第12話 この聖域に立ち入ることは決して許さない 4
※今回は性暴力に関する表現があります。苦手な方は読むのをお控えください。
今から2年前、テニス部の練習を終えた当時中学2年生の月島は、一人で下校していた。まだ春先だったということもあって、夕方の5時を少し過ぎた頃でも街は暗く、か細い街灯の光を頼りに、自宅を目指さなければならない。地方都市の住宅街は、驚くほど人通りが少ない。
やがて自身の後方に不自然な動きをしているワゴン車があることに、月島は気が付く。彼女の背中と一定の距離を保ち、それはついてくる。はじめは道に迷っているだけかと思ったが、暗いのにヘッドライトが灯っていなかったことが、少女の防衛本能を叩き起こした。
月島が駆け出すと、後方のワゴン車も加速したことで、彼女の心は恐怖で満ちた。
道幅が狭く、複雑に入り組んだ住宅街の中だ。いざとなれば、小回りの利く私に分があるだろう。そう前向きに捉え、なんとか気持ちを奮い立たせる。しかしテニスの練習中に軽くひねった左足首が思うように動いてくれず、車を撒くことができない。それどころか、その差は一気に縮まってしまう。
ワゴン車のドアが開かれる。後部座席から男が飛び出してくる。体臭のきつい、下品な顔立ちの中年男だ。月島は車に押し込められる。ずんぐりとした体型のくせに、動きは俊敏で、とても手際が良い。手慣れている感じすらある。ドアが閉められる。車は走り出す。「おとなしくしろ」と体臭男が言う。「おとなしくしていられるか」と月島は思う。しかし彼女の必死の抵抗は、男の強い力によって呆気なく抑え込まれる。
車は三分ほど走り、どこかに停車した。人目につかない、頃合いの場所ということなのだろう。走行中、体臭男は月島の両腕を掴んで動きを封じていただけで、それ以上の危害を加えはしなかった。そこに、ぬるっとした、なんとも陰湿な余裕を感じ、月島は一旦は覚悟を決めたという。
ドライバーを務めていたもう一人の男が、運転席を降りて後部座席にやってくる。その男の手には、ビデオカメラが携えられていた。
体臭男とカメラ男の間には、明確な主従関係があった。体臭男が年齢も立場も上だ。カメラ男は体の線が細く、ひ弱で、体臭男に頭が上がらない様子だった。「さあ、お楽しみの始まりだ」体臭男は言った。口まで臭いのだから、救いがない。
* * *
「あの時はちょうど」俺の隣で月島がつぶやく。「クラスでも部でも、他の子たちが適当な相手を見つけて次々にバージンを捨て始めた頃でね。私なんかは、それでいいのかな、ってなんとなく疑問に思ってたんだ。そういうのって、古くさい感覚なのかもしれないけれど」
まだら模様の野良猫が西の入り口から公園に進入し、俺たちの前を不機嫌そうな目つきで横切って、東へ去って行く。
月島の瞳には、おそらくその光景は映っていないんだろう。
彼女は身じろぎ一つせずに続けた。
「私はてっきり、そういうことは神沢とするものだとばかり信じ込んでいたから。なんでこんなわけのわからない状況でわけのわからない男達と、って思ったよ。強く思った」
* * *
体臭男の命令を受け、カメラ男は撮影を試みる。しかしどういうわけか録画が開始できないようで、体臭男は月島に馬乗りになった状態のまま、目を血走らせて憤り始めた。「何をやっているんだ! 早くしろ!」
「申し訳ありません」カメラ男は怯える。「貸してみろ」なにがなんでも撮影しなければいけないのか、体臭男はビデオカメラを奪い取ると、慌てた様子でカメラをいじくり始めた。
思わぬかたちで両腕の拘束が解かれることになった月島が、ふと視線を座席の足場に転じた時、その視界にある奇妙な物体が映り込んだ。それは――どんな目的のためにそんな物体がこの世界に存在するかはわからないが――男性器を象った銀色に輝く鉄の塊だった。
彼女が手を伸ばせば、充分届く位置に、それはある。
* * *
「国や都から表彰を受けているとは言ったって、一せんべい屋に過ぎないのよ、私の家は」そう言う月島の声は、わずかに震えていた。「私は外交官や上場企業の社長の娘ってわけじゃない。深窓のご令嬢というわけじゃない。どこにでもいるような普通の女の子だ。でもね、そんな私だってね、守らなきゃいけないものはある。踏み入れさせちゃいけない場所って、あるんだよ」
できることならば、俺はこんな話は耳にしたくはなかった。
月島とは深い仲ではないとはいえ、彼女は俺にとって群像の中の一人というわけでもない。それどころか命の恩人だ。そんな女の子の凄惨な体験は、聞けば聞くほど気が滅入った。
でも他ならぬ月島自身が俺に聞いてもらう必要があると言うのだから、俺は耳をふさぐわけにはいかないだろう。
