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8月 有権者


 その予想外の来客は玄関で応対した優里の顔を引きつらせた。

「な……なんで、うちに来たの?」


「なんでってあなた。わたしゃ、おたくの旦那の家庭教師でっせ」


「それはそうだけど」優里は困惑を隠せない。「東京からパソコン越しにリモートで授業をするんじゃなかったの?」

 

 月島は指を振る。「区議会議員にだって夏休み的なものはあるのよ。まぁ有権者と一緒に盆踊りしてもよかったんだけど、せっかくだから来てやったぜ。夏期特別講習の開講ぜよ」

 

 ただでさえ柏木先生と僕があらぬ関係になりやしないか気を揉んでいる妻は、あからさまに眉を寄せた。すると月島はそれを想定していたかのようにすっと左手を挙げた。薬指には、四月の花見時点ではなかった銀の指輪がはまっている。

 

 僕はもちろん、優里も目を剥く。「え!?」


「まぁそういうことよ」と月島はしれっと言った。「だから奥さん。なにを心配してるか知らないけど、取り越し苦労というもんでっせ」


  ♯ ♯ ♯


 優里がアイスコーヒーを二人分置いて部屋を出ると、月島はつけていた指輪を見てにんまり笑い、それをこともなげに指から抜いた。

「こんなの一つ身につけるだけでキミとふたりきりになれるんだから、チョロいぜ」

 

 僕はコーヒーを吹き出しそうになる。「なんだよ、嘘だったのかよ」


「嘘? これは聞き捨てならないな。誰が結婚したなんて言った? 私はたまたま左手の薬指にたまたまリングをはめていただけ。勝手に結婚指輪と思い込んだキミたちがいけないんだろう」


「策士め」


「普段から駆け引きの世界に身を置いてるもんで」

 月島は前髪を払って笑う。クールなお姉さんといった佇まいは昔も今も変わっていない。トレードマークのショートヘアは東京の美容師に切ってもらっているからか、より洗練されているように見える。涼しげな水色のブラウスにシックなベージュのスカートを合わせていた。


「今でも相変わらず脚フェチなわけ?」

 僕の視線が下に向くやいなや、彼女が尋ねた。


「死ぬまでそうだろうな」

「正直でよろしい」

 

 僕は気恥ずかしくなって政治経済の参考書を手に取った。

「さ、授業を始めよう。今日はたしか地方分権についてだよな。ちょうど月島の得意分野だ」


「まぁそう急くな」と区議会議員は言った。「時間ならたっぷりある。せっかく今日はこうして対面してるんだ。リモートじゃ話しにくいことを聞いてくれないか?」

 

 たしかにまだ朝だった。僕は参考書を置いて話すよう促した。


「去年の選挙で受かったのはいいけど、けっこうキツくてさ。実は議員を辞めちゃおうかと思ってるんだ」


「えぇ?」当然ながら初耳だった。「そんなに議員の仕事って多忙なのか? それとも若さを妬まれて議会でいじめられているとか」


「そういうんじゃないんだ。キミは“票ハラ”って言葉を知ってる?」

「ヒョウハラ? 無学ですまん」


「票ハラスメント。選挙中や普段の活動の時に体を触ってきたりカレシはいないのか、結婚はまだかって聞いてきたり。とくに年配の男の人に多い。自分たちは有権者で、票を入れてやる立場なんだって思ってるんだろうね。セクハラまがいの言動なんて日常茶飯事。胸が小さいってからかわれたこともある。ストーカーみたいに行く先々で待ち伏せしてる人さえいる。まったくさ、社会を少しでも良くしようと思って議員になったのに、そのレベルのことで戸惑わなきゃいけないんだからやってらんないよ」

 

 もちろん僕は彼女が高校時代に男性恐怖症と戦っていたことを忘れていなかった。

「それはたしかにキツいな」

 

 月島はうなずいた。

「これでもさ、ちょっとは良くなったのよ。男の人と物怖じせず会話できるくらいには。でも議員になってまた悪化したみたい。職業柄さ、男の支援者や後援会の人たちと握手しなきゃいけないことも多いのよ。表向きはもちろん笑顔だけど、心の中はしっちゃかめっちゃかになってる」


「今でも俺なら問題なく触れられるのか?」

「実はそれを試したいというのもあって、東京からこうして飛んで来たんだ」

 

 月島はそう言うと、僕の隣に来てそっと肩にもたれかかってきた。僕は今優里が部屋のドアを開けたら家庭内がしっちゃかめっちゃかになるなと思いながら黙って彼女の体を受け止めていた。するとやがて安堵したような吐息が聞こえてきた。


「やっぱりキミは大丈夫だ。居心地が良い。なんでこの場所はこんなに落ち着くんだろう?」

 

 こっちは落ち着かないけどな、と僕は思った。そして次に聞こえてきたのは、ため息だった。


「これじゃ高校時代となんにも変わってないな。あの頃にもっときちんとこの病気に向き合って、しっかり治しておくべきだった。花見の時にはさ、みんなの前ってのもあって見栄張って『幸せ』だと言ったけど、正直そんなに充実した日々は送ってないんだ。まったく、小っ恥ずかしいよ」

 

 忘れ物、と僕は無意識につぶやいた。それから言った。

「なんだ、忘れ物をしてきたのは俺だけじゃないんだな」


「え?」


「月島、恥ずかしがる必要はないぞ。花見の日、見栄を張っていたのはおまえだけじゃない。柏木もだ」

「柏木も?」


「ああ」

 僕は彼女が今でも孤独と戦っていることをかいつまんで話した。すると月島は僕の肩から離れた。


「ふむふむ。家庭を築きたいがなかなかビビッとくる男と出会えない。だから子どももできない。結果ずっとひとりでいる。なるほど」


「なにか良い解決策はないかな?」

「養子をとれば?」と月島はしばし考えてから言った。「今の時代、家族の形なんていろんな姿があるし、なにも配偶者と見つけて子どもを産んで……っていう固定観念にとらわれることはないと思うんだが。あまり知られていないが日本は他の先進国に比べて里親制度がぜんぜん普及してないんだ」


「さすが政治経済の先生」

「いや、それを言うならさすが議員だろ」


「すまんすまん」

「まぁなんだ。今度柏木が家庭教師に来た時にでもこの話をしてみてよ。もし乗り気なら私の支援者に養子と里親を取り持つNPO団体の責任者がいるから紹介してあげられる」

 

 僕はうなずいた。


「もしくは」と月島はニヤリとして言った。「キミが柏木の孤独を埋めてやるんだ。あいつ、今でもキミに未練がありそうだもの。どうよ?」


「優里も娘もいるのにできるわけないだろ」


「ちっ、浮気がバレて修羅場になって二人とも離れたところに漁夫の利でキミをかっぱらおうと思ったのに」


「策士め」と僕は呆れて言った。

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