第13話 色彩を欠いた風景、君が誇る風景 1
夏休みの到来までに立ちはだかる最終にして最大の試練である一学期末テストが終了し、校内はどこまでも解放感に包まれていた。
これといった取りこぼしもなく一定の好成績を確定させた俺も、これで心置きなくロングバケイションへ、と言いたいところであるが、そうはいかないのがこの夏の憂いだった。
俺たちの秘密部屋にやぶから棒に現れ、俺とは昔「恋人同士だった」などとでたらめをのたまった月島涼。彼女こそがその憂いを生んだ元凶である。
偽りの宣言を終え全く悪びれる様子もなく、夕涼みでもしているかのような顔で佇む月島を尻目に、俺は渾身の弁明に追われる羽目となった。
俺と彼女は中学時代のクラスメイトという間柄でしかなく(命だ魂だ、と話せる雰囲気では、まるでなかった)それ以上の関係ではないこと。
結婚話があったのは確かだが、その求婚を了承していなければ、彼女の実家のせんべい屋を継ぐ意向も俺にはないこと。
俺はそれらをじっくり他の面々に説明した。
結局すぐに誤解は解け、これは東京に俺を連れ帰らんと目論む月島の茶番劇ということで、彼らには納得してもらえたかのように思えた。
ただ一人、高瀬優里を除いては。
俺の解説を聞いて曇りが顔から取れた太陽、柏木とは異なり、高瀬だけはどこか釈然としない面持ちで俺に視線を向けていた。
それは心なしか俺を試すような、あるいは何かを問い質すような疑念に満ちた眼差しだった。月島の未来へ対する思い、そして過去の受難を耳にした俺の心に、わずかばかりではあるがゆらぎが発生したことを、彼女はまるで見抜いているようだった。
何はともあれ願ってもなかったベーシストの登場を受け、太陽は月島をバンドだけではなく、我々の集まりの新メンバーとして受け入れたいという考えを表明した。
ベースを弾ける人がいなければ、8月の野外フェスの舞台に立てなくなることを知っている高瀬、柏木の両人は他でもなく太陽がそう言うならばとそれを了承し、月島は正式に5人目のメンバーに加わることとなってしまった。
俺が運命を感じ、強く心を惹かれ、同じ未来を志すと誓った高瀬優里。
俺に運命を感じ、俺を自身の未来に組み込む自信を胸に秘める柏木晴香。
俺に三年前から思いを寄せ、自らと家族の未来を俺に託した月島涼。
こともあろうに、この三人が「互いが互いの手にしたい未来の実現のため協力し合う」旗印の下に結成された共同体でその顔を突き合わせることになろうとは、どんなに有能なブックメーカーの社員だって予想できなかっただろう。
いずれにせよ、月島の加入によって俺はこれまでと何かが変わってしまうのではないかという不安の種を抱えることになった。
そしてその不吉な予感は当たり、高瀬の俺に対する態度に、ある変化が見られるようになってしまったのである。
月島の乱入の翌日、テスト期間に突入したその日、高瀬は教室で俺と目を合わせてくれなくなった。
それまでだって頻繁にアイコンタクトを取り合っていたわけではないけれど、少なくとも放課後に仲間として一緒に集まるようになってからはふとした時に視線が交わると優しく微笑んでくれたし、それはヒカリゴケの洞窟での一件を経てからはより顕著になっていた。それがはたと無くなってしまった。
俺は高瀬が見せてくれるその微笑みがひときわ好きだった。誰にも知られることのない二人だけの秘密を共有しているんだという秘匿性を含んだ、悪戯っぽくていくらか官能的ですらあるあの笑みが。
それがあるだけで放課後に高瀬と会えない日でも心が花やぐのを感じたし、温かい気持ちになることができた。そんな護符みたいな笑顔を俺は見ることができなくなってしまったのだ。
二日三日と過ぎ去り、高瀬と視線が交差しないのは、どうやら偶然ではないということがわかってきた。明確な意図が、そこには存在していた。