「神沢の顔が思い浮かんだんだ」と彼女は隣で言った。「たとえその男を殺めることになったとしても、私は自分の大切なものを守ることに決めた。私の中にある、この聖域に立ち入ることは決して許さない。私は手を伸ばして、歯を食いしばった」
* * *
少女は鉄の塊をつかんだ右手を、自身の腹部に乗っている醜い男の頭部目がけて、渾身の力で振り抜いた。ちょうどテニスのストロークショットを決めるように。耳のやや上、左の側頭部にそれは命中する。
「ごっ」という鈍い音がして、男はうめき声を上げる。彼は持っていたビデオカメラで月島を殴り返そうとしたが、振りかぶったところで、ふらっと、そのまま、後方に倒れ込んだ。なにせ殴られた場所が場所だ。
そのようにして、月島はついに自由を獲得する。
少女はすぐに車のドアを開け、外に脱出し、全力で走り出した。鍵をかけていなかったことが男たちからすれば痛恨のミスだった。鞄もテニスラケットも車内に置いたままだ。さいわい、住所や氏名が記載されている生徒手帳は制服の内ポケットにある。そのラケットは格上の選手から勝利をあげた思い入れのあるものだったが、そんなことに執着している場合ではない。
体臭男は、あの調子ではおそらく追っては来られまい。問題は気弱な手下だ。奴がもし諦めていなかったら――君主の負傷に歪んだ正義感が喚起されたとしたなら――私の左足は不完全だ、おそらく逃げきれはしないだろう。今度という今度こそ、ひどい目に遭わされるだろう。
結論から言えば、月島のその心配は杞憂に終わった。ワゴン車が動き出すことも、後方から足音が迫ることもなかった。
遮二無二に走り続けて橋の上に差し掛かった時、いまだに右手があの奇怪極まりない物体を握りしめていることに気がつき、彼女は立ち止まった。そして「私はなにをやっているんだ」と自嘲した。「こんなバトンを持って、私はいったいどんな狂ったリレーに参加しているのだ」と。
バトンを渡すべき次の走者は存在しない。少女はそれを橋の下を流れる小川に放り投げた。
* * *
月島の述懐が終わり、俺は口を開くことができなかった。
彼女はベンチに腰掛けたまま唇を真一文字に結び、瞳を閉じてうつむいている。俺にはその姿は、心の深い場所から蓋をこじ開けて引っ張り出してきた記憶を、再びその場所にしまい込んでいるかのように見えた。今度は厳重な鍵を二つも三つもかけて。
いつしか辺りはすっかり暗くなっていた。肌寒さも感じる。月島は隣から右手を伸ばして、俺の左手の甲に重ねた。
「もし他の女の子が私と同じような目に遭ったら、世界中の男が嫌悪の対象になったかもしれない。でも私の場合は、神沢だけは大丈夫だった。なぜかはわからない。あの一件の前から好きだったからなのかな。でもとにかくこうして、キミにだけは触れることができる。世界でただ一人、キミだけは」
「つらかっただろう」と俺は言った。他にどんな言葉も思い浮かばなかった。
月島は否定しなかった。「でもようやくこうして神沢に話せるようになった。思ったより時間がかかったんだ。悪いね、こんな重い話を聞かせて」
かまわない、と俺が返すと「ま、結局なにも卑猥なことはされてないわけだから」と彼女はどこか他人事のように言った。
「勘違いしないでよ、神沢。私は『こんな目に遭って私って可哀想な女でしょ』アピールをしたかったわけじゃないんだ。夜はきちんと眠れるし、食欲もまともにある。一人暮らしは恐くないし、こうしてキミに恋だってしていられる。ただキミに聞いておいてほしかったんだ。それだけ本気ってことだ」
月島は俺の左手の上に置いていた右手に少し力を込めた。
「私はこう見えても、案外、堅実で安定した未来を夢見てるの。東京の実家で働きながら暮らす日々は、最もその理想に近いと言える。そして私がこうして肌に触れることができる男の人は神沢悠介君、どうやら世界でキミだけらしい。身体に触れる度、鼻が折れるような力で殴られる女の婿になんか誰がなってくれる? 私は、私と月島庵の未来のために、神沢を絶対に振り向かせる。キミを必ず東京に連れて行く」
そう決意を新たにすると彼女は俺の左手から手を離し、ベンチから立ち上がって、深い眠りから覚めたかのような背伸びをした。
「あーあ、昨日から今日にかけて疲れたなぁ。なんか身体のあちこち痛いし、帰ったらゆっくりお風呂に浸かって今夜はさっさと眠ろう。神沢もこれからお仕事があるんでしょ? 大学のために」
俺はうなずいた。
今日はここで別れることになりそうな雰囲気が流れたが、あんな話を聞いてしまった後では、このまま月島を一人で家に帰らせていいのか? という気持ちになっていた。
夜道を単独で歩かせるというのは、彼女の抱える問題を知った者として、あまりに無責任じゃないか?
