12月 手をつないで
英語の長文問題の採点を終えた優里はうんうんとうなずいた。そして“excellent”と筆記体で解答用紙に書き記した。
「速読がだいぶ身についてきたね。長文問題は時間との勝負。本番でもこの調子でいこう。それじゃちょっと休憩にしよっか」
僕は背伸びをして息を吐き、それから妻の格好をあらためて見た。優里はネイビーのワンピースを着て黒のストッキングを履いていた。首には参観日にお母ちゃんたちがつけるようなパールのネックレスがある。ここ最近彼女が家庭教師をする際は、こうしてよそゆきの装いをするのが恒例になっていた。
「なぁ優里。最近やけに着飾ってるけど、どうしたんだ?」
「だって」と言って彼女は他の家庭教師が来る予定が書かれたカレンダーを見た。「晴香も夏に来た月島さんもバシッと決めてるじゃない。うかうかしてられないよ」
なにを変な心配してるんだか、と僕が返すより先に、それにね、と優里が言葉を継いだ。
「そうだ、ちょっと聞いてよ。ついこないだのことなんだけどさ、私、運動不足解消のために河川敷をウォーキングしてたのよ。広場では4、5歳くらいの男の子がお父さんとサッカーをして遊んでいたんだけど、お父さんの蹴る力が強くて私のところまでボールが転がってきたのね。男の子がボールを取りに来たから、私、軽く蹴って返してあげたのよ。そしたらその子、私になんて言ったと思う?」
「なんだろう?」
「『ありがとう、おばさん』だって」と優里は、この世の理不尽をすべて被ったような顔で言った。「そりゃあね、ウォーキングだから見た目にはそんなに気をつかってなかったよ? でもいくらなんでも『おばさん』はなくない? もし相手が女子高生とかなら、イヤミかなにかで言われたんだなって解釈することもできる。でも4、5歳の男の子でしょう? もう一点の曇りもない純粋無垢な目で言うのよ。それがショックで。その言葉で一気に老け込んだ気分。だからね、いつどんなときも見た目のことで気を抜いちゃいけないなって思ったの」
旦那としてはなぐさめの言葉のひとつでもかけてやる場面だった。
「俺は仕事明けでだぼだぼのスウェット着てぼさぼさ髪の優里も好きだけどな」
「お世辞でもうれしい」
「お世辞じゃないよ」
優里ははにかんでからくすっと笑った。それを見て僕も笑った。
優里は言った。「なんだか、こういうのいいね。愛が生まれてからは話題といえばあの子のことばかりで、なかなか私たち自身のことを話し合うことができなかったから。家庭教師の思いがけない副産物だ」
時計の針は一時を指していた。愛は今頃小学校でクリスマス会を楽しんでいるはずだ。
「決して愛が邪魔っていうんじゃないけどね」と優里は続けた。「葉山君が家庭教師でうちに来るときは奥さんも愛の面倒を見に来てくれるでしょう? あの二人を見てるとたまに思うんだよね。夫婦水入らずっていうのも羨ましいなって」
僕は太陽から聞いた悩みを思い出した。
「それがな、あの夫婦もあの夫婦で大変みたいだぞ――」
「そうなの? 気づかなかった。日比野さんが今でも事故の後遺症に苦しんでいたなんて……」
「太陽のやつ、日比野さんを後遺症から救うまでは医者としての戦いは終わらないって言ってる。ある意味じゃあいつの『忘れ物』だ。なぁ優里。あいつはどうしたらいいと思う?」
彼女は高校時代の授業中みたいに怜悧な顔でそれについて考え、やがて答えた。
「葉山君、日比野さんの植物状態を医学で治したものだから、きっと今度も医学で解決しようとしてる。でも医者として向き合うんじゃなくて、日比野さんの幼馴染みとして――旦那さんとして向き合った方がいいんじゃないかな? 愛情がなによりの薬になると思うけどな」
高瀬がいかにも言いそうなことだ、と思って僕はひそかに微笑んだ。
「今度、太陽が来たらそうアドバイスしておくよ」
彼女は得意げにうなずいた。
「それにしても『忘れ物』か。悠介だけじゃなくて、みんなあるんだね」
「優里はどうなんだ?」と僕は言った。「花見の時は俺が大学に行けていないこと、獣医になっていないことが忘れ物だと言っていたけど、優里個人の忘れ物はないのかな?」
「ないことはないけど……」優里はとたんに口ごもる。「うーん……ごめん、聞かなかったことにして。ない。ないです」
「いやいや」さんざん鈍感だと揶揄された十年前からは僕だってちょっとは成長していた。「その口ぶりはどう考えても『ある』でしょ。変に隠さないで教えてよ」
「えぇ? 恥ずかしいよ……」
優里の頬は年甲斐もなく――ああ、いけない。『おばさん事件』を忘れちゃいけない――ぽっと染まった。それで僕ははっとした。わかってしまった。優里の忘れ物。それは僕の彼女に対する愛だ。そういえば太陽の野郎も指摘していやがった。もっと愛してやらないと、と。うがった見方をすればこのところ僕の前で彼女が着飾っているのだって――。
娘が小学校から帰ってくるまでにはまだたっぷり時間がある。よし、いいだろう。僕は唾を飲み下すと隣の優里を押し倒し、ストッキングに手をかけた。
「ちょ、ちょっと!? どうしたの悠介!」
「俺の愛情が足りないんだろ? さっきの『愛情がなによりの薬』ってのは遠回しに俺にもっと抱いてくれって言ってるんだろ?」
「なにわけのわかんないこと言ってるの! 別にそういう不満が――まったくないわけじゃないけど――私の忘れ物ってことじゃないよ」
僕は目を瞬いた。「そ、そうなの?」
優里は照れる。「悠介が今どうしても『したい』ならしてもいいけど……」
どうしてもということもなかった。僕は勘違いを詫びて妻の体を起こした。
「それじゃ、いったいなんなんだ? 優里の忘れ物って?」
「すごく大人げないことだから言いにくかったの。でも余計な勘違いをされるくらいなら答えよう。……笑わないでね?」
「もちろん」と僕は言った。
「あのね」と優里は言った。「私はやっぱりどうしても悠介と一緒に鳴大のキャンパスを手をつないで歩きたかった。それも同じ学生として。来年の春に悠介が無事獣医学部に受かったとしても、それだけは叶わない。他の人とは違って、私のは取り返すことのできない『忘れ物』なんだ」
それを聞いて僕の胸にはいつしか熱いものが宿っていた。
いくつもの不可能を可能に変えてきた、あの頃のように。
高瀬、その忘れ物、俺が取り戻させてやる。