神沢君と目を合わせてはいけない、彼を意識してはいけない――そんな言わば、戒めのような思考が、高瀬の視線の一切を決定づけているように感じられた。
今回の期末テストは俺と高瀬にとって、様々な意味を持つものだった。
高瀬が本気で大学を目指すと宣言して迎えた初めての試験であり、俺が彼女を大学に行かせると誓って迎えた初めての試験であり、共に地元の国立大学・鳴大を第一志望に据えると決まって迎えた初めての試験だった。
一学期中間の遅れを取り戻すべく、数学の教えを乞うてきたことだってあり、俺は高瀬がそこを理解できているか心配だったりする(数学は高瀬の唯一の弱点だ)。
総合すれば高瀬と膝を交えて話さなければいけないことが山積していたのがこの7月であり、目が合わないなんていう初歩的な問題であれこれ頭を悩ませている場合ではないのだが、それが他でもなく彼女の意思が生んだ結果だというのならば、俺は彼女に伝えたかった言葉を心にしまい込まねばならなかった。
月島の登場が、もしくは彼女の放言が、高瀬の心にどんなささくれを生み出したのかはわからない。
ただどのような質のものであれ、そのささくれはそうは簡単に治癒することはないように思えた。そしてそれを放置すれば、化膿してもう二度と元の状態には復元できなくなってしまうような気さえした。
蝉がその存在を世界に刻みつけるようにこぞって鳴き始めた7月中旬、俺は何かしらの善後策を講じる必要に迫られていた。
取り返しのつかない事態になる、その前に。
♯ ♯ ♯
期末テストの最後の科目を終え課外活動が解禁となった放課後、重い気分のまま秘密基地を目指して廊下を歩いていた俺の目に、とある人物が映った。ひざが、きれいだ。
思わず目を逸らすもすぐに彼女は視界に入り込んできて、「暗い」と言った。
「テストが終わったばかりなのに、校内でそんな絶望的な顔してるのキミだけじゃないの、神沢」
「誰のせいだと思ってるんだよ、誰の」
俺は呆れてそう返した。彼女もさっそく太陽から招集を受けたのだろう、俺の隣に並ぶと歩調を合わせるようにして歩き始めた。
「ごめん。あれ、マズかった?」
「マズイなんてもんじゃない」面白くないので、皮肉の一つでも言ってやることにした。「この一週間ほどお前のせいで、まともに飯が喉を通らない。結果、3㎏痩せて、少し身軽になった。そういう意味ではありがとうと言った方がいいかもな」
「どういたしまして」と彼女は受け流すように言った。「でも、あの日のおかげで、私はスッキリしたな。神沢が私の提案を断った理由がはっきりしたもん。言ってくれれば良かったのに。一言、『好きな人がいるんだ』って」
「別にそれだけが理由ってわけじゃない。あらゆることを考慮に入れた結果、出した結論だ」
「でも、最も大きな要因ではある」
月島は奥行きのある瞳でこちらの顔を覗き込んでくる。俺がなにも答えないでいると彼女はメモ帳かなにかを開くような仕草をして話し続けた。
「名前は高瀬優里さん。ここ数日ちょっと調べてみたけど、うちのA組でも本気で狙っている男が5人ほどいる人気者だ。可愛くて性格もおだやかで、勉強もピアノもできる、この街きってのお嬢様。あはは、男って、そういう女の子好きだもんねぇ」
月島のリサーチだと高瀬は苦労知らずの箱入り娘という人物像のようだが、あの子はあの子で実は大きなものを背負っているんだぞ、と内心で高瀬の肩を持った。
「そして、神沢が高校に入ってから、やけに忙しかったワケもわかった。あの集まりね。『それぞれがそれぞれの未来のために協力する』と。うーん、えらく壮大だ。すごいね」
それは、たとえば、浜辺で拾った瓶に入っていた宝の地図に目を輝かせる子どもに向けて、母親がとりあえずは言う「すごいね」に似たニュアンスがあった。
そんな話をしているうちに目的地に着いていたらしく、気づけば目の前は旧手芸部室だった。
俺はいつもよりいくぶん緊張して、そして何が起きても卒倒してしまわぬように気を引き締めて、ゆっくりと扉を開いた。
