第19話 世界はとてもカラフルだ 2
「あんたたちかい。ようし、今日はひとつ、よろしく頼むよ」
“鉄板焼かしわ”の店主にして、柏木の叔母で、なおかつ俺からすれば母親をどこかへかっさらっていった男の妹であるその女性は、いずみさんという名前だった。
歳は30代後半だとは思うが、そのスタイルの良さや、潤いと張りのある髪によって、まったく経年による衰えを感じさせない。
明瞭な目鼻立ちは、自身に降りかかった多くの問題に白黒をつけてきた過去を物語っているようで、右の口元には多くの男の視線を受け止めてきたであろう、妖艶なほくろが際立つ。
“きれいなおばさん”
この言葉は、まさしくこのお方のためにあるのだなと思ったけれど、きっと“おばさん”と聞くと、封印されし門をこじ開けて這い出てきた悪魔のような形相をすると予想されたので、間違っても口にはしないことにした。
「昔はけっこう遊んでいたらしいけど、いざ『結婚相手』ってなるとなかなか見つからないんだって」と姪の柏木は話していた。これほどの美人が独身というのは、世界のどこかにいるはずのいずみさんの運命の人は一体どこで道草を食っているのか、と首をひねりたくもなる。
「良く来てくれたねぇ」美熟女はチャーミングな声で言った。「今日はたんまり仕事があるから、存分に働いてもらうよ。ま、あんたらは若いし大丈夫だろう」
いずみさんは俺がどういう存在なのか、柏木からあらかじめ説明を受けているらしく、俺の顔を隅々まで見ると「ふうん」という、あからさまに含みのある反応をした。
今日のために招集された労働者四人の自己紹介が終わると、早速俺たちは、いずみさんと柏木に仕事のやり方を教わることになった。
注文の受け方から、ビールの注ぎ方、ドリンクに入れる氷の数に至るまで、いずみさんには一定の美学があるらしく、俺たちは修得しなければいけないことがたくさんあった。
「鉄板焼かしわ」は平均的なコンビニエンスストアくらいの広さではあるけれど、四人がけのテーブル席が六卓、宴会を楽しめる座敷の部屋が五室ある。
確かにこれらの客席が全て人で埋まれば、女性二人だけで対処するのは無理だろうと店舗を見渡して思っていたのだが、いずみさんはそんな心中を見通してか、俺の肩をつんつんと指で突き「今日は埋まるのよ、全部」と片目を瞑って言った。
俺は元より居酒屋で働いているので、こういった場所での仕事となると、他のメンバーたちよりも一日の長がある。人間不信者だが接客となれば愛想笑いくらいは浮かべられるし、生ビールの注ぎ方だってお手の物だ。
引き続きフロアで柏木が教官となり太陽、高瀬、月島の指導にあたり、俺はいずみさんに呼ばれ、厨房で仕込みに入ることになった。
「あんた、料理得意なんだって?」いずみさんが初対面とは思えないほどフランクに話しかけてくる。誰かさんと同じだ。「たいそう美味しいカレーを作れるそうじゃない」
柏木、と喉元まで出かかって、場をわきまえねばと反省した。
「晴香さんから、聞いたんですか?」
「あの子、あんたの話ばっかりなのよ。口を開けば『悠介』だもの」
あはは、といずみさんは愉快そうに笑う。
「実物の悠介に、ようやく、こうして会えた」
フロアから柏木の大声が聞こえる。
「ほら優里、そんなんじゃダメだよ! もっとお腹の底から声を出すの! はい、もう一回!」
「厳しいなぁ……」これは、高瀬のか細い声だ。「注文入ります! モ、モダン一丁!」
「まだまだ!」と叫ぶ柏木の声には、たしかな悦びが滲み出ていた。
あの女、と俺は眉をひそめる。あの女、さては実技指導にかこつけて『夏風邪』の件の憂さ晴らしをしているんだな、と。
いずみさんは俺の顔をまじまじと見ていた。
「いやぁ。それにしてもあんた、有希子さんに本当似てるわ。顔立ちはもちろんだけど、持ってる雰囲気や、匂いまでそっくりだ。今、一瞬、昔の記憶がよみがえったよ」
嬉しいやら虚しいやら、複雑な気持ちになる。
「母をよくご存じなんですね」
「そりゃ知ってるさ。有希子さん、うちの兄貴と付き合い始めてからは、よくここにも来てたんだから」
