第13話 色彩を欠いた風景、君が誇る風景 2
息が詰まりそうな、いや、実際に詰まる、きわめて険悪な雰囲気が夏の熱気と共に立ち込める中、いよいよ来月の野外フェスに向けての本格的な練習が始まった。
とは言ってもプロを志すほどのドラムの腕前である太陽、そしてピアノをやっていたキーボード担当の高瀬組と、担当楽器に触れるのは今日がほぼ初めてとなる俺と月島では、その技量に雲泥の差がある。
まずは俺たち弦楽器組が一定のレベルまで達することが最初の目標として設定され、その指導に、あらかたの楽器の基礎は会得しているという太陽があたることになった。
俺と月島は並んでそれぞれギターとベースをたずさえ、基本のコード、弦のおさえ方、譜面の読み方などを自称“生まれながらのミュージシャン”殿に教わっていく。
思いも寄らなかった弦の固さに、俺の指が悲鳴を上げ始めてしまう。それを口にすると月島が「私の方が弦が太くて大変なんですけど」とすっかり赤らんだ細い指を広げて言うので、俺は口をつぐむしかない。
俺と月島が太陽の指導を受けているあいだ、高瀬は渡された楽譜をたよりにキーボードの練習に励み、柏木はステージでの立ち振る舞い方を学ぶべく、女性ボーカルのライブ映像が収められた動画をスマホで見ていた。
柏木は気づきが多いらしく「へえ」とか「おお」とか独り言をつぶやき、メモを取りながら動画を見ていたが、高瀬は無表情で淡々と練習を続けていた。彼女が奏でていたのはとても乾燥した音色だった。
楽器こそ違えど、同じスタートラインをきったはずの俺と月島ではあるが、じょじょに成長の度合いに差が出てきた。
言わずもがな、先んじたのは不器用な俺ではなく、指の痛みにもめげることなく練習に励んでいた月島である。
はじめはおぼろげな音しか出せなかった俺たちだったが、次第に月島のベースからは、はっきりとした音が聞こえるようになってきた。
「ギターはともかく、ベースは間に合わんかもしれん」と不安を口にしていた太陽もこれには舌を巻き、月島に最大限の賞賛を送ると、俺には奮起をうながした。
いったい月島のどこにベースを弾く素養が眠っていたのかはわからないが、とにもかくにも要領を一度掴んだ彼女の上達ぶりといったら、隣で見ていて敬服に値するほど著しいものだった。
コードごとの指の移動もしなやかで小気味よく、なにげない脚と首の動きで、巧みにリズムも取れている。長い時間連続して弾奏することはかなわないが、それでも入門用の楽曲の四小節目までなら、すぐにそらで弾けるまでになった。
月島が楽器を自在に操ることに喜びを見出しているのは、「結構面白いね、これ」と言って白い歯を見せることからも明らかだった。
そうしてしばらく時間は流れ、最大の懸念パートだったベースが本番までになんとかなりそうだという嬉しい誤算に、太陽はえらく上機嫌だったが、だからといって室内の重苦しい空気がどこかへ消え去ることはなかった。
むしろ、時間が経てば経つほど、その密度は高まっているように感じられた。
我々の正式メンバーに加わったとはいえ、いまだ素性のよくわからぬ月島涼の存在。
期末テストが終わったばかりだというのに、俺と高瀬にひとつの会話も無い違和感。
高瀬がまとい続けている、柏木でさえ声を掛けられない剣呑とした雰囲気。
それらが相互に影響し合って、いまだかつて体感したことのない強い緊張感を俺たちの間に発生させていたのだ。
誰もそれを表だって口にはしないものの、長く続く出口の見えない緊張状態に、誰かの精神が限界を迎えるのももはや時間の問題のように思えた。
まるで第一次世界大戦前夜のバルカン半島のような、何が起きてもおかしくない状況下に俺たち五人はあり続けたのだった。
――そしてついに、火薬庫に火が放たれる。
♯ ♯ ♯
「おいおい悠介。得意なのは勉強だけか? 頼むよ、おい」
練習を開始して二時間が経過した。
いまだ納得いく音が満足に出せない俺に、太陽は冗談めかして言う。俺を槍玉に挙げて室内のムードを少しでも良くしようという狙いもあるのだろうが、女性陣三人は誰一人としてそれに反応しない。これでは、腐され損である。