居酒屋バイトに支障が出ることになるが、俺は「家まで送っていこうか?」と提案した。
「心配ご無用。こんなイナカで、さすがに二日連続でナンパには遭わないでしょ」
あっけらかんとしてそう言うと月島は、こちらに背を向けて右手を数度振り、公園から出て行った。
言うまでもなく、ハンバーガーショップで月島の口から〈結婚〉という二文字が飛び出したあたりから、俺の脳裏には春の夜の占いが思い出されている。
俺ともうすでに出会っており、未来に生じた困難に苦悩し、その解決のため俺に助けを求めに来る女の子。
月島はその人物像に見事なまでに一致している。
月島は俺の命を守り、知らず知らずではあるけれども、俺は彼女の魂を守っていた。そして二人は今、比較的平穏な日々を送ることができている。
これは言うなれば、二人は深い絆で結ばれているということに他ならないのではないだろうか?
すなわち、月島涼こそが“未来の君”だという可能性も、もちろん意識に留めなければいけないだろう。
月島が俺に提示してくれた未来は、一聴には現実味の乏しい、突拍子のないものだった。しかし考えれば考えるほど、それはとても自然な3年後以降の自分のあり方のように思わせる、不思議な説得力があった。
――東京。
はるか遠くに存在する巨大都市に思いを馳せ、ふと空を眺めてみる。そこには精密にコンピュータで計算して型取りしたかのような美しい形の三日月が浮かんでいた。
「うちのせんべいにはしるしとして三日月を入れる」月島そうは言った。
過去も血統も学歴も気にせず、匿名性の強い地にてせんべいを焼き、そこに三日月を刻み続ける日々。そんな職人的な生き方も悪くない。そして隣には、いつもあの涼しい顔をしたクールビューティがいるのだろう。うん、全然悪くない。
高瀬、そして柏木の顔が思い浮かび、俺はため息をつく。
月島は実に3年も前から俺のことを気に掛けていたという。もし東京行きの話を高校入学前、つまり、俺が高瀬や柏木と出会う前に聞かせてくれたなら、俺はおそらく二つ返事で、まさしく渡りに船と言うべきこの提案を受け入れていたんじゃないだろうか?
大学に行かないのだから、リスクを冒して居酒屋で働くことはなかっただろうし、であれば、あの老占い師にも遭遇しなかったはずだ。ということは、高瀬への恋心も芽生えなかったわけだ。しかしいかんせん今は……。
巡り合わせの妙ひとつでこうも変わるものかと、俺は笑うしかなかった。どうやら運命の神様は俺を翻弄したくて仕方ないらしい。まったく、悪趣味にもほどがある。どうか他の誰かでやってくれよ。そんな文句も言いたくなる。
メリーゴーラウンドに乗っているみたいに現れては消え、また現れるを延々と繰り返す高瀬、柏木、月島、三人の顔にさいなまれながら俺は、すっかり暮れ果てて静まった街へと歩き出していった。
♯ ♯ ♯
心の隅々まで晴れ渡っているなんていう日は年に一日あるかないかで、直近のその一日とは小学五年時までさかのぼることになる俺だけど、月島の告白を耳にした翌日も、やはり心には深い霧がかかっていた。
彼女の誘いに対し一度ははっきりと断りを入れたわけであるが、その後に明かされた「月島家に婿として入るのが俺でなければならない理由」というのが、その霧を生み出していた。
授業中はほとんど教師の話が頭に入らず、休み時間もどこか上の空で過ごし続け訪れた放課後、俺は太陽の招集を受けていつもの秘密基地に顔を出していた。
明日からは期末テスト期間に突入するため、しばらく放課後に四人で集まることはできなくなる。
試験前、最後の会合というわけだ。
「どうだい、みんな。ベースをやってくれそうな助っ人は見つかったか?」
太陽が期待の光を瞳に灯し言った。
もちろん今日の話題も、夏フェスの向けてのものだった。