この建物は、よくある「店舗兼家屋」だ。
一階が「鉄板焼かしわ」で、二階が柏木家の居住空間となっている。約20年前、自分の母親が父以外の男と逢瀬を重ねた場所で、俺は今から勤労しようとしている。まったく、おかしな人生だ。
「まぁ、なんだ。その、申し訳なかったね」
いずみさんは気まずそうに耳たぶを掻く。
「うちの兄貴のせいでさ、あんたにはいろいろと面倒かけたでしょ」
「やめてくださいよ」と俺は言った。彼女は俺の人生に訪れた不幸に何一つ責任を負っていない。「いい年をした大人の決めたことですし、残された人間は、僕に限らず、みんな苦しんだはずです。晴香さんも含め」
柏木はもう二度と実の母に会うことができないのだ。
いずみさんは唸る。
「あんたずいぶんしっかりしてるのねぇ。たいしたもんだ。本当に晴香と同じ高校一年生?」
発育の良い柏木に日々そわそわさせられている身からすれば、「あいつこそ僕と同じ高校一年生ですか」と問い返したいくらいだった。
その柏木の声がこちらにも響き渡る。
「優里、お金を稼ぐってのは大変なことなんだよっ! ほら、愛を込めて!」
「晴香、私にだけ恐いって」
怯えた声の高瀬に同情を禁じ得ない。フロアに行って彼女の味方につきたいけれど、今は難しい。太陽と月島の苦笑いの声も聞こえてくる。
「さてと。仕込みに入るよ、悠介」
いずみさんに従い、俺は、大量のネギと紅生姜を細かく切ることになった。いずみさんは隣のまな板で、やはり山盛りのキャベツを一個一個刻んでいく。
「キャベツの切り方はちょいとコツがあるから」と彼女は言う。
包丁を使っているからまな板に意識を注いでいるつもりではあるけれど、母親の残像がどうしても視界にちらついてしまう。
この家には高校生時代の柏木恭一(晴香の父親だ)と俺の母の写真があるというから、「見せて欲しい」と一言言えばきっとそれを見ることは可能だろうし、二人の馴れそめなんかもいずみさんから聞くことができるだろう。
とりとめもなくそんなことをぼんやり考えていると、ふいに「馴れそめ」という言葉が意識の一部に引っ掛かった。
もしかすると俺はそれを知っておいた方がいいんじゃないだろうか? そんな声が天啓のように自分の体に降りてくる感覚があった。しかし根拠はない。知ったところでどうなる、という反対意見も脳裏をかすめる。ネギの飛沫が目に染みる。
「どこに行ったんだかねぇ、あの二人。あんたにもまったく心当たりないんでしょ?」
いずみさんのその質問で、何かが吹っ切れた。迷うなら前に進もう。多少の痛みは覚悟の上だ。
柏木恭一と俺の母・有希子の逃避行には、依然謎が残る。話を聞くことで何かの取っ掛かりにはなるかもしれない。
俺は一旦手を止め、「いずみさん」と呼びかけた。
♯ ♯ ♯
「もうね、大恋愛」といずみさんは言った。
「大がついちゃうんですか」俺はさっそく胸にちくりと痛みを覚える。
「そう。学年一の秀才と、学年一の落ちこぼれの恋物語よ」
予想はつくと思うけど、と前置きした上で「秀才は有希子さん、落ちこぼれはうちの兄貴ね」といずみさんは説明を補足した。そして、記憶を手繰るように目を細めた。
「兄貴は背が高くて体格もがっちりしてたから女にモテたけど、誰かと交際することはなかった。生まれつき心臓が弱くてね。激しい運動は医者に止められてたんだ。『俺は期待に応えられねぇもん』って言うのさ。見栄っ張りな性格だから、デートやなんかで発作で苦しむ姿や薬を服用するところを、女の子に見られたくなかったんだろうね」
「でも僕の母とは深い仲になった」
いずみさんはうなずいた。
「あんたのお母さんもさ、あまり活動的な人ではなかったでしょ? たとえば、旅行とかキャンプとか、そういうのは好まなかったはずだ」
「あまり、なんてもんじゃないです」
動物園に連れて行って、と昔せがんだ時に母が見せた、いびつに曲がった眉と冷えきった目つきを思い出して苦笑した。
「人が嫌い、外が嫌い、ありとあらゆるアレルギー。これで活動的なわけないです」
ははは、といずみさんは憐れむように笑った。