「だから俺は自信がないと言ったんだ」投げやりな言い方にだってなる。「なぁ太陽。今からでも遅くないから、やっぱり誰か新しい人間を見つけた方がいいんじゃないか?」
初心者向けと言われるコードすらうまく弾けず、早くも嫌気が差し始めたのだ。それを聞くと太陽は周囲を見遣ってから、俺の耳元に顔を寄せてささやいた。
「んなことできるわけねーだろ。なんだよこの空気。さっきからずっと、胃がキリキリ痛んで仕方ねーよ。今でさえこうなのに、ここに更に新メンバーってなると、それこそもうバンドどころじゃねぇっつーの」
それはもっともだと共感した俺は、自分を奮い立たせて、指先と六弦に意識を注ぐ。太陽が俺から離れたのを見て、今度は月島が彼に声を掛けた。
「ねぇ葉山氏。ここがどうしてもうまく弾けないんだけど」
悩ましげに譜面を指さす月島。どうやら初めて壁に突きあたったらしい。問題の箇所を確認した太陽は「ははっ」と、包容力のある笑みでそれに応じた。
「ここはな、実は最初の難関なんだよ。始めて間もないのにここまで到達してくれただけで感無量だよ。こんにゃろ、悠介も見習え」
神がかりの上達を見せる月島と比べられても困るが、文句を言えた立場ではない。太陽は口頭で月島に指導を始め、月島はそれに倣って指を動かしていく。しかし、よほど難しい場所なのだろう、いつまで経っても、隣で聴いていて音色が改善することはなかった。
「うーん。どれ、一肌脱ぎますか」
口頭ではなかなか伝わらないと判断したのか、太陽は指使いをじかに教えるべく、月島の背後から覆い被さるようにして、彼女の前方にあるベースに向けて腕を伸ばす。
「ちょっと失礼するぜ」
無論太陽は、月島が自身では制御不能のとある苦悩の中にあることを知らない。二人の体が触れ合いそうになる。俺は思う、「まずい」。
「やだっ!」
叫声があがり、月島の右手が高速で太陽の顔目がけて飛んでいく。
太陽はベースに伸ばしていた左手の掌を咄嗟に盾に変えて、月島の右手の拳を受け止めた。あと1秒防御に入るのが遅ければ、その整った鼻筋がねじ曲がっていたかもしれない。
「どういう……ことだ?」
太陽は左手を広げたまま、二の句が継げない。
「神沢……」
月島がぼそっとつぶやき、俺の肩に寄り掛かってきた。肩が上下に揺れ、口元からは乱れた呼吸音が聞こえてくる。
月島に悪いと思いつつも、この状況下で気になってしまうのは、やはり高瀬と柏木の眼差だ。
俺はおそろしくて二人がいる方に顔を向けることができない。しかし間違いなくこの光景は彼女たちの視界に収まっているはずだ。
ほどなくして、床を蹴るようにして歩く足音が室内にとどろいた。こちらに向かっている。その足音の主はどう肯定的に考えてみても、穏やかな心情ではない。
「ちょっと、月島さん! いい加減にしなさいよ!」近づいてきた人物は案の定、肩をいからせていた。柏木だ。「葉山君にはあんな強い拒否反応を示したくせに、なんなの、悠介にだけはベタベタして。弱い子ぶってるの!?」
今にも俺から月島を引き剥がさんとするほどの勢いで、柏木はわめいた。月島はまだそれに応じることができない。やむを得ず、俺が口を開く。
「柏木。これは、その、仕方ないんだ。月島は決して、演技をしているわけじゃない。複雑な事情が背景にあるんだよ」
「なによ、複雑な事情って?」
「いや、それは……」
その先を簡単に話せるわけもなく、俺は言い淀む。当然、柏木は納得がいかない様子だ。
「悠介も悠介だよ! 月島さんのこと庇うとか、意味わかんない! ホントはその子の言ってた通り、昔付き合ってたとかじゃないでしょうね?」
「付き合ってはいない!」
必要以上に大きな声で返す。遠くにいる高瀬の耳にもきちんと届くように。
「俺は誰とも交際したことなんかないよ!」
「とにかく、今すぐ悠介から離れなさいよ!」
月島が身体を離すのをしっかり確認してから、柏木は太陽に声をかけた。
「ねぇ。この子を本当に受け入れるの? こうなったらあたしがベースやるからさ、もう一回考え直さない?」
「おい柏木……あんまり角が立つような言い方するなよ」