♯ ♯ ♯
「よー、この日を待ちくたびれたぜ。いよいよ、バンドの夏の幕開けだ!」
長机と椅子は隅に片付けられ、部屋の中央にはドラムセットが一式据えられている。シンバルの位置を調整していた太陽は、テスト期間中に教室では決して見せることのなかった淀みない笑顔をこちらに向けて、俺たちを歓迎した。
教室の窓際には立派な電子キーボードが置かれていて、高瀬はそこでピアノの指使いを思い出すかのように、演奏の真似事をしていた。
彼女は手を止めてこちらに顔を向けるも、見てはいけないものを見たかのようにすぐさま視線を元に戻した。
「あらま。高瀬さん、ご機嫌ナナメだ」
隣で月島がくすっと笑ったことで、俺はようやくはっとする。なぜ今の今まで気がつかなかったのか。この禍事を引き起こした張本人と一緒にこうして顔を出しては、事態の好転など望めるわけがないではないか。
俺が自分の愚鈍さを猛省していると、マイクスタンドの前でボーカル気分に浸っていた柏木が不機嫌そうに腰に手を当て、こちらへと近付いてきた。
「遅いじゃない、悠介。今まで何してたのよ」
掃除が長引いたんだ、と俺が正直に答えるより先に、月島が口を開いた。
「わざわざ私のことを迎えに来てくれてたんだよね、神沢」
部屋のムードが途端に凍り付く。思わず隣を見る。そこにあるのは、至って平静な月島の横顔だ。これはなかなか肝の据わった悪女なのかもしれない。
「ちょっと、悠介!」柏木の叫声に身がすくむ。「あんたたち、深い仲じゃないんだよね? それなのに、なんなの、これ!?」
「神沢は私を案内してくれたの」月島は俺が言葉を挟む余地を与えない。「まだこの場所に慣れてないだろうってことでね」
月島は柏木に対峙するように一歩進み出る。身長では柏木に劣るが、存在感では決して引けを取ってはいない。
「違うぞ、柏木」と俺は機を見て言った。「月島とは、たまたま廊下で会っただけだ。俺はそんなに気の回る人間じゃない」
「わかってる! 悠介は黙ってて」
これは前科のある月島の創作であると見抜いていたようで、柏木は抉るような視線で月島を睨みつける。
俺の目と鼻の先で飛び散る火花。その火の粉はいずれ、俺に降りかかることになるんだろう。
柏木は言った。
「月島さん……だっけ? そうやって、適当なことを言ってみんなを振り回すの、やめてくれない? 口から出るのは嘘ばっかり。ちょっとどこかおかしいんじゃないの」
テストが終わった解放感か、はたまた純粋に月島に対する不快感がそうさせるのか、柏木のボルテージは早くも最高潮だ。
俺はふと、視線を窓際に転じる。キーボード越しの高瀬も何事かとこちらを眺めていたが、俺の眼差しに気がつくと、はっとして鍵盤へと意識を傾けてしまった。
もうどうしようか、とため息を吐く。このまま帰ってしまおうか。もしそうすることができたらの話だが。
俺が前途多難な一日を、いや、一夏を予感してげんなりしていると、太陽が「こいつは大変だ」とばかりに慌てて小走りでやってきた。
「おいおい、お二人さん。しょっぱなからやり合わないでくれよ。月島さんはもうちょい謙虚に、柏木はもうちょい寛容になろうぜ。悠介も、いつまでもこんなところに突っ立っていないで。ほれ、早く練習を始めようじゃないか」
それを聞くと柏木と月島は、どちらからともなく緊張状態を解き、素っ気ない顔をして練習の準備に取りかかった。
入り口に残された俺と太陽は、互いに先行きを案ずる表情で顔を見合わせると、同じように三人の女の子を順に見遣り、やはり同じように深く息を吐き出した。
「なぁ、太陽」
「どうした、悠介?」
「バンドって、協調性が必要だよな?」
「まぁそうだな」
「心を一つにしなきゃいけないよな?」
「まぁそうだな」
「今のままじゃ、まずいよな?」
もう一度「まぁそうだな」と太陽は言った。その声に張りはない。




