たちの住む街ではあるが(そう言うと高瀬に叱られるけど)先日の野外ロックフェスティバルとこの花火大会は、それなりに有名な催しである。
エンターテインメント性を前面に打ち出したこの天空ショーはテレビやインターネットで評判が広まり、今やこの地域の外からも観光バスに乗ってやってくる団体客がいるほどだった。
花火見たさに何時間もバスに揺られるその気力体力に、出不精な俺などは脱帽するばかりなのだが、まぁとにかく、それほどに魅力的な大会ということらしい。
開催されるのが毎年8月最後の日曜日ということもあって、この花火が終わると「あぁ、今年も夏が終わったんだな」としみじみするのがこの街の人たちの風習となっていた。
「今日は一年で最大の書き入れ時なのよ」と言って開店時間をいつもより大幅に早めたいずみさんの狙い通り、のれんを掲げると、すぐさまお客さんが入り始めた。
まだ明るい時間だというのに、酒類が飛ぶように売れ、店からはまたたく間に空席が消えていく。
俺は基本的には厨房勤務で、フロアが困ればそちらへ救援に向かった。
太陽は額に汗を浮かべながら生ビールをジョッキに注いで「くぅ、うまいんだろうなぁ」と漏らし、高瀬は柏木の視線に怯えながら、「モ、モダン、いっちょう!」と、おそらく、いまだかつて出したことのない声域から声を出していた。
ひとつわかったのは、柏木はこの店の看板娘だということだった。
顔馴染みのお客さんが何人もいて、彼らの中で柏木はマドンナであるらしく、その明るさと容姿を最大級の褒め言葉で賞賛されていた。
長い髪を後ろで一つに束ね、笑顔を絶やさず、てきぱきと要領よく仕事をこなす彼女の後ろ姿は、俺の目にだって輝いて映る。授業中に居眠りしている背中が印象としては強いけれど、「柏木にはこういう面もあったんだな」と感心せずにはいられなかった。
陽が落ちはじめ、店の外では、花火会場である河原へと向かう人の流れが出来つつあった。甚平や浴衣に身を包んだ男女もいたりして、こういう光景を見ると、日本の夏はいいな、と呑気にも思ってしまう。
そして見ることが叶わなかった高瀬の浴衣姿を想像して、虚しくなってしまう。
時間の経過と共に、フロアよりも厨房の仕事の方が多くなってきたので、最も戦力になるであろう月島がこちらに助っ人としてやってきた。
お婆さん直伝という持ち前の包丁さばきで、豚肉やイカをリズミカルにさばいていく。頼もしいことに、俺より手際が良い。
いずみさんは現在、常連と思われるお客さんに声を掛けられ、渋々ながらそれに応じている。それを機と見たのか、月島は隣で「神沢」と俺の名を呼んだ。
「どうした」
月島の声には一定の重さが含まれていたので、サラダ用のトマトを切る手を止めた。
彼女は言った。
「中学校の屋上でさ、声を掛けたの、正解だったんだよね?」
「は?」
「いやほら、考えようによっては、飛び降りちゃった方が楽だったのかもしれないわけでね」
「もちろん正解だよ」と俺は答えた。死ぬことで得るやすらぎよりも、生きることで伴う痛みを求めていたのだと、今なら胸を張って言える。
「それはよかった」
「月島。どうしたんだよ、いきなり」
「いきなり、とキミは言うが」
包丁をこちらに向け、月島は小さな唇を尖らせる。
「全然ふたりきりになれないんだから、こういう時に話すしかないだろうが」
照明が反射して光る刃におののきつつ「すまない」と詫びると、彼女は包丁をイカに突き刺し、上手にはらわたを取り出した。
「こんなはずじゃなかった」
いずみさんがまだ戻らないことを確認して、月島は吐息をつく。
「私の計画では、この夏の間に神沢を実家に連れて行って、家族にキミのことを紹介しておくつもりだったんだ。それなのに、巻き込まれたバンド活動と海での酔っ払いの介抱と強制労働で、ついに高校一年生の夏が終わる」
こんなはずじゃ……と彼女はもう一度肩を落とす。
「なぁ月島」と俺は言った。「俺をおまえの実家のせんべい屋・月島庵の跡継ぎとするっていうあの計画、今でも――」
あははは、という月島の余裕ある笑い声に言葉は遮られた。
「本気だよ。高瀬さんも柏木も、今は泳がせているだけだから。最後は私が勝つ。絶対に神沢を東京に連れて帰るから」