太陽が言って、俺の方へすがるような視線を寄越す。だが頼られても、申し訳ないが、困る。一度柏木の心に宿った炎を鎮火する術など存在するならば、むしろ俺が教えて欲しいくらいだ。
「だいたいがおかしいのよ」と柏木は息巻く。「あたしたちって、そもそもどういう集まりなんだっけ? 葉山君、言ってみなさい」
指名を受けた太陽は、軽く舌打ちしてお馴染みのフレーズを返した。
「よくできました。そうなの。それぞれがそれぞれの〈未来〉の実現のため協力し合う――それがあたしたちの活動方針なの。悠介も葉山君も優里もあたしも、こう見えても未来のためにいろんなものと闘っている最中なわけ」
途中参加してきた身のくせに、あたかも発案者であるかのように、柏木は威張る。
「それじゃあ月島さん。あなたはいったい何と闘っているの? どんな未来を望んでいるの? そういうのが無いのに、あたしたちの輪に入ろうなんて、それは筋が違うんじゃない?」
月島はとてつもない難敵と闘っているし、きちんとした未来像も出来上がっている。俺はそう心でつぶやく。
柏木は迫る。「どうなの、なにか言いなさいよ」
「柏木、あまり月島を追い詰めるな。彼女には彼女なりに抱えているものが……」
見るに見かねて俺が口を開くも、月島の右手がそれを制した。
「もういい、神沢。ありがと。あとは自分で話す」
「おい、ムリするなって」
彼女は俺の心配をよそに背筋をぴんと伸ばすと、全員の顔を見渡してこう言った。
「私、中学の時に強姦されかけたの」
「ご」と一語発して口に手を当てたのは柏木だ。それもどうせ嘘なんでしょ、と言いたげなようでもあったが、とにかく彼女はその後、黙った。太陽と高瀬も何も喋ることができない。
「あくまで未遂。されかけた、だから」
月島はそれから、実家のせんべい屋の跡取りがいないことに始まり、その役割を担えるのは世界で俺一人しかいないというところまでを一本の線にして、いたって簡潔に語った。
中学2年時の事件に関しては、さすがにその詳細まで打ち明けはしなかった。「未遂で済んだ」というだけで充分だったし、その一言の奥に潜むものをほじくり出すような真似をするほど、暗愚なメンバーたちではない。
「そういうわけで」と少し戯けた口ぶりで月島は言った。「私の望む未来は、神沢と東京で一緒に暮らす日々ってことね。その実現のために、みなさん、協力してくれるのかな?」
「冗談じゃないよ!」と言って柏木は月島の前に仁王立ちした。「悠介を独占するような未来に協力できるわけないでしょ!」
わずかな沈黙の後、月島はくすくすと笑い始めた。そして柏木の台詞をゆっくりと繰り返した。「悠介を独占するような未来」
「なによ、気持ち悪いね」柏木は唇を突き出す。
「薄々気付いてはいたけどさ」月島は細い指を立てる。「やっぱり柏木さんも、神沢のこと好きなんだ」
心中を言い当てられた柏木は絶句し、みるみる顔を紅潮させていく。人のことを言っている場合ではない。俺の顔だって、鏡で見れば赤らんでいるに違いない。
「あらら」月島はわざとらしく肩をすくめる。「その反応は、バラしちゃまずかったかな?」
こりゃまずいぞ、と俺は眉をひそめる。柏木の気持ちを俺と太陽がここで改めて耳にする分には、なんら困った事態にはならない。なぜならもうとっくに知っているから。
問題は、高瀬だ。
彼女は柏木に気になる異性がいることは把握していても、それが俺であるということまではまだ知らない。
ただでさえ月島の登場によってすきま風が吹き始めた俺と高瀬の関係に、一点の確実な風穴を空けるには充分すぎる情報を彼女に与えてしまうことだけは、どうしても避けたい。
俺は心から祈る。柏木、今この場所ではどうか否定してくれ、と。なんなら幻のきなこメロンパンを毎日おごってやってもいい、と。
しかし祈りなんていつだってどこにも届かないのが、悲しいかな俺の運命なのだ。
柏木は迷いを断ち切るように一息つくと、高瀬にも聞こえるような声量で「そうよ」と認めてしまった。
「そうよ。あたしは悠介のことが好きだよ! 悠介とは運命の赤い糸で結ばれてると思ってる! 他の誰にも悠介を渡さないから!」