昨日俺が担任の篠田先生に呼ばれ、そのままこの部屋へは帰ってこなかった件については、うまくごまかしておいた。まさかいろいろあって中学時代のクラスメイトに求婚されたなんて高瀬と柏木に話せるわけがない。
「楽器が得意な子にあたってみたんだけど」と高瀬は言った。「そういう人はやっぱり吹奏楽部に入っていて放課後は忙しくて、断られちゃった。バンド自体には興味を示してくれたんだけどね」
「そっか。ありがとう高瀬さん。それじゃ柏木はどうだった? おまえも顔は広いだろ?」
柏木は手を振って「残念」と言った。「ボーカルならやってみたいって子はいたけど、ベースはちょっとねぇ。まさかその子をボーカルとして加入させて、あたしがベースをやるわけにもいかないし……」
太陽は腕を組んで唸る。
「ベースは簡単じゃないだけに、一日でも早く担当を決めたいんだが……。悠介はそもそもオレ以外に友達なんかいないもんな?」
「悪かったな」と俺は言った。「なぁ太陽。無学な俺に教えてほしいんだが、バンドってベースがいないとまずいのか?」
それを聞いた太陽は、なっはっは、と手を叩いて笑う。
「まずいなんてもんじゃない。話にならん。ダシを取っていないそばつゆみたいなもんだ。ベースってのは、地味だが超重要なパートなんだよ」
他ならぬ料理での例えだったので、俺は妙に納得した。「なるほど」
「まいったなぁ。オレの夢はここで終わりなのかなぁ……」
太陽はそう漏らすと椅子に座り、干からびた昆布みたいに体を机に突っ伏した。ドラムへの情熱だけは本物であることを、今はみんなよく知っているだけに、彼に掛ける言葉が見つからない。
重苦しい静寂が四人を包む。しばらくして沈黙を破ったのは――これは誰も予想しなかっただろう――部屋の扉へのノック音だった。
俺たちは顔を見合わせる。誰もが訝しがっている。
どこかの部室や準備室と間違うことすらないほど学校の隅に佇むこの部屋に、用事のある学校関係者などそうそういるわけがないのだ。
「誰だ?」太陽が警戒を声に込めて言う。
呼び掛けに応じて現れたその姿にを見て、俺は目を見開いた。
他の三人は「誰この子?」といった様子で、その客人の飄々とした顔を見つめている。
そこにいたのは、月島だった。
「盗み聞きしてごめん」と彼女は言った。「ベース、私がやってあげてもいいけど?」
「本当か!?」太陽が立ち上がる。
「私のパパが、昔、少し囓っててね。子どもの時とか、けっこう触らせてもらってたの。エレキベース」
「なぁ、ミステリアスな君。一ヶ月後の本番までに、なんとかなりそうかい?」
「任せて」
月島は自信満々にうなずいた。そしてどういうわけか、俺の近くにやってきた。
「そのかわり、私もこのグループに入れてもらうことになるけれど」
「なんだって!?」
「当たり前でしょう」月島は途端に語調を強める。「用が済んだらポイなんて、冗談じゃない。なんだかずいぶんと楽しそうな集まりみたいだし」
呆然とする四人を尻目に、彼女は媚びるような声で「ねぇ」と続けた。
「ねぇ、神沢からも、なんとか言ってよ」
親しげに俺のことを苗字で呼び捨てにする女子生徒の登場は、当然の作用として、他の三人の目を丸くさせる。
やがて三人の思いを代弁するように口を開いたのは、柏木だった。
「ちょっと。ずいぶん悠介に馴れ馴れしいじゃない。部屋にもズカズカ上がり込んでくるし。アナタ、何者なの?」
「あれれ?」月島は芝居がかった声を出す。「神沢。この人たちに言ってないの? 仕方ないなぁ」
俺の肩に何かが乗った。それはそっと置かれた月島の右手だった。
おそろしく嫌な予感がした。そしてその予感は当たった。次に月島の口から飛び出した台詞は、穏やかな夏の午後を一変させ、雲の切れ間から一閃の雷光を呼び起こすものだった。
「私、神沢の中学時代の元カノ。昨日、よりを戻して、高校卒業後に結婚することになったの。みなさん、どうぞよろしくね」