高瀬がフロアからこちらに顔を出して「神沢君、ミックス追加」とせわしなく言い、「モダンもだ」と太陽が続いた。「おわっ、ジョークじゃないぞ」
二人がフロアに戻ってから「それにしても」と月島はシニカルにつぶやいた。
「それぞれの未来のために協力し合う、なんてさ、なかなかエキセントリックだよね。日本の高校見渡しても、こんなことやってるの、神沢とあの子たちくらいじゃない? しかもけっこう本気と来てる。ヒュー」
やけに他人事じゃないかと突っ込むべきか、ずいぶん上から目線だなと嫌味を述べるべきか迷った後で、なんだか彼女が可笑しく思えたので「言っておくがおまえももう立派な『あの子たち』の一員だぞ」と言ってやることにした。
「冗談!」月島は空いている手で前髪を払った。「私はいつだってね、少し引いたところから傍観してるんだい。あくまで私の目的はキミの監視だからね。『それぞれの未来のため』あー、恥ずかしい恥ずかしい」
火照りを取るように顔を手で扇ぎ、彼女は意識をまな板に転じた。
案外まんざらでもない居心地のくせに、と思うと、顔が綻んで仕方がない。
♯ ♯ ♯
響き渡る爆発音が、店舗の中にいる我々にも花火大会の幕開けを知らせた。
先ほどまでとは打って変わり、閑散としている店内を見て「よくやってくれた。あんたたちは二階に行って花火でも見てなさい。後は私一人でなんとかなるから」といずみさんが言ったことで、俺たちはお役御免となった。
太陽は花川先輩との約束を果たすため大急ぎで河原へ出発し、残された四人は階段を登り二階へ向かった。途中で柏木が「驚くよ」と言ったが、彼女の部屋に通されると、たしかにぶったまげた。
「わぁっ」まず高瀬が労働による疲れを感じさせない透き通った声を出し、それにつられて「おぉ」と俺の声も震え、おまけに月島まで「へぇ」と感心したように言ったから、目の前の光景が驚嘆に値するものであると評して良かった。
柏木の部屋のベランダでは目を瞠らずにはいられない、大輪の花火が俺たちを歓迎していた。
ふふん、と柏木は得意になって、一人部屋の奥へ進む。
「すごいでしょ。河原まで遮るものが何もないから、すごくきれいに見えるの。この場所、実は、一番の特等席だったりするんだ」
彼女は部屋の電気を消し、ベランダの網戸を開け放った。それによってより鮮明に花火の色を感じることができる。
「蚊には気をつけてよ」柏木はTシャツから伸びた長い腕を指さして言う。「ま、この絶景のために、少しくらいは我慢しなさい」
柏木の部屋は和室ではあるけれど、置かれている家具や施されている装飾は、いかにも十代の、それも若さを謳歌している女の子のそれだった。
少なくとも生きていることに惑い、高校の屋上の縁に立つ子の部屋だという印象はどこにもない。
とめどなく打ち上がる花火のおかげで、電気が灯っていなくても、部屋は明るい。手招きする柏木に応じて、俺たちはそれぞれ、花火を見るために最適なスポットを探す。
高瀬は部屋からベランダに出て最前線に陣取り、月島は勉強机用の椅子に腰掛ける。その様子を見ていた柏木は少し迷ってから、高瀬の隣へ向かった。
俺もベランダで見たかったが、そうすると月島に「夜空にも花、両手にも花じゃん」とか言って冷やかされそうなので、やむなく部屋の中央にあるテーブルの前に座ることにした。
三人の女の子の後ろ姿は、率直に言ってとてもきれいだった。個人的には花火よりもこの光景をいつまでも眺めていたいくらいだ。休みなく働いた疲労からか、それとも花火に見入っているのか、彼女たち三人はしばらくの間、言葉を発することがなかった。
俺はふと厨房で聞いた、いずみさんの話を思い出していた。
「二階の晴香が使っている部屋で、兄貴と有希子さんは放課後になると毎日のように小説について議論していた」と彼女は言っていた。
まさしく今俺が呼吸をしている、この場所ということだ。
父娘という主の違いがあるから、部屋の趣や雰囲気は20年前とは大きく様変わりしているだろうが、俺は恭一(意地でも敬称なんか使うもんか)と母の息吹を感じ取ることができないか、少しの間、意識を研ぎ澄ましてみることにした。
二人はこの部屋でいったいどんな会話を交わしたのだろう?