「何かしら通じるものがあったんだろうね、二人には。うちの兄貴も、有希子さんの前ではつよがりを見せずに済んだんだ」
発作に苦しむ男をいたわる母の姿を想像するのは、スマホで本能寺の変を知る羽柴秀吉を思い浮かべるくらい、難しいものだった。俺は母にまともに看病されたことなんて、一度だってないからだ。
「兄貴は高校入学前後から、小説を書くようになってね。私には意地でも見せてくれなかったから、内容はよくわかんないよ? でも賞に応募するくらいだから、それなりのレベルではあったんだろうさ」
立派な図体のわりに、心臓には爆弾を抱える。高校では落ちこぼれのくせに、小説に情熱を傾ける。なんとなく、なんとなくではあるが、柏木恭一という人物の横顔が見え始めてきた。
きっとある種の人たち――その代表格が俺の母だったりするわけだが――を惹き付けてやまない魅力が彼には備わっていたんじゃないか。そう推測する。
「小説の第一の読者は、僕の母だった」と俺は言ってみた。
「鋭いね、血ってやつかい」といずみさんは言った。「そうさ。うちの二階の、今ちょうど晴香が使っている部屋で、兄貴と有希子さんは放課後になると毎日のように小説について議論していたね。兄貴、『有希子の指摘は耳が痛いが、もっともだ。まったく、あいつは優秀な編集さんだよ』って言って笑ってたっけ」
俺の父が市の図書館に放火をしたのは、母が足しげく通っていたから、というのが最たる動機だった。
では、母は何を目的にして図書館に行くことを日課にしていたかと言えば、もちろん読書か、それに準ずる何か、ということになるだろう。まさか折り紙講座や空襲体験を聞くために行っていたわけではあるまい。
そして高校時代の柏木恭一と母を結びつけたのは――二人の間にあったのは――小説だった。
母は恋人として読者として、恭一の小説を磨き上げるため、助言を与え続けたのだ。この建物の二階で。
ばらばらの珠に一本の糸が通り、一連の数珠になるように、俺の中でも情報の断片が一つにまとまっていく感覚がある。抜け落ちている珠も依然多いけれど、それでもぼんやりとつながりが見えてきた。
「息子のあんたには悪いけど、有希子さんってさ、なんだか冷たい印象があるでしょ?」
「冷たい印象しかないですよ」本心なので、すぐ口に出てきた。
「同じ女だからわかるけど、そんな有希子さんでもね、うちの兄貴には相当惚れ込んでいたみたいなんだわ。目がね、もう、熱を帯びていたよ」
「二人は惹かれ合っていたんですね」
「とても惹かれ合っていた」といずみさんは修正した。「結局兄貴の小説は大きな賞を取ることはなかったけど、二人は高校卒業まで、そんな風にそれはそれは仲睦まじく過ごした。本当にね、大恋愛だよ。てっきりそのまま結婚することになるんだろうと、私もうちの両親も思ってたんだけどね……」
そこまで言うと、いずみさんは一旦包丁を置き、両手を振ったり揉んだりする。疲労が溜まってきたらしい。
「二人に何があったんですか?」俺も手を休めて尋ねた。「そんなに親密だった二人は、どうして別れて、それぞれ他の人と結婚することになったんですか?」
俺の父は母よりは二歳年上で、なおかつ鳴桜高校の卒業生ではない。今いずみさんから聞いた話の流れからすると、いったい母の人生のどこで彼が登場することになるのか、まったく考えが及ばない。
「それがね、わからないんだよ」といずみさんは肩をすくめて答えた。「二人がなんで別れたか、詳しいところはわからないんだ。見栄っ張りの兄貴はどうしてもそれを教えてくれなくて。『別れたよ』――聞けたのは、その一言だけだ。鳴桜高校の卒業式の日だった。ただね、泣いてたよ。柄でもなく、わんわんと。大号泣。後にも先にも、兄貴が泣いているのを見たのはあの時だけだ」
いずみさんはその後、恭一は高校時代のクラスメイトで市役所に勤務していた女性と結婚したと教えてくれた。その女性が、すなわち、もうすでに亡くなった柏木晴香の実母ということだ。
俺はためしに父の名前を出してみたが、「聞き覚えがないわ」といずみさんに首を傾げさせるだけだった。