もちろん今の俺と同じ年頃の若い二人だ。小説の話ばかりをしていたわけではあるまい。
授業のこと、家族のこと、友人のこと、病気のこと、そして二人の未来のこと。
話すべき話題には事欠かなかったはずだ。風通しの良いこの部屋で移りゆく季節を感じながら、二人はとても多くの時間を共に過ごしたはずだ。
小説に対する見解の違いをめぐって、喧嘩になったこともあったかもしれない。恭一の発作が止まらず、手当てに終始した日もあるかもしれない。階下の家族の目を盗んでは口づけを交わしたり、抱き合った日もあるだろう。
二人は自分たちの未来に何が待ち構えているか知らぬまま、一切の邪魔が入らないこの部屋で愛を育み続けたのだ。
恭一と母も、夏の終わりの花火をこの秘密の特等席から眺めたのだろうか?
この静かな場所でなら心臓に爆弾を抱えた恭一も人混み嫌いの母も、落ち着いて花火を楽しむことができただろう。
そう思い、ベランダに意識を向けた時、背中が――そこに寄り添って空を見上げる男女の背中が――視界に映り込んだ気がした。ほんの一瞬のことだ。肩幅の広い男の肩に、髪の長い女の子が、頭を預けていたのだ。
俺は瞬きをして、再度ベランダを見つめる。
しかし「たまやー!」と唐突に柏木が叫んだことで、若い男女の幻は驚いてどこかに隠れたのか、どんなに目を凝らしてもその後ろ姿をもう見ることはできなかった。
疲れているんだ、どうかしている。俺は小さくつぶやいて、気持ちを切り替えた。
「ねぇ、ところで、『たまや』ってなんなの? どういう意味?」
柏木が振り返り、月島に真顔で問う。
「なーんで、私が知ってる前提だ?」
「なんかさ、江戸っ子なら、知ってそう」
「江戸っ子……」小さな額に手を当て、月島は言葉を失う。
柏木は続ける。「東京の人ってみんな花火見て『たまやー』って言うんでしょ?」
「そういうのを偏見って言うんだよ」
実際、柏木はイメージだけで発言していたっぽいけれど、「でも、風情はあるよね」と高瀬がすぐにフォローを入れ、そして両手を拡声器にして「たまやぁ!」と彼女らしからぬ大声で叫んだ。
すると柏木は何を思ったか「タカセヤー!」と、花火には何の関係もない宣伝を夜空に放ち、隣の高瀬と笑い合った。とても無垢に、とても無邪気に。
「馬鹿じゃないの」吹き出したのは月島だ。でも彼女はすぐに「いいぞー、もっとやれー!」と、最前線の二人を後方から囃し立てた。
おいおいお嬢さん方、そういうのは近所迷惑になるからやめようよ、と思った俺は、果たしてつまらない男なんだろうか、それとも善良な市民だろうか。
願わくば、後者であってほしいところだ。




